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satsumaimo作 Web漫画「ナイス」のキャラクタースタンプです。




 作りました。買ってください。

独文独歩 59

 フィリップ・ボール/夏目大訳
 『音楽の科学 音楽の何に魅せられるのか?』

 なぜ「長調は明るく、短調は暗く」感じるのか昔から不思議だった。
 その感覚は古典派西欧音楽を基礎として文化的に規定されているだけであるというのが著者の見解である。たしかにバッハの短調は暗さを表現していない。ニュートラルに聴こえる。
 ジャズの「ブルースノート」は、三度と七度の音をあいまいにして長調/短調の間の揺れ動きを表現することで、聴き手におしゃれでかっこつけた感じを催させる。
 そもそも長調の曲にも必ずマイナーコードは現れるし、それを効果的に活用している曲は単なるマイナースケールの曲よりも情感的になりやすい。コード単体で考えるよりも、コード進行を考えた方が生産的かもしれない。
 
 音楽と絵画のアナロジーについて。楽器やメロディによる倍音構成や波長の違いが、色のスペクトルと対応している。音楽にパターンをもたらすリズムは、絵画にメリハリをもたらす線描と対応している。楽器の種類が少なくてリズムがはっきりしていれば漫画のようになるし、メロディが複雑でリズムが曖昧なら印象派の絵のようになる。
 音楽が、聴覚に秩序と解体を絶えず要求する「脳のスポーツ」であるとするならば、「動画」は視覚におけるそれになっているか? はたまた、静止している絵画は何であるか?

 「音楽が絵や文章と決定的に違うのは、この世界に存在する他の何物とも関係がないということである。」
 さらに言えば、音楽はもっとも具体的な抽象芸術である。それは数学を直感的に理解する一握りの天才の能力が、すべての人類に一握りずつ分け与えられているようなものだ。
 数学を直感的に理解する、というと怪しい感じがするが、その能力はもとを辿れば人類の本能に根差している。つまり、「単純な音波による協和音を聴くと身に迫る危険性が少ないと判断するから安心する」ということにすぎない。文明の高度な進歩により危険が感じられなくなると、適度な緊張をともなった「テンション」コードを楽しめるようになったりする。複雑なコードの曲を子供が受け入れないのは、子供がまだ動物に近いからだ。

 「音楽によって感じる『悲しみ』は、実は、『悲しみについて深く考えること』に近いのだ。」
 感情はほんらい不定形なものである。赤子においては「快情動」と「不快情動」しかなく、発達段階を昇るにつれて感情が分化していく。音楽は抽象的であるがゆえに、人を赤子に戻すかのように、根源的な「揺さぶり」をかける。人はただ音波の連なりに揺さぶられるだけで、その時の気の持ちよう次第でそれを音楽に投射し、悲しい気持ちや楽しい気持ちになる。そのような意味では、「悲しい音楽」というものは存在せず、悲しさを引き起こすきっかけが鑑賞者に内在するときだけ音楽が悲しくなるのである。
 音楽は、感情の鏡の役割を果たす。人は鏡という媒介物を通して、自分の感情を見つめることができる。いわば悲しさを外在化し、客観的に見ることができる。そのような媒介性による感情の浄化作用があるからこそ、いわゆる「悲しい音楽」は流行するのではないか。

 当書はなにかが分かる本ではない。なにを考えて音楽を聴けばよいか、が分かる本である。

 原村蟄居(二)

 八月十四日

 再び山へやって来た。前回の隠居で二キロ痩せたので今回も少し期待している。
 今日は台風が猛威をふるいはじめたのでもみの湯には行けずじまいになった。
 ラ・ロシュフコー『箴言と考察』を読みおえる。気に入ったものを鍵アカにメモっておく。一見人間嫌いな穿った目がえてして活発な社交から培われることの好例だ。経験してるがゆえのこき下ろしは、すっぱいブドウの批判とは全然違うものである。とはいえ才能がなければ夢破れし中年の繰り言にすぎなかったろうし、首をかしげる箇所も多かった。
 今回もアコーディオンを担いできたので肩がこってしまった。
 蜘蛛の巣が部屋の隅じゅうに張られていて掃除に苦労したので、バルサンでも焚いて帰ろうと思っている。
 玄関までの道が木片で敷かれていて、あと日当たりが良くなったせいか辺りの草がいつになく繁茂しており、来たときには見慣れた山の家でないかのように見えた。手入れ次第でここも風采のあがる別邸らしくなるだろう。いつかはそうしてみたい。また、今まで全く欲しくもなかった車が、こうも不便だと欲しくなってくる。ここに住むなら駐車もタダだし。などと、将来の隠遁生活を思い描いている。

 八月十五日

 まる一日中激しい風雨で家中の雨戸がガタガタいう。一日太陽を浴びずに閉めきって過ごすだけでも考え方に変化を与えそうだし、まして『アンネの日記』の人々が愚痴っぽく始終いらいらしているのも酌量の余地ありだろうなどとあまり比較にならん比較をしながら当該書を読みすすめる。中学生女子の性の目覚めがかいま見れて出歯亀根性も満たされるが、それより衒いがなくてまっすぐな語り口と、自分の悪感情とまともに向き合う強さを見習いたいと思った。
 夜になって少し雨がましになったのでもみの湯で肩こりを治そうと努力する。しょっちゅう身体をエビ反りにしてみたりするが一向に治らない。
 何年か前に母の友人が息子をつれて遊びにきたときに録音したさわぎ声をもとに『サウンド』という短い曲をつくった。居る間にもう一曲つなぎでできそうな感じ。

 八月十六日

 『アンネの日記』と、ブルーバックスの『ビールの科学』を読み終える。アンネは物語としてもすばらしかった。ペーターへのぞっこんから醒めていく過程もリアルだ。これほど嘘のない文章をかつてどれほど目にしただろうか? この作品の唯一の欠点は、これがノンフィクションであることだ。後日談を知っていて読むと辛くなって純粋な鑑賞を妨げるのである。もちろんこれは高踏芸術一般に対する皮肉である。
 バビロニア人の飲んだビールを再現、とか作ったら流行るんじゃないかと思った。かれらは一旦パンを焼いてからそれを砕いて熱水と混ぜて発酵させ、無濾過のまま麦わらストロー(同語反復!)で吸っていた。ビタミンも豊富で治療薬にも用いたという。ハーブやスパイスももりもり入っていた。ホップが主流になったのは十六世紀のビール純粋令以降のこと。

 八月十七日

 下手なアコーディオンをフィーチャーした曲ができた。今回の休暇の生産性は上々だ。ストリートライブに向けてゆずの弾き語りも練習しているが、G#m→Aの指移動が二回に一回はしくじるので癇癪をおこしそう。
 今から大掃除と戸締まりをして夕方のバスに乗り帰る。バルサン買い忘れた。
 体重は一キロも減らなかった。

原村蟄居

 四月三〇日

 友人一行が帰ってずいぶん静かになった。レンタカーも引き払ってしまい、最寄りのスーパーまで片道一時間半の下山となる。酒と食材をたらふく買いこんでいたらバスが出てしまい、帰りは大荷物の登山となる。そのぶん温泉が気持ちよく、強風の中露天風呂に出たり入ったりし、休憩室で京極夏彦『魍魎の匣』を読む。けれん味のある怪奇ミステリは好みではないが、山ごもりには最適かと思い持ってきた。
 ここ長野県原村は幼少期の思い出の地である。死んだ建築家の祖父が建てた木造のコテージがある。白樺だらけの山奥で、夏には蛾とカミキリムシとカマドウマに悩まされるが、GWならばそうでもない。そのかわり夜は冷え込む。標高一三〇〇メートルである。灯油をたっぷり買ってちまちまと使っている。
 そんなところに男友達五人を連れてきたわけだが、両親抜きで来るのが初めてなもので情けない困難もいくつかあった。そもそも鍵を忘れてきた。幸い貧弱な建てつけなので十円玉でピッキングして入る。次に水道の開栓が分からない。栓は庭の土中に埋まっていた。暗がりの中で苦心して掘り起こす。まったくいつも行き当たりばったりの旅である。
 子供のときよく遊んだ自然公園や、店主自作のツリーハウス等奇怪な小屋のある燻製レストランや、アイスの美味い農業大学の直売所に皆を連れて行く。どこも二十年前と変わらなくて驚き、安心する。夕方には庭で焚き火をしながらアコーディオンを弾き、七輪で信州牛豚肉を焼く。申し分ない休暇だ。次の日は長野をさらに北上し、湯田中の近くで研修医をやっている友人宅に押しかけ、ついでに狭苦しい温泉も観光する。
 そんな賑やかな旅であった。彼らは昨日帰った。あと五日間は、誰とも口をきかなくて良い。広くて殺風景な家に一人、余計な音声も視覚もない。煩悩もほとんど無くなっているような気がする。なるたけ思考というものをやめて、ただ生活だけの生活をしてみようと思う。

 五月一日

 『魍魎の匣』を読み進める。警察官の木場が好感のもてる男だ。こいつの視点がなかったらもっといけ好かない猟奇ものになっていただろう。相対化するバランス感覚。
 冷たい水道水でしめた蕎麦は相変わらず美味い。焚き火をしようとするが雨が降り出した。しかしストーブの要るほどの冷気ではなく、小さなヒーターで勉強机の部屋にこもる。
 温泉への巡回バスが一日二本だけ出ていると突き止め、行きは楽することができた。子供連れが多い。裸の子供を見ると頭が不釣合いに大きくて、長髪の女児が突っ立っているところなど妖怪じみていなくもない。売店のシュウマイが美味い。霧の中徒歩で帰る。
 原村駅という看板と駅舎があり、ずっと廃線だと思っていたがふと調べると、鉄道マニアが作り上げた架空の路線の実現ということらしい。リアリティある佇まいだ。

 五月二日

 都会人の戯言かもしれない。だが、ここにいると一日の時間の流れが、本来あるべきゆるやかな連続を取り戻してくるように思える。午前、午後、アフターファイブというシステムがない暮らしをしているからだ。時計を見る回数がひどく少ない。太陽の傾きかた、風の吹き具合、変わりやすい山の天気。それで、ああ今日は薪がよく燃えそうだとか、本降りにならないうちに出かけようとか考える。生活とは日の出と日没の繰り返しで、それを分割できるようなひとまとまりの出来事はない。昨日の一日と今日の一日にも大差はない。ものごとが日々進展してゆく、というまやかしから解放されている。
 そう言いつつも下界に戻ったら嬉々としてグーグルカレンダーで一時間おきに区切ったスケジュールのもと会議やミーティングに奔走して楽しそうにしているのが自分という人種だ。そんなことは分かっている。しかし、そういう煩瑣な日常を可能にするための束の間の息抜きとしてここでの暮しの価値を格下げしたくもない。気の持ちようではこっちがメイン、むこうがサブだ。
 時の流れを可視化してくれるように思えるものが、火の時間だ。大小の枯れ木枯草をその折々の速度で食べていく炎。時おり枝を追加してやりながら見つめているうちに、何時間も経っている。すっかり日も落ちたあと、残った燃え滓が星たちのように明滅するのもいい。それからいくぶん文明化された、灯油ストーブのガラスの小窓から見える火。そして煙草の火。死んだ祖父も煙草を吸っていたという。きっと彼がこの家を建てた頃には得意気にこのストーブの脇でパイプをぷかぷかさせていたことだろう。今はどこにもその臭いはしみついていない。両親は嫌煙家である。おれがもう一度家中ヤニくさくしてやろうかと変なことを考えて、我が物顔でアメスピをふかす(普段は電子タバコのくせに)。こういう色々な火の揺めき、その燃えていく過程が、一つの時の流れのようなものを作っている。べつに難しいことを考えているのではなく、火を眺めてのんびりしているとそんな心持にもなる。そう、それから忘れてならないのが、七輪の炭火のぼうっとした暖かい赤色。心ゆくまで肉を焼いて食う時間も、火の時間のひとつだ。

 五月三日

 『魍魎の匣』を読み終えた。熱量のある京極堂の饒舌が良い。女優、医者、作家、刑事とそれぞれの人格のあり方を「匣」の内部・外部の喩えに絡めながら鮮やかに描き分けている。猟奇犯罪心理への目線も通り一遍でなく透徹している。若干オーバーすぎるくらいにみな人間味があるのが良いバランスになっているのかもしれない。竹本健治『匣の中の失楽』の時には思弁が過ぎる不満があった。比べるものでもないが、京極のほうが懐が広いように思う。
 次はウンベルト・エーコ『フーコーの振り子』を読み始める。どうやらまたペダントリックなやつを引き当ててしまったようで胃もたれしないか心配。カバラの教義を云々しながら一生懸命PCのファイルのパスワードを試しているところは面白い。
 おれが会社員でなく文学部博士課程をもし選んでいたら、この山の家に文献の山と仲良く籠って一ヶ月も二ヶ月も読んだり書いたりしていたのかもしれない。べつにそのことへの感傷はないが、そんな選択しなかった未来をふと思う。

 五月四日

 天気が良いので外に椅子を出して午睡していたら、小さい蜘蛛がおれのジャージに糸をかけはじめた。
 買いだめした肉も完食したので明日の朝帰る。イナゴの佃煮だけ残ってしまった。
 今日は本当に一日ぼうっとしていた。下界に戻ったらすぐ文学フリマで人混みの中接客をすると思うと落差にまごつきそうだ。しかし人と接する頻度など元来週に一度くらいでいいのかもしれない。残りの六日間は自己の結晶化をのんびりやっておくことだ。でないと人と関わる意味も大してないのではないか?
 『独文独歩』は所詮一大学生の拙い書評の集まりの域を出ず、大満足の出来とはいえない。とはいえ本の形にまとめる作業のおかげで自分の不器用な歩みを振り返ることができたのは良かった。その足取りに果たして他人を指南するほどの力があるものかは分からないが、売り物にするからには多少は期待してやらねばなるまい。

独文独歩 58

 ロジェ・カイヨワ
 『遊びと人間』

 競争、運だめし、模倣、眩暈。人間の活動には古今東西この四種類しかない。原始人か先進国か、王制か民主主義かといった違いは、どれを真面目なものとみなし、どれを遊びとみなすかの違いにすぎない。
 現代の人は競争と運を対立させて考えがちである。しかし両者は、平等という性質においては同一のものである。一方には機会の平等があり、一方にはサイコロの平等がある。世襲制の王権からの、自由競争社会への革命は、平等の実現ではなく、平等の基準の変容である。いわば、じゃんけんからかけっこへと、ゲームのルールが変わっただけである。
 競争と運はいずれの社会においても互いのカウンター・バランスとして、はけ口として機能する。家柄を重んじる社会では、実力によるのし上がりが夢見られ、競争力を重んじる社会では、競争に敗れた者たちが宝くじを買いあさる。
 競争であれ運であれ、近代国家がプレイしているゲームは勝ち負けのうちに成り立っている。この「アゴン=アレア」の範疇に対し、原始社会における神との同一化による神秘的体験を基礎とした共同体は「ミミクリ=イリンクス」の範疇に属している。文明化とはミミクリ=イリンクスのゲームを断念し、アゴン=アレアのゲームに参加することに他ならない。かくして文明人は、かつての因習のなれの果てとして、スポーツ選手への熱狂的同一化をしてみたり、遊園地のジェットコースターによる制御された陶酔を味わったりする。彼らが飲むのは模倣の遊びや陶酔の遊びを「水割りにした」ものにすぎない。