独文独歩 56

 ベルクソン
 『物質と記憶』

 (抜き書きのみ)

 ■夢みることと生きること

 行動に長けた人間を特徴づけるのは、なんらかの与えられた状況下で、その状況に関係するあらゆる記憶を呼びもどし、援用することのできる敏捷さである。いっぽうまたそのような人間が乗りこえがたい障壁に遭遇するのは、意識の閾に、有用ではない、あるいは無関係な記憶があらわれるときである。まったく純粋な現在のうちに生きること、刺戟に対して、その刺戟を繰りのべる直接的な反応によって応答することは、下等動物に固有なところである。そのように対処する人間は、衝動的な人物である。しかしまた、過去のうちに生き、そこで生きることを歓びとする人間がいたとすれば、かれもまたほとんどおなじように行動に対して適合していない。その者のもとでは記憶が、現下の状況にとってなんの利益もないのに、意識の光のもとへ浮かびあがってくるとするなら、そのような人間は衝動的ではないけれども、夢想的な人物となる。この両極のあいだに位置しているのが、記憶の恵まれた性向というものであって、そのような性向をそなえていれば、現在の状況のしめす輪郭をじゅうぶん柔軟にたどることができ、しかも他の呼びかけのいっさいには断固として抵抗することができるのだ。良識あるいは実践感覚とは、見たところこれ以外のものではないだろう。

 ある意味では、無意識的な物質が有する知覚は、私たちの知覚よりも無限に広大で完全なものなのだ。それは物質的世界のあらゆる作用を受け取り、伝達する。いっぽう私たちの意識は、みずからの機能に関わりのある限られた部分にしか到達しない。意識・外的知覚とは、取捨選択と貧しさが本質である。

 私たちの意識的な知覚に必然的にまとわりつくこのような貧しさのなかには、なにごとか積極的なもの、すでに精神を告知するようなものがある。それは、ことばの語源的な意味においてdiscernement(分離・弁別)なのである。

 知覚とは、事物に対する自らの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない。対象との距離は、危険切迫の大小のみを表し、距離が間近になればなるほど、知覚は現実的な行動となろうとする。

 事物の輪郭とは、事物に対する私たちの行動のデッサンである。

 リボーの法則。固有名詞、普通名詞、動詞の順番で記憶喪失がおこる。これは、動詞が身体的努力によって捉えなおさせようとする語であって、いちばん運動に近いものだから。

 鍵盤がふたつある――内的と外的の鍵盤が。どちらからでも要素的感覚は作動される。

 「私の現在」と呼ぶものは、同時に、じぶんの過去にも未来にも食いいっている。私の現在とは、その本質からして感覚―運動的なものである。

 イマージュのかたちで過去を喚起するためには、現在の行動を差しひかえ、有用ではないものに価値をむすびつけるすべを知っていなければならない。つまり夢みることを望まなければならないのである。人間だけが、おそらくはこの種の努力をすることができる。それでも、私たちがこのようにさかのぼってゆく過去は辷りさって、いつでもじぶんの手から逃れてゆこうとする。それはあたかもこの遡行的な記憶に対して、べつの、より自然な記憶が逆らっているかのようである。後者の前進的な運動により、私たちは行動し、生きることへと連れさられるのだ。

ゾベルニクス - お前の彼女とやらせろ

 

 ゾベルニクス - お前の彼女とやらせろ [Live]

 2018.9.23 @ 池袋 RED-ZONE
 ライブをやりました。

 Vo. ゾンビ
 Gt. satsumaimo
 Bs. Jun
 Dr. Hikimax

君の瞳に5億いいね!

 

 作りました。

 satsumaimo
 君の瞳に5億いいね! (Music Video)
 初音ミクオリジナル曲

独文独歩 55

 トロツキー
 『死とエロスについて』

 社会主義者は、経済的格差とそこから生れる精神的階級制度を、政治によって廃絶し、全ての人間が抑圧なく人間的に育まれるような理想の社会を築こうとする。かれらの行動原理は一貫して醜悪な現実との対決にある。現世と同じ土俵に立ち、その改善に注力することが絶対的善である。現世からのいかなる超克も、かれらにとっては神秘主義という無用の長物にすぎない。青白い顔をした人々が、人はいずれ死ぬとか、人類はいずれ滅びるとか、不気味な性と肉欲はつねに発展でなく破滅を志向するのだとか、一言でいえば無常性の問題を持ち出してきても、社会主義の議論においては場違いである。
 この対立ともいえぬ対立を、トロツキーは掲題の印象的なエッセイで描いている。舞台は深夜のパリの頽廃的なカフェで、ジャーナリストと大学講師と若者とが論議を繰り広げる。大学講師が死について、若者が(言葉足らずに)エロスについての立場を代表し、ジャーナリストがかれらの反駁に応酬する。
 大学講師の言い分はこうだ。人間の生の本質的な重みは影の領域にこそある。すなわち破壊的なエロスと不吉なタナトスである。現代芸術はこの二つの謎めいた要素に真っ向から取り組んでいるが、社会主義者はそれを軽視しすぎている。ドゥーマの予算権の拡大とか土地の公有化とかと同じように、性問題や死の恐怖は内閣の決議で合理的に清算できると考えている。史的唯物論は生産性の向上やら社会発展やらを吹聴するが、どうせ滅びゆく人類の運命、さらにそれよりも早く滅びゆく一個人にとって、そんな楼閣が結局のところ何だというのだ? かつては信仰が日々の〈お勤め〉と不可避の終末とを和解させてきたが、いまや〈労働〉の目的は太陽の下で現世の鎖に繋がれている。影の巨大な無意識の深淵については、デカダン芸術という代用品だけが知っている。これは〈綱領〉では解決できないし、してもらいたくもない世界なのだ。
 若者が付け加える。デカダン芸術が〈肉欲のアナーキズム〉であるというのはその通りだ。しかし弾劾されるべきではない。このアナーキズムは、社会が織りなす偽りの道徳の蜘蛛の巣をぶち破り、生を復権させる不可欠な運動だからだ。性道徳に挑みかかるセンセーショナルな大胆さの中核にあるのは、やはり真の健全さと進歩への勇気なのである――
 だがジャーナリストはこう答える。無意識の深淵にかかずらう「神秘主義」が人間に不可欠というのは誤りだ。現にそれ無しでやっていけている人々がどんどん増えている。未来の人間は神秘主義の杖を必要としない。エロスとタナトスについての妄想の重要性を説くのは「小粒の知的蕩児のシニシズム」である。「無為に疲れた、ひまな主観的意識のみが、社会的義務と死の義務とのあいだの〈解決しがたい葛藤〉をつくりだしている」。そして現代芸術はそういったインテリゲンツィヤの社会的優柔不断を正当化し、現実を嫌悪するばかりで行動を衰弱させる。この現実否定は、社会主義の現実否定とは完全に真逆である。前者は現実の醜悪に目を背けることで、かえって醜悪の存在と和解しているからだ。後者は反対に世界をその強固な現実性のなかで無条件に認めている。だからこそ大いなる抗議が可能となる。「大衆の、いかなる妄想からも自由で、きわめて現実主義的な強烈な粘り強さのなか」にこそ人類の進化はある。
 〈肉欲のアナーキズム〉について言えば、それは自分が大胆だと思いこんでいるが、実は現実の醜悪さを真似ているだけである。「性を恐れるな、恥じらうな、チャンスがあればものにしろ」という説教は、人格の調和と生の復権を旨としているらしい。しかし、これは愛から魂を取り除き、いわば手術によって矛盾を除去している。このような心理的単純化の行き着くところは人格の調和でなく、畜舎の調和である。
 トロツキーはこのように、神秘主義芸術や性を大胆に扱った芸術について、完全な嘲笑を浴びせている。これは相手への無理解ではなく、むしろ完全な理解のうえで、発破をかけているように思える。社会主義は臆病なインテリゲンツィヤを行動に駆り立てなければ成功しない。それが無理なら見切りをつけるしかない。トロツキーの文壇論は、すべてそのような作家たちのギリギリの社会的価値を見極めることを試みているのだ。たとえばかれは、ヴェーデキントの『ミーネ・ハハ』の舞台となる、少女を隔離教育する唯美主義的システムのなかに、家庭の軛から放たれた、社会主義的共同生活の教育理想が意図せずして描かれている、などと、彼以外の誰も見出さないような観点を見出している。
 「文学の社会的有用性」というのは、文学からは嫌われがちなテーマである。それをあえて考えるとすれば、目指すべき社会についての明確なイデオロギーがなければならない。トロツキーは社会革命の予定された道程についての理論から、すべての文学的価値を演繹しようとする。それは乱暴にも見えるが、斬新な正しさを持っている。

ゾベルニクス - ビルマン

 

 ゾベルニクス - ビルマン
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