やかん猫 4

 やかん猫

 やかん猫 3 の続き

 我輩が物置に閉じ込められてから二週間ほど経ったある日、主人が庭でなにやら作業を始めようとしていた。その庭の隅にある物置の中からも主人と細君の話し声が聞こえた。
「此れだけ木材を買ってくれば、大分立派な書棚が組み立てれるだろう」
「組み立てられる、よ。古風な話し方もラ抜きでは台無しだわ」
 どうやら書斎の棚の新しいのを、日曜大工でもって自ら拵えようとしているらしい。これは久々に騒がしくなりそうだ、と斜に構えていたが、次の瞬間そんな余裕は忽ち吹き飛んでしまった。
「工具は物置の中だったかな」
 細君の息を呑む音が聞こえた気がした。
「こ・・・工具はうちにはなかったと思うわ。買って来ましょうか」
「いや、確かあったはずだよ。とりあえず物置を見ておかないと」
 その声は足音とともに段々とこちらに近づいてきて、我輩は身構えた。物置のドアががらりと開けられた。主人は呆けたような顔つきでやかん姿の我輩を見た。おそらく今の今までやかんを物置にうっちゃったことすら忘れていて、しかもその中身の生物が二週間の幽閉を経てまだ生きていることに、驚きを隠せずにいる様子だった。我輩は自分の生き延びている理由を感づかれないよう、ひたすら神に祈った。一時は無神論者を気取ってさえいたこの我輩が、である。しかし願いは届かなかった。
「どうも最近おかしいと思っていたんだ。冷蔵庫の魚が一晩に一匹ずつ無くなっていた」辛辣にそう言って主人は細君を責めるような目付きで見た。細君は目を伏せて正直に答えた。
「御免なさい。私やかん猫さんがどうしても可哀想で」
「可哀想なものか。てっきり忘れかけていたが俺は思い出したぞ。この指の傷は」といって我輩の噛んだ親指の、絆創膏を巻いてあるのを、細君の目と鼻の先に突き立て、「この傷は、そこの忌々しい猫が創ったのだ。それなのに何だお前は、俺を傷つけた凶暴なるやかん猫めに同情して、俺に黙って夜な夜な家の食物を盗んでそいつに餌付けするとは。こんな野蛮な獣物に施しを受ける権利などない。ああとっとと殺しておけばよかった」
「ちょっと貴方、」細君が震える声で反論しようとした。「それはあんまりよ。猫だって立派な生き物よ」
「まだそいつを庇うか。飼い主に手向かう猫のどこが立派だ、え?どこが立派だ、なにが立派な生き物だ?言え!」
 初めて主人に怒鳴られて、細君はとうとう泣き出してしまった。我輩は見ていられなかった。主人に対する怒りが煮えたぎった。攻撃しなければ気が済まぬ。我輩はやかんから抜けようとして奮闘した。しかし細君のくれる魚を毎晩残さず食べていたから、そのかつての体格はほぼ維持されていて、やはりどうしても抜け出せなかった。やかんががらりと倒れて、我輩は前足を少し突き出して首を窮屈にしたまま、庭に転がった。我輩は自分の滑稽さを認識した。それでも、悪魔の顔面をめちゃめちゃに引っ掻いてやろうという一心で、死にものぐるいでじたばたとした。しかし悪魔はやかんの底を両手で持ち上げ、そのまま台所へどしどし歩いていった。
 台所の水道に連れて来られ、悪魔は蛇口をひねった。その右腕を引っ掻こうとしたが届かない。やかんに水が注がれていった。そして焜炉に置かれ、かちりと火が点けられた。
 細君が泣き顔のまま必死になって駆けてきて、火を止めようとしたが、主人に足蹴りにされて、狭い台所に倒れ込んだ。細君の泣き声はいよいよ大きくなった。ああ、どうかそのまま起き上がらず、床にうずくまっていてくれ。我輩のこのような情けない死に様を、君に見られるのはあまりに忍びない。
 すべてが真っ赤になり、我輩の頭の中をくるりくるりと炎の息を吐いて回転した。

やかん猫 3

 やかん猫 2 の続き

 しかし我輩は甘かった。主人は我輩を解放しようと努力するどころか、我輩をやかんごと庭の物置に閉じ込めたのだ。我輩が勝手に餓死してくれれば好いのにとでも思っているのか、事件の次の日の朝から餌も一切よこさなくなった。昼を過ぎた頃には、昨日の昼から飲まず食わずの我輩はそろそろ生命の危機を感じた。
 それは何と言う激しい絶望だっただろう。我輩は斯くの如き惨めな空腹を抱えたまま、このみずぼらしいやかんの中にうずくまって死んでゆくのか。その日の夜ほど我輩が感情を露にして泣いたことはなかった。まるで赤ん坊のように泣いた。威厳なんて有りやしなかった。
「やかん猫さん、」
 物置の扉が少し開けられて、隙間から優しげな囁きが聞こえた。我輩はふと泣き止んで、そろそろと外に視線を向けると、そこには暗がりの中、月明かりに仄かに照らされて淡く光る細君の顔があった。
「御飯の時間よ。」
 そう囁いて細君は一匹の魚をそっと我輩の口元へ差し出した。何てことだ、我輩の目からはまた涙が溢れ出した。先とは違う、あたたかい涙である。そうして魚にかぶり付いた。身も世もないように食事する我輩の姿を見ていた細君の笑顔は、主人のあの不快なる嘲笑とは全く違う、天衣無縫の、施しの天使の微笑みであった。
 それから毎晩、主人が寝静まるのを待って、細君は我輩の食事として一匹の魚と水を調達してきて呉れた。我輩は細君に感謝せずにいられなかった。今まで誰にも感謝の念なぞ起こらなかったこの我輩が、である。ランプを持って物置を開け、中に居る我輩をそっと覗き込んで安心したように微笑む。我輩もその笑顔を見るたびに救われるような思いがした。
 また主人が外出中で何時まで帰ってこないか判然しているときは、早めに家事を終えると物置に訪れてきて、我輩の隣で読書をはじめることがあった。活字にも飢えていた我輩がその本を読みたげに視線を送っていると、勘の良い細君はやかんを膝の上に乗っけて、体育座りをして、我輩にもよく読めるように気を遣って呉れるのであった。背後に感じる細君の胸の温もりが心地よかった。そうして読んでいた本は漱石ではなく、主人の本棚の中でも我輩の手に届かぬ高い所にあったと思われる様々な小説であったが、その中の一冊に、岩屋に閉じ込められた魚の話があり、我輩はかなりの感情移入をもってその短編を読んだ。
 ある時、もし我輩が細君のくれる魚を全部は平らげぬようにして、次第に痩せて身が細くなるよう努力すれば、このやかんから出られるかもしれぬことに遅まきながら気づいた。しかし、そろそろやかん生活にも馴染んできた頃合いであったし、こうやって細君と触れ合える時間を心待ちにしていられる今の暮らしは、満更でもないように思えた。例の主人はというと、かつてのオブジエのことなぞ最早すっかり忘れたらしく、餓死したかどうか様子を見にさえ来なかった。それは我輩と細君との交流にとっては寧ろ好都合なことであったが、しかしそれも、長くは続かなかった。

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やかん猫 2

 やかん猫 1 の続き

 それから我輩のやかん生活が始まった。我が忌々しい主人は、信じ難いことに、この我輩をやかん姿のまま居間に飾り、放ったらかしにしておいたのだ。時々気が向いたかのように魚やら何やらを与えられるだけで、そのたびに我輩は恨みがましい目線を主人に向けたが、その執拗なる訴えも完全に無視して、にやにや笑いながら馬鹿にしたように餌をよこすのである。そうして我輩は朝から晩まで首を突き出して空中を呆然と眺めるか、やかんに潜り込んで現実逃避に走るかの二択しかない生活を余儀なくされた。
 細君の方は我輩を可哀想と思うほどの理性がまだあったらしく、出してやりなさいよと時折主人を説得しようとするのが聞こえて、そのたびに我輩は念を送ったが、夫は頑として拒み続けるのである。その理由がひどい。
「我が家には本はあっても、愉快な物品はこれといって無かった。こういう洒落た品がひとつあるだけで、居間に趣きが添えられるだろう。それに、考えて見るが好い。やかん猫などというオブジエは他のどの家庭にもあるまい。私はこういうものが前から欲しかったのだよ」
 どうやら我輩はオブジエ扱いされているようなのだ。猫を何だと思っているのか。 我輩はある時は主人に裏切られたと感じて一晩中やかんの中で啜り泣いた。またある時は主人への復讐心に駆り立てられ、爪を研ぎながら一夜を明かした。しかし爪を研いだところで、前足は一寸しかやかんから出すことができないのだからどうしようもない。では最後の武器は何か。歯である。
 その日の晩、我輩は、二人が食事をするのを恨めしげに眺めていたが、主人は旧友とばったり会ってどうのこうのの話にかかりきりで、細君も聴き入っていて、我輩の食事のことをすっかり忘れているようだった。食事が済むと、主人はさっさと書斎に戻って行きおったが、細君がふと我輩の方を見て、ようやく気づいたらしく、
「貴方、やかん猫さんの御飯がまだよ」
 我輩の名前はやかん猫で決定らしい。我輩は細君にまでひどく侮辱された気がした。失望と怒りが入り乱れていた。そこに主人が降りてきて、晩飯の残りの魚切れを、やかんから首だけ出した我輩の口元にひょいと差し出した。
 我輩はすぐさま行動に出た。首をぬっと最大限まで前に突き出し、その勢いで我が悪魔のひ弱な人差し指を、猫生最大の恨みと憎しみをもってぐっと噛んだ。我輩の前歯が肉に刺さり、骨に当たって、血の味がした。そして悪魔の、耳がちぎれんばかりの醜悪なる絶叫だ。細君は青ざめ、慌てふためいて救急箱救急箱と狂人のように連呼しながらそれを探しに行った。悪魔は居間中を転げまわってなおも絶叫していた。我輩は復讐を果たしたという興奮で息を荒げながら、その無様な様子を見続けていた。
 勝った。我輩は悪魔に思い知らせてやったのだ。非常な満足感が我輩の全身を支配した。細君が戻ってきて手当てをしているが、主人は「痛い。痛いい」とこれまた狂人のように叫ぶ。静かであったこの家が、いともこう簡単に騒がしく醜くもなるものだろうか、と我輩はせせら笑ってそれを見下ろしていた。
 それに、なお良いことがある。これだけ思い知らせてやれば主人も、この忌々しいやかんから我輩を何とかして出してやろうとするだろう。かつて我輩を苦しめた悪魔が、我輩の為に目の前で悪戦苦闘する姿を間近で見ることが出来るのだ。・・・考えただけでも、ああ、何という至高の快楽!

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やかん猫 1

 我輩は猫である。名前はまだ無い。
 しかし今はそんな事はどうでも好い。
 やかんから出られないのだ。
 かれこれ二時間の悪戦苦闘もむなしく我輩は、湯沸かしに使い込まれた古典的なやかんにすっぽり体を嵌めたまま、顔だけ突き出して、超然とその悲劇を受け入れていた。斯くの如き非常事態に於いて無様に焦ったりするようでは猫として未熟である。このように常に堂々としていなければならない。
 しかし内心、散歩にすら行けないのは癪だ。現在我輩の身動きがとれるのはこのやかん内に限られている。我輩の貫禄を持った体躯が仇となったか。やかんから身を乗り出そうとすると腹のあたりがつかえる。前足を出そうとすると今度は二の腕が邪魔をする。やかんの中は窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
 居間で話し声が聞こえる。主人と、その細君である。
「茶が飲みたい」
「お湯を沸かして来ますわ」
 二人の会話はいつも手短である。けして夫婦仲が悪いわけではなく、両者とも寡黙であるがために、家の中はいつも静けさが漂っているのだが、例えば主人の書斎などはその最たるものである。本の匂いに囲まれたあの狭い空間が我輩の好みに良く合う。読書中の主人の膝の上に乗り、我輩もその本を覗き込む。何時だったか主人は、漱石とか云う作家の、猫が主人公の本を手にしていて、この小説が大変我輩の気に入った。それからというものの我輩は、主人の留守の間に、書棚から漱石ばかりを拝借して読んでいた。我輩はこの主人に拾われた野良であるが、若い頃に新聞を漁って興味本位で字の勉強をしていたのが、まさかこのような形で役に立つとは、流石の我輩も想像もしなかったことだ。
 さて先ほどの会話の後、お湯を沸かそうと台所へやって来た主人の細君は、我輩のやかん姿を見たとたん、ぷっと吹きだして、そのまま居間へ戻っていって、夫にささやいた。
「貴方ちょっと、面白いものが見れてよ」
「見れてじゃない、見られて、だ。古風な話し方をしたってラ抜きでは台無しだぞ」
「いいから御出でなさい」
 主人はつまらなさそうに妻の後について台所までやって来たが、我輩のやかん姿を見るや否や、とんでもない大笑いをはじめた。
「わははは。こりゃ傑作だ。わはは。わはははは。ああ愉快愉快」
「愉快でしょう」
 我輩は不愉快だ。普段滅多に笑わない主人がこんなにも大笑いするのだから、余程我輩のやかん姿が滑稽に見えるのだろう。不愉快だ。主人も精々この程度の教養の人間であったわけだ。我輩は失望した。馬鹿みたいに大口を開けている下品な主人を思い切り睨み付けてやったが、それが逆にまた受けたようで、さらなる笑いの大波である。細君もつられてくすくす笑っている。我輩はもうこんな家は出ていってやろうと思った。
 しかしそれも、やかん姿には無理な相談である。

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