耳かき記
「いらっしゃいませ」
春樹が小さな和室に入ると、正座した着物姿の女性が上目遣いで出迎えた。四畳半の畳の隅にはランプが灯され、部屋をあたたかく濃い橙色に包んでいる。女性の微笑みの目元にはあでやかな陰影がつくられている。春樹はおどおどしつつ差し出された座布団に座った。
とうとう来てしまった。ここ一週間、どうにか勇気を出そうとしたが、この店へ入る決心はつかなかった。毎日、通行人の振りをしながら建物をそそくさと通り過ぎ、ふと道の突き当たりで引き返し、今度はさり気なさを装いつつ上を向いて、店の看板を見ながらゆっくり歩く。そうして辺りを二三度ほどウロウロしたあと、結局また足早に去るのだった。しかし今日、ついに春樹は意を決して建物の四階に上り、期待と緊張で高鳴る胸を押さえながら、店の入口をくぐった。彼は、欲望に抗えなかったのだ。
店の看板にはこう書いてあった。
耳かきサロン 芳一
――なつかしい膝枕の安らぎ
耳垢と疲れを取り去る至福のひととき
春樹は小さいころ、母親の膝枕に横になって、耳そうじをしてもらうのが好きだった。ソファーに横たわり、端に座った若き母の膝に頭をのせ、そっと眼を閉じて耳に感覚を集中させる。母がやさしく語りかけながら、ゆっくりと、くすぐるように耳かきを動かすと、春樹は得も言われぬ心地よさに包まれた。反対側の耳の番になると、顔を母のお腹にそっとうずめて、安心感のある匂いをいっぱいに吸い込んだ。愛情のこもった、撫ぜるような母の手さばきには、「耳かき」という語感は合わなかった。幼き日の彼にとって耳そうじの時間は、母親に愛されていることの再確認であった。
幼き日、といっても実のところ、彼は中学生も半ばになるまでずっと、こうして母親に膝枕で耳そうじをしてもらっていた。小学校では勝ち気な男子で通っていたが、家では甘えん坊であった。しかし中学生になりクラスメイトが色気づき始めた頃から、そのような自分の矛盾を嫌うようになり、母親にも冷たくするようになった。人並みの反抗期を経験し、高校時代には彼女もつくったが、すぐに別れてしまった。女の子と対等に話していても何かが物足りなかった。今年の春に家を出て一人暮らしを始め、大学生活とバイトに明け暮れ、充実した日々を過ごしながらも、時々ふと、夜中一人でアパートに帰る時なんかに、自分の心がどこか満たされないままでいることに気付くのだった。
そんな折、「耳かきサロン」の噂を学友から耳にした。変な商売も出来たもんだねえ、ストレス社会の産物だろうか、などと友人は訳知り顔で分析していた。その時は特に何とも思わなかったが、一体どんな所だろうと想像しているうちに、何だか不思議にどうしても行ってみたいような気がしてきた。彼は幼き日の母性愛の温もりを、半ば無意識に思い返していたに違いない。
「学生さんでしょうか」
「はい」春樹は出された茶をすすりながら神妙に答えた。
「お勉強、さぞお疲れでしょう。眼の奥が痛いなんてこと、ありませんか」
着物の女性はちょっと身を乗り出して、そうすれば疲れが見えるとでもいうように、彼の眼をじっと覗き込んだ。春樹は彼らしくもなくどぎまぎして、湯呑みを置き、どもりながら答えた。
「そ、そうなんです。その、ほら、論文とか、書かなきゃいけなくて。ここ数日パソコンに向かいっぱなしなんです」
それは嘘だった。
「そうですか。では、眼の疲れに効く耳つぼから、マッサージしていきますね。どうぞ、膝にお顔をお乗せください」
眼の疲れには眼をマッサージする方が得策なのではないか、などと考えている余裕は、春樹にはなかった。いま彼は、母の膝枕をはっきりと思い出していた。彼はおそるおそる手で畳を這って彼女の横側に進んだ。正座したまま頭をそっと膝枕に横たえたあとで、足を崩して畳に寝転がった。手は知らぬ間に赤ん坊のようにギュッと握りしめていた。母のあの温もりが蘇る。顔をお腹に向けたときの安らかな匂いが蘇る。期待と緊張と恥じらいが混ざり合って彼の心臓の鼓動を高めた。
「じゃあ、眼を閉じて下さいね」
女性はそう言いながら、彼の顔をそっと持ち上げて、体の位置を九十度ずらした。
彼女の腹部は、春樹の頭の側になった。
(そうだよなあ……商売だから、密着するのは膝だけか。そうだよなあ)
春樹は落胆しながらも妙に納得した。気をとりなおして、昔そうしたように、耳にすべての感覚を集中させた。
耳朶をまさぐるようにして耳かきのひんやりした感覚が侵入してきた。その触感から何となく、材質がほんとうの竹でなくプラスチック製のものであるように彼には思われた。もう片方の耳は女性の膝と膝の間の着物の布地に頭の重みで押さえつけられている。外耳道の浅い部分を撫ぜまわされると耳の毛がシャリシャリと擦れた音を立てた。もう少し奥へと棒が進むと、時折引っかかるようにして、ゴリリとした固い耳垢の手ごたえ――もとい耳ごたえを感じる。耳かきはまだそれを掘り出すのではなく、やさしくゆっくりと混ぜっ返すように動く。母の手付きとよく似ていたが、何か違っていた。この女性の耳かきに母の愛がないことが、技術に微妙なる差をつくっているのであろうか。それとも単に彼が成長したからだろうか。
「それでは、眼に効く耳つぼを刺激いたします。奥、失礼しますね」
奇妙な断りをつけながら女性は耳かきをグッと外耳道の奥深くに挿しこんだ。耳の奥ににぶい痛みを感じた春樹は全身を一瞬ビクンと硬くして、顎から首筋にかけての筋肉がこわばった。それから耳かきはズズズと穴の上側にずれてそこの耳の肉壁をグッと押さえた。先程よりも強い痛みがそこから生まれた。反射的に首をすくめ瞼をギュッと強く合わせて眉間と鼻にしわの束をつくった。耳かきの先端のさじはさじ加減を知らず、容赦なく「つぼ」を益々強い力でギュウッと押した。
「ひっ」と春樹は情けない裏声をもらした。
「痛いですか。でもここが、瞼のしこりに効くんですよ。どうです」
言われてみれば、瞼の重なった部分の眼球が不思議とムズムズするように感じなくもなかった。ただ痛いのはどうしようもない。そもそもこの痛みだけで眼の疲れなんて吹き飛ぶだろう。
「ううッ……あうぅー」と彼は母音の多い気違いじみた呻き声をあげる。
「痛いですか。痛かったら、言ってくださいね」
「あーッ……痛いです……」
「そうですか」
耳かきは少しも緩められなかった。同じ箇所をただひたすら押さえつづけられるうちに、さじが肉壁に食い込みそのまま奥までズブズブと貫通し沈みこんでいってしまいそうな恐怖を感じながら、絶え間なく持続する痛みの中、春樹のギュッと握った拳の内側は汗でしめり、両足は曲げたままピッタリくっつけ、全身をギュウッと胸のあたりを中心に丸めてしぼられるように固まりながら、心臓をバクバク動かし口からは自然に荒くなる息とともに苦しい呻きを洩らしつつ耐え続けていると……不意に耳かきが引き抜かれた。
痛みが消えて全身のこわばっていた筋肉がいっせいに緩んだ。耳の奥の「つぼ」はまだジインとしていた。春樹は思わずホッと息を吐いて、膝枕からちょっと頭を上げた。だがその時、女性が両手の平で彼のこめかみを持ち、そのまま顔の向きをおもむろにひっくり返した。
「はい、では次は、反対側の耳を……失礼します」
彼はまだ突っ込まれてもいないうちに、ヒッと短い悲鳴をあげていた。自分の耳が二つもあることを呪った。逃れようとして首を捩ったが、顎のあたりを左手で抱え込むように押さえつけられていた。容赦なくひんやりと侵入する耳かきが、今度は何の前置きもなく「つぼ」にギュウッとさじの裏面を押し当てた。春樹の固くつむった目の両端から涙の線がツウッと頬を伝って彼の半開きの唇を濡らした。……
すべてが終わって春樹は心身ともにクタクタに疲れきりながら、その疲れに陶酔しているような気持ちだった。膝枕から起き上がり、クラクラして見分けがつかないオレンジ色の視界を何とか修復しつつ、やがてぼんやりと見えてきた女性の表情は、何だかとても満足そうだった。
「またいらっしゃってくださいね」
彼女のやさしい声ももはやサディスティックな悪魔の囁きにしか聞こえなかった。彼が母性愛の復活を求めてやってきたこの店が与えたものは、それと正反対の仕打ちであった。春樹は建物を出て、苦々しげにあの看板を見上げた。
耳かきサロン 芳一
――なつかしい膝枕の安らぎ
耳垢と疲れを取り去る至福のひととき
安らぎも至福のひとときも、有りやしなかった。
春樹は大学の友人と二人で、こまごました電子部品の店が立ち並ぶ街を歩いていた。所属するサークルで製作する機械の材料を買い求めに来たのである。その大通りを少し外れたところに、例の耳かきサロンがあった。春樹はあれ以来、この付近に近寄ることすら何だか怖ろしく、今日買い出しに来るのも本当は気がすすまなかったが、かといって言い訳のしようもなかった。
「基板と、赤外線センサーのデュアルタイプのやつと、フレネルレンズと……それから……トランジスタとか抵抗器はまだ残ってたかな」
「セラミックコンデンサが、もう無かったはずだよ」
「そう、そうだったな……なあ春樹、さっきから気になっているんだが……その、胸ポケットから見えてる白いものは、何なんだ」
友人の指差した先の春樹の胸ポケットからは白い綿毛のようなものがはみ出していた。
「えっ……これは、ほら。耳かきだよ」
春樹はスッとそれを取り出してみせた。白い綿は棒の頭部についているボンボリであった。
「そんなものを常備して、何に使うんだい」
「耳かきに、だよ。他に何があるってんだ?」
「はあ……変なやつ」
にわかに春樹の顔色が変わった。変なやつ扱いをされた事が癪にさわったわけではない。今ここで耳かきを出すことが、必然的に話題の方向を決定してしまうことに気付いたのだ。友人が口を開いた。
「そういえば、ニュースでやってた耳かきサロンって、この辺だったよな」
「あ……うん、そうだね」
時既に遅し。
「そんなに耳かきが好きなら、行って見たらどうだい」
春樹はうろたえた。もう行ったことがある、と告白すれば良いのだが何だか恥ずかしかった。恥ずかしいながらも仕方なく説明した。あの恍惚に近い痛みが思い出されるようで話しながら複雑な気持ちになっていった。それを誤魔化すように少しおどけてみせるように話した。
「もうね、あれはもう耳かきというか、SMの領域だね」
友人はなにやらぶつぶつ呟き始めた。
「……女性に棒を突っ込まれたいという倒錯的願望……サド・マゾヒズム的関係……女性的同一視……または投影による関係の逆転……」
「何?何を言っているんだ?」
「いや最近、精神分析にこっていてね。女性に耳かきをされるという関係性に何らかの倒錯的な満足があるのではないかと思うんだよ。SMかもしれないし、女性になりたいという欲求を間接的に満たしているのかもしれないし……うん、実に興味深い」
「気持ち悪いこと言わないでくれよ。言っとくけど僕はマゾヒストじゃないし、女になりたいなんて思ったこともないからね」
「いや、君のその過剰反応も、マゾヒスティックな欲望に対する防衛反応というか、アンビバレンツというか……なんだかそういうものが、あるような気がするぞ。つまり、抑圧された心の奥底では、君にもそういう願望が……」
「何だそれは。へりくつじゃないか。肯定したら願望がある、否定したら願望は抑圧されている、こんな風に、何とでも言えるじゃないか」
「そんな単純なことではないんだよ、たぶん……そうだ、エディプス・コンプレックスと関連付けたらどうだろう。要するに、母親への従属というか、胎内回帰願望が……もしくは近親相姦か……」
「いいかげんにしろ」
春樹は声を荒げた。
「母親がなんだ。そんなもん全部嘘っぱちじゃないか。そういうこと言い出すお前自身がマザコンなんじゃないのか」
「な……大声出すなよ。落ち着けって」
いつの間にか春樹は頭に血がのぼり、胸は高鳴っていた。通行人のけげんそうな視線に気づいて、少し落ち着くと、手に持っていた耳かきを胸ポケットにしまった。友人がふたたび口を開いた。
「……で、そんなに嫌な思いをしたのに、どうしてまだ耳かきなんか持っているんだい」
「知らないよ。なんか、どうも耳垢がね……」
それは、春樹自身にもよく分からなかった。あの女性に耳を痛めつけられて以来、妙に耳の奥がむず痒く、自分で耳そうじをせずにはいられないのだ。部屋の鉛筆立てに差して長らく放置してあった安い耳かきを取り出して使うと、思いのほかよく取れた。取れすぎるほどだ。ねっとりと粘性のある、しめった耳垢だった。あの店は耳かきサロンとか言っておいてロクに耳垢もとらずにただ痛みを与えるだけだったのだと春樹は考えた。しかしとってもとっても耳垢はなくならないので、耳かきを常時携帯して、大学の講義が退屈なときなどに、暇つぶしのように使っていた。
「風呂とかちゃんと入れよ」
「入ってるよ」
話はそこで終わりになった。二人は行きつけの電子部品店に入って物色をはじめた。
真夜中、電車の音だけが時おり遠くから響くアパートの一室で、春樹は机に向かってひたすら耳かきをしていた。電気は消され、アパートの廊下の蛍光灯の明かりが窓からほのかに差し込んでいるだけだった。薄暗闇の中で春樹の唇から、ゾクゾクしているような喘ぎとも笑いともつかぬ声がもれる。
「ふふ……うふっ……はっは……」
机の上には幾種類もの耳かきが丁寧に並べられていた。どれも春樹が数日前インターネットで一度に注文したものだ。
彼はすでに終日耳かきを続けねば気がすまなくなっていた。通学中の電車の中でも、講義中でも、漫画喫茶の店員のバイト中でも、歩いていても、そしてアパートに帰ってからも……。睡眠時間すら削られつつあった。耳垢は尽きることなくとれた。
彼はもともと持っていた安物の耳かきに不満をもちはじめた。百均で何かのついでに買ったような粗悪品では、耳あたりも悪く、さじの部分もつくりが粗いから、耳垢がとりにくいのだ、と春樹は考えるようになった。そしてすぐさま、右手で耳かきをしながら左手でパソコンのキーボードを叩き、検索してみると、様々な形状の耳かきが紹介されていた。どれもよく取れそうだ、と目移りしてしまい結局すべて購入した。翌日すぐに商品が届くと春樹は歓喜した。耳かきをしながら出てきた春樹を配達員が怪訝な目で見た。
職人が一本ずつ作る本煤竹の耳かきというのを知ると、今度はそれも欲しくてたまらなくなった。さじ部分の幅と深さが自分で指定できるのだ。これなら本当に快適な耳かきが期待できるだろうと思いながら春樹はよだれを垂らした。
手作りの竹の耳かきが届いたのは、様々な形状の耳かきが届いてから数日後だった。春樹はハンコがどこにあったかを忘れてしまい、仕方なくサインをしようとしたが、うっかり耳かきをペンと勘違いして紙にこすりつけてしまい、ねっとりした耳垢が受取り印を押すべきところにこびりついた。配達員は露骨に嫌な顔をして行ってしまった。
本煤竹の耳かきは春樹の気に入った。彼は日曜の午後から休みなく耳かきをしながら一人でぶつぶつ呟きつづけた。
「やはり手製は違う……高級な竹がよくしなって……すばらしい……うふふ……」「のの字耳かきはだめだった……あれは乾いた耳垢用だ……」「……スパイラルのワイヤーのやつは、取れはするけど、綿棒型だからあまり好きじゃない……やはり、さじ型に限る……」「あはっ……えへへ」
そうしていつしか真夜中となったわけだ。机には薄黄色の粘性のある耳垢が小さな山をなしていた。それは明らかに耳の穴の容量よりも多かった。春樹はしだいに自分でも何を言っているか分からなくなっていた。まだ全く手をつけていない大学の論文を書かなければならない、などとおぼろげに考えるも、そのような理性はしだいに薄れていった。判断力が鈍っていた。いつまでも耳をかきながらただ笑い声が漏れ出るままにまかせていた。やがて、窓から朝日が差し込んできた。
夢うつつの状態のまま、翌日春樹は大学へ行った。よだれの乾いた痕をあごと首筋にこびりつかせた春樹は、電車にゆられ吊り革にもつかまらずふらふらとして、黒目を天井に泳がせながら耳かきをしていた。前の席のサラリーマンが身の危険を感じたように席を立ったので春樹はそこに座った。間もなく彼のまわりに人のいない空間ができた。
電子工作のサークルの部室でも学生たちは春樹を避けていた。
「あいつ、どうしちゃったんだ。狂ったように耳かきして」
「まさか、ここまで重症とはね……心ここにあらずだ。仕方ない。彼の治療は精神科医に任せるとして、ぼくたちだけでまず赤外線検知ユニットを完成させよう」
春樹がなにごとか言葉にならない声をもらしながら部屋をうろつきまわっているそばで、回路のハンダ付けが始まった。ハンダごてが金属を溶かす独特の匂いが部屋を取り巻く。それに気付いたように白痴の春樹がよろめき近づいてきた。友人が軽く肘鉄砲を食らわせて言った。
「春樹、じゃまだ。ハンダ付けの最中なのが分からないのか。危ないだろう。……おれはこの間うっかり指を火傷したばっかりなんだ」
「はーあ。はんだ。はんはん、だあ」
「……ふざけているのか? 本当に狂っているのか?」
春樹は作業の邪魔をしながら耳かきをこねくりまわした。耳の穴から大粒の耳垢がぽろりぽろりと雪のように落ちた。
「うわあ、耳垢がハンダに混ざったまま固まった。汚い。どうしてくれるんだ」
「まんま。みんみ。みみかき」
「あっちに行け。耳垢をこぼすのをやめろ」
友人の怒りにしゅんとした春樹はつかの間泣き出しそうに見えたが、よたよたとその場を去ってまた部屋をうろつきはじめた。
「まったく……耳垢の混じった回路なんてあってたまるかよ……」
「おい、セラミックコンデンサが一つ足りないぞ」
「おかしいな。この間買ったはずなんだが」
二人の青年は無言で春樹の方を見やった。彼は床に座り込んで自分の耳かきを置き両手でなにやら耳に異物をあてがっていた。
「あわ、ま、む、はあは。みみはひ? むむう」
青年が春樹の持っているものを引ったくると案の定それは耳垢のねっとり付いたセラミックコンデンサだった。
「うわ。ばっちい」
とっさに放り投げられたその部品は机の上の回路に落ちた。
「何をする。また耳垢がハンダに混ざったじゃないか」
「お、おれのせいじゃない」
「たぶん、このセラミックコンデンサの色が、耳かきの色と似ていなくもないからだ……さじみたいな形と言えば言えなくもないし」
「分析はどうでもいい。予備の部品はないのか」
「余分に買うほど金はない」
「じゃあこの耳垢のこびりついたコンデンサを使うしかないのか」
口論の間に春樹がまた作業机に近づいてきた。
「あわわ。ぼう。ぼう。あえ、みみあひ?」
春樹は好奇心旺盛な幼児よろしくハンダごてを持ち上げた。
「やめろ、春樹。それは耳かきじゃない。ハンダごてだ!」
「あはあは。みみほじほじ。みみほじほじー」
春樹がハンダごてを勢いよく右耳に突っ込むとジュウッっと皮膚の焼け焦げる音に続いて耳をつんざく長い長い叫び声が起こった。学生たちはとっさに耳をふさいだ。春樹の右耳から煙があがっていた。
「ああ、ああっ、うううっ。うあああ」
春樹は後ろ向きにひっくり返りのたうちまわってあえいだ。ハンダごてを引っこ抜こうとしているが抜けないようだ。勇敢な青年が手を出してハンダごてを思い切り引っぱると、ずぼりと抜け、真っ赤に焼け爛れ押し広げられた耳の奥の粘膜があらわになりその奥深くから臓物のような色をした耳垢がどろりと流れ出て床にべちゃりべちゃりと落ちた。学生たちは恐怖にとらえられてあんぐり口を開けていた。
「……これはもはや、耳垢じゃないだろう……」
「もしかして……こいつのほじり出していたのは……耳垢じゃなくて……」
「……脳味噌……」
「あうー。うあううっ。あああああん。
……ままぁ。 ……ママぁ――」
赤ん坊となった春樹の母を呼ぶ泣き声がいつまでも狭い部室に響いていた。
現代音楽
マンションの一室で家族はテレビを観ていた。テレビでは現代音楽のコンクールでの入賞作品を演奏しており、フルートのフラッター・タンギングとヴァイオリンのフラジョレットとトロンボーンのベル・トーンとボールペンの高速カチカチ音が同時に奏されるような難解な音楽に他ならなかった。いっぽう家族のほうはというと父親はノンアルコールビールの三本目の缶を開けようとしており母親は息子と娘におでんをよそってやっていた。父親がビールをゴクゴク喉を鳴らして飲みはじめるとテレビの音楽はフルートとヴァイオリンで半音ちがいのトリルを奏しトロンボーン奏者が二オクターヴにわたるグリッサンドをしながらボールペンを高速でカチカチさせていた。娘が口につけたおでんの大根が熱くてハヒフホッヘヒッという感じの声をもらすと音楽もそんな感じになった。息子が笑いだして手に持った箸を床に落としてしまい母親は息子を叱りつけた。音楽はうねりを増しながら音量を上げていって息子はまた笑うと今度は頭をごつんとやられてしまってシュンとしていた。見ていた父親が母親に抗議した。そんなに叱ることないだろう、ハシを落としたくらいで――何よ、と母親が言い返した、あんたはいつも家にいないで夜遊びして酒のんでばっかりで朝帰りだからそんなことが言えるのよ、自分では子どもになんにもしないくせに偉そうなこと言わないでよね。何だと、父親が語調を荒げて音楽はボールペンのソロによるカデンツァになっていて誰のおかげでこのおでんが食えると思ってるんだこれはおれのかせいだ金だぞ金をかせぐのがおれの仕事だ、あんたそんな事言ったってお給料減らされてるじゃない、減ってない、じゃあ何よ酒ばっか飲んでお金使い込んでるの。あたしの気苦労も知らないであんたはいいわよねえ、それはコッチのせりふだと言って父親が机を叩くと音楽はヴァイオリンのバルトーク・ピッツィカートの連続と演奏者全員の足踏み音でありボールペンが床に叩きつけられると娘のおでんの器がひっくり返ってその汁をあびた娘が熱いよ熱いよと泣き出してあんたひどおい最低よサヤ泣き出しちゃったじゃないおれは悪くないおまえだって息子の頭殴っといて自分のことは棚にそれは躾よあんたのは勝手に怒ってるんじゃない一緒にしないでよ一緒に住むのもいやだわ出てってああいいとも出てってやるよ金がなくなろうが家のローンが払えなかろうがおれは知ったこっちゃないぜとトロンボーン奏者はマウスピースを取り外して床に投げつけてさらに強く足踏みをつづけてヴァイオリンが弓でとなりのフルート奏者の頭をビシリバシリと叩くと対抗してフルート奏者は右手にピッコロを左手にフルートを持ってヴァイオリン奏者を思いきり突きまくると後ろによろめいたヴァイオリン奏者は転がっていたボールペンを踏んづけてひっくり返った先にいたトロンボーン奏者が衝撃でトロンボーンを取り落としてドンガラガッシャン食器の破片が息子の額に突き刺さって娘と息子の泣き声が合唱をはじめて演奏者も歌いはじめたが父親は足音をドスドスいわせて玄関のドアを開けるとちょうどそこには隣に住んでいる受験生が怒りに肩をふるわせて立っており父親がたじろぐと受験生はこっちは受験勉強大詰めで今年受からなかったら三浪で田舎に戻って酒屋を継がなきゃならなくなるんだ静かにしないとこの間つくった爆弾を投げ込むぞわかったかおい。父親は受験生をぶんなぐって玄関で乱闘が始まると舞台にぞくぞくと打楽器奏者が打楽器をかかえて入ってきて歌はまだ続いていてそこにティンパニの伴奏をはじめ木琴ウッドブロックカウベル和太鼓チャイムシンバルとボールペンは三色ボールペンになっていて父親は鼻血を出しながらリビングに戻って電話をとって警察を呼んでいて母親は来ないで二度とその顔を見せないでと父親におでんを投げつけていると受験生が入ってきて警察は呼ぶなうちの爆弾がバレたらどうすんだふざけんなと言いながら父親に近づくとおでんが受験生に当たって受験生は怒り狂って母親を蹴り飛ばして子どもたちは泣きながら止めに入ったが息子は股間を蹴り上げられ娘は右腕をひっぱられて脱臼して痛いよ痛いよと言いながらひきずられ連れて行かれたが母親は気を失っていて父親は警察を電話口で怒鳴りつけていてカウベルと和太鼓にホイッスルとギロが加わってラテン音楽風のリズムを刻むと父親は踊り出して息子も股間をおさえながら踊り出して玄関がバタンと閉まって母親が眼を覚まして娘がいないことに気づくと母親も踊りだした。
フルートがエスニックな旋律を吹き音楽が盛り上がって舞台にはアフリカの原住民が連れてこられて嫌そうにしながら自分たちの民族の踊りを音楽にあわせてしぶしぶ踊りはじめて父と母と息子も我を忘れて踊っていておでんは冷めていたが隣の部屋からドンドンと壁を叩く音がしてティンパニがトレモロを始めて受験生が娘を返してほしかったら今すぐ警察を呼ぶのをやめて九百万円持っておれの部屋に来い、三十分以内だ、それ以降は娘がどうなっても知らん、おれはこの九百万円でもっと爆弾をつくるんだ、それから山手線各駅に爆弾を仕掛けてあとT大学にも爆弾を仕掛けてみんな爆発しろ爆発してしまっておれが大統領になればもうこんなことはなくなるんだそしてドラが鳴り響いてカノン砲が放たれて演奏者と原住民と父と母と息子は耳を塞ぎながら踊っていて娘は受験生の勉強机の椅子にしばりつけられていて踊れなかったがその代わりに受験生も踊りだした。そのままテンポが速まってボールペンのカチカチ音も速まってBPM220に達したところで演奏者と父と母と息子と受験生が口から泡を吹いて倒れてチャイムでAの音が鳴って音楽がやんだ。
一人の原住民の男が娘の戒めを解いて椅子から解放した。