仮にこんな仕事があったとする。渋谷駅を降りて、しつらえられた喫煙コーナーに隔離された愛煙家、老いも若きも、スーツ姿もブランド固めも、立つ壁にもたれ、誰とも目をあわせずにタバコをふかし、耳と肩とに携帯はさんで通話しながら灰をおとしている人々を、品定めして、一人選んで尾行する。ひと気のなくならないこの街では耐え忍んで、用事をすませ、電車に乗り、帰路についたあたりでそろりそろりと近寄り――爬虫類のベロのようなすばやさで後ろから首に手をかけ、マヨネーズをしぼり出すように力をこめる。
 ぐったりしたヘビースモーカーを、ていねいに折り畳んで、スーツケースにしまって本部にもどると、近場の駅で仕事をしている同僚たちは獲物の処理にもうとりかかっていて、遅れをとらぬようこちらもあわただしくトランプ・カードを、書き物机の引出しから一式取出す。慣れた手つきでスペードのジャックを引き、スーツケースの側面の溝にスッと通すやいなや、中で悲鳴があがる。若い女の声のときは、とくにさわがしいので、あらかじめ耳栓をつけて作業するが、いつでも一分もしないうちに叫びは嗚咽にかわり、早すぎた埋葬に抗議する死体のようにげんこつで内壁を叩く音がくぐもっている。それが収まるのに時間がかかるときは、途中でトイレに行っても特に問題はなく、うんこをトイレですることによって、おしりを拭かなければならない社会的重圧がひしひしと感じられても、ある程度柔軟に対応できる。
 手を洗って戻ると獲物は静かになっていたので、ふたを開けて衣服を脱がせ、ズボンのポケットや手提げ鞄をまさぐって煙草の箱を探し当てると、百円ライターで点火して、汗に光る背中に先端を押し付け模様づけしていく。けむりと肌の焦げる匂いがうす暗い部屋に立ち込めるなかで、仕事人は黙々と作業する、この作業は慎重さと集中と、特殊な心的状態が要求されるのだから。短くなった煙草はスペードのジャックの上にこすりつけて置くが、さっきこのカードでおしりを拭いてしまったため、折れ曲がって不安定な形をしているので、置く際にもまた注意力を要する。
 焼きごて作業は遅々として厳かにすすみ、ようやく点描の構成する紋章の全体像があらわれる――天を見上げ、座って吠える、横顔の、抽象的な動物――ライオンのようなたてがみもあり、狐のようなしなやかな体つきにも見え、尾は鳥類のそれのように扇形を思わせる。犬の従順さも、獅子の猛々しさも混在して、彼は空高く昇った太陽を、崇拝し、あるいは挑みかかり、しかし怯えてもいるようで、神々しさを放ちはじめるかと思えば、次の瞬間ただの過剰な根性焼きへと還元されて冷や水を浴びた気分になりうる。
 キャンバスに目をこらしていた彫り師はふと顔を上げ、全体のバランスを眺めて最後の一筆を入れていく。完成品は部屋の隅にひっそりと横たえられたブナの神木にうつ伏せにくくりつけ、十一体すべてが揃うまでは黙ったままの仕事人が吸い殻を一か所にまとめて後で掃除するときの手間を軽減する。
 真夜中に儀式ははじまる。ブナの葉を身にまとい、どんぐりの首飾りをした少年たちが神木の両側に陣取り、ラジオの深夜ニュースのジングルが鳴り始めると同時に抱えあげる。開いている扉から出て、殺風景な廊下の突きあたりから狭い階段を下りる。長い神木をターンさせるには踊り場で縦向きにする等工夫が求められ、少年たちの額に汗がにじむが、木にくくりつけたラジオからのニュースが終了する前に地下室へと運びきらねばならない。
 一条の光も差さぬため、六方黒く塗りつぶされていることに必要性を認められない、何もない地下室は、天井が大聖堂のように高いことが、空気の感じからおのずとわかる。神木が到着するとそこに立っていた司祭がラジオをまさぐって消し、手にしたタンクから十一体の捧げものに聖油を注ぎ、聴き取り得ない低音の祈りをつぶやく。それが終わると司祭はローブの下からマッチと一本の煙草を取り出し、火を点けて神木の先頭の少年に手渡す。暗闇に少年の細い顔だけが浮かび、司祭が出て行ってドアを閉める音がする。ドアの外には仕事人たちが、ひざまずいて待機している。
 短い沈黙のあと、地下室の中で炎の燃え上がる音がする。内部の酸素がなくなるまでその窓のない空間で続く焚き火を胸に描きながら、司祭を先頭に彫り師たちは扉に向かい、頭を垂れて待つ。それが、太陽神への生けにえの儀式である。
 後片付けは日の出までに済ませて、その晩の仕事は終わる。給料は日当で五万円から八万円。交通費は支給される。

同性愛のアメリカ現代史

 同性愛のアメリカ現代史
 ――「同性婚」にみる家族や結婚のあり方の変容

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§0 序論

 同性愛者のパートナーシップを認める法律制定の議論に至るまでの歴史的過程を軸に、同性愛者への社会の風当たり、制度の変化を辿るとともに、浮かび上がってくる「家族」や「結婚」の概念の変容を見据える。
 アメリカでは、ピューリタン的な節制を求める性道徳と、同性愛の倫理的な罪悪視が強かったにもかかわらず、一方で60年代に始まる性解放や、ゲイ・レズビアンのコミュニティ形成と全国規模の組織的な運動が目をひく。性の乱雑を嫌う保守派は、共和党支持者やキリスト教右派の団体が主で、同性愛には否定的であり、伝統的な家族のかたちを大切にすることを重要視する。セクシュアリティを個人の人権として主張する同性愛者の運動は、その伝統に様々なかたちで挑戦をいどむ。それは反抗的なカウンターカルチャーの様相を帯びることもあれば、異性愛者と同等の権利を要求する、同化的な方向に進む時代もある。同性カップルにも結婚の権利を、というのは、後者すなわち同化的な発想であると大ざっぱにいえる。
 結婚の概念を拡張して、同性間にも適用するべきだという運動に至るまでには、そもそも異性間の結婚や家族のあり方自体が、変容を遂げ多様化していたことが背景にあった。さればこそ、新たなタイプの世帯を構成する同性愛者のカップルも、法的に包摂されることが現実的な可能性として現れたのである。本論では、政治的な流れや議論の争点を追うだけでなく、異性愛者も同性愛者も含めた、人々の暮らしぶりや価値観の変化にも注目して、この多様化の過程を掘り下げてみたい。そのため、性への意識の大きな転換点である1960年代からの展開を扱う。
 同性愛者の正確な人口は不明であり、両性愛者との線引きが曖昧であるから定義自体も難しい。1948年のキンゼイ報告では男性で3割、女性でその約半分が何らかの同性愛体験をもち、常習的な同性愛者は人口の1割いるとされたが、以後の調査では2%から5%くらいというのがよく目にする数値で、Hunter College Pollの調査では両性愛者も含めて2.9%とある。

§1 性革命以後から、エイズ以前まで ――1960~70年代

 1960年代のアメリカは、ヴェトナム戦争や黒人の公民権運動に揺れる中、自由主義・解放運動への関心が高まった時期であった。50年代の権威主義的なマッカーシズム(反共は同性愛嫌悪と結びついた)が冷戦の「雪解け」で弛緩し、その反動で、世間的に多様性に寛容になっている時期であった。よりマクロにとらえるなら、男女の行動に節度を求める19世紀以来のヴィクトリアニズムの反動で、20世紀には、とくに1920年代からのフロイト理論の膾炙にともなって、科学と性を結び付けて理論武装することで厳格な性道徳に対抗する傾向が顕著になっていた。
 経口避妊薬(ピル)の開発は1959年で、63年に使用が許可され、急速に普及したが、この薬は法的制限のある中絶という生命倫理的な問題に遮られることなく、女性に出産の選択権を与えた。妊娠3か月以内の中絶も1973年には連邦最高裁によって認められた。ヒッピー文化が形成され、大学生の同棲が増え、離婚率が増加し、婚前交渉は60年代のうちに倍増した(The Institute of Sex Research)。このように異性愛者の一部が、性愛(快楽の性)と結婚(生殖の性)とは別次元の話だと考えるようになったことが、性革命のもたらしたパラダイムの変化であった。生殖を目的としない性行為や、結婚せずに同棲を続けることは、言ってみれば、異性愛者の性生活と同性愛者のそれとの差が狭まったということだ。
 第二次世界大戦で軍や工場に国民が総動員されたことによって同性愛者のコミュニティ意識が芽生えたのをきっかけとして生まれた、1951年設立のマタシン協会(米国初の同性愛擁護団体)、1955年設立の「ビリティスの娘たち」(米国初のレズビアン組織)が、60年代に大衆紙で取り上げられ、知名度が高まった。1968年に設立されたメトロポリタン・コミュニティー教会は、ゲイの結婚式を執行する目的で生まれたキリスト教教会で、1971年までに500ほどの式を挙行した。
 同性愛者の解放運動は、同じくマイノリティ運動である黒人の公民権運動に多分に影響を受け、言説を借用している。黒人の中産階級が白人との融和を求める戦後からの公民権運動は、60年代からはむしろ白人との差異を主張し独自のコミュニティを形成しようとする、文化ナショナリズム的傾向をみせていった。それに歩調を合わせるように、同性愛者の運動も、50年代までは「差別さえしなければ伝統に従う」、異分子ではなく従順なマイノリティ市民だと主張する同化主義的な政治的レトリックを用いていたのが、60年代には差異を肯定する多文化主義的な方向に進んだ。例を挙げれば、50年代の同性愛者の自称’homophile’(「同性が好きな人」)は、homosexualという性的な響きに代えて、異性愛者との差異を些細に見せるための造語であったが、逆にゲイ解放運動の記念碑的事件である1969年のストーンウォール暴動から毎年行われた’Gay Pride March’は、同性愛であることを自己の否定的でないアイデンティティとして「誇る」態度を示す名称であり、黒人運動の標語’Black Pride’の影響がみられる。
 1970年代には、19世紀後半以来のフェミニズム運動が「第二波」と呼ばれる再度の隆盛をみせた。フェミニズムは、男女の関係性の規定や、性役割を批判的に捉え直すことで、ゲイの抑圧状況を分析する理論的枠組みを与えた。レズビアン運動家は、男の率いるゲイ運動家とは当時はむしろ仲が悪く、女性運動により共感をもっていた。
 ゲイ団体は1974年ごろには1000以上に急増し、各界でコミュニティが形成された。これらは地域的な団体であって、全国にわたる統一的組織はなく、国ぐるみの議論となるにはまだ遠かった。70年代はまだ、カップルよりも個人の権利、コミュニティづくりに熱心で、同性婚というテーマは最優先事項ではなかったといえる。

§2 エイズとレーガン政権 ――1980年代

 打って変わって80年代は保守化の時代である。1980年に共和党から、「伝統的家族観」の尊重をスローガンに掲げたレーガン大統領が当選し、1982年にはエイズが発見された。同性愛者には試練の時代であったと言われるが、保守派の側にも見逃せない変化は多い。
 当初、政府はエイズをゲイ特有の病気として対策を講じなかったので、ゲイ運動家たちはコミュニティの危機を救うための自助努力にせまられた。サンフランシスコ・エイズ財団などの援助団体が設立され、数千人のゲイのボランティアが病人の生活をサポートし、医師との折衝を行い、また啓蒙のためのパンフレットを発行した。
 1984年の大統領選において、レズビアンやゲイの代表団を含む民主党は、その綱領に同性愛者の権利を支持することを明記したが、再び敗れ、レーガンが再選した。1986年のバウワーズ対ハードウィック判決で、連邦最高裁はソドミー法を容認し、同性愛者がソドミー行為にふける基本的権利を持つという意見は「たちの悪い冗談だ」と一蹴した。
 こうした状況で同性愛者の怒りは頂点へ達した。1987年に設立されたHIV感染者の支援団体ACT UPなどが激しい抗議運動を起こし、同年ワシントンでのデモ行進には65万人が参加した。1988年までに82000人がエイズに感染し、46000人がすでに死亡していたという。
 アメリカの歴史家ジョージ・チョーンシーは、ACT UPなどのエイズ支援組織が、ゲイの生活の組織化に大いに寄与し、コミュニティ同士の連帯が強化されたと論じている。しかし一方で、同性カップルが法的に認められていないことが原因で様々な問題が表面化したともいう。たとえばエイズで働けなくなると企業保険を失い、パートナーがいてもその配偶者と認められないため婚姻制度に付随する保険が適用されず、国民健康保険のないアメリカでは孤立無援になる。また患者のパートナーが法的には他人であるため、見舞いを病院に拒否されたり、死後に遺言が無効となって故人の家族と相続をめぐるトラブルが起きたりした。こうして、同性カップルが法的に脆弱で、「家族」とされていないのだと思い知らされた経験が、90年代以降の同性婚や健康保険などの法的保護を求める運動につながる。
 この時期の標語、’Silence = Death’(沈黙=死)は、死に至るエイズへの危機感から、沈黙を破って同性愛を周囲の人々にカミングアウトし、積極的な行動に移ることの重要性を説くものである。実際、友人や知人にゲイがいると答えたアメリカ人の割合は1985年に22%だったのが、94年には43%に倍増している。カミングアウトによって、家族や友人のレベルで同性愛者が身近にいることを多くの人が認識するようになった。80年代に成立した「レズビアンとゲイ男性の親と友人の会」は1998年には500支部8万人を擁している。すると政治的にも、同性愛者に受容的な人々の存在が無視できない、すなわち重要な票田であるという認識が生まれてきて、前出の’Gay Pride March’に政治家が顔出しするといったアピールもなされはじめた。
 レズビアンはエイズの発生率は非常に低かったが、ゲイ男性におけるエイズの蔓延を身近に感じていたため、恐怖心は強かったし、主流文化の「健全な生活」キャンペーン、安定志向が彼女たちにも普及したことも相まって、70年代に急進的だったレズビアン・コミュニティが穏健化していった。
 その一つとして、あまり知られていないが、レズビアン・ベビー・ブームは極めて注目に値する現象だ。1986年にはサンフランシスコだけで500人近くのレズビアンの子供が生まれた。1981年の時点で、母親になったレズビアンは49%に達していたという報告もある。これは新たな家族の形態を示すものとして興味深い。カミングアウトの前に異性との関係で生まれた子を持つゲイやレズビアンは多数いたが、レズビアン・ベビー・ブームは、子どもを持ちたいとパートナーと互いに話し合った結果の、「同性カップルとしての家族計画」の産物である点で、「連れ子」とは性質が異なるのだ。彼女たちが子育てを始めたのは主流文化が家族の神聖さを強調しているのに影響されたのだと言えるだろう。一方で、男性と結婚しなくとも子どもを持てるという考え方は70年代の急進的なフェミニズムの賜物かもしれない。
 しかし、子を産んだ方の母親が死んだ場合、残されたパートナーに法的に親権がなく、個人の親族と養育権を巡って裁判で敗訴することがたびたびあった。ゲイにおけるエイズと同様、レズビアン・ベビー・ブームは同性カップルの法的保護の必要性を痛感する、つまり結婚したいと思うきっかけになったのだ。前出のメトロポリタン・コミュニティー教会は1990年までに全米で240教会に拡大し、85000の同性カップルの式を挙行している。
 伝統的な構成の家族を尊重しようとする社会的気運は一種の反動的な強がりで、実際のところはこの時期に離婚率は50%に達し、片親の家族や、子持ちの親の再婚による血のつながっていない「拡大家族」が顕在化していた。異性カップルの家族形態が生殖という軸を離れて多様化していき、むしろ血縁を前提としない、心理的な信頼感だけを基盤とするようになっていったことは、同性カップルの愛情による結びつきと、養子・里親や精子提供による子どもによって成り立つ家族を、れっきとした家族の一形態として認めることを促す基盤に成長していったといえる。 
 ゲイ・コミュニティの結束、ゲイとレズビアンとの接近だけでなく、この時期には伝統的家族観の維持を主張する保守派の側も、結束が強まったことが指摘できる。全国規模の教会ネットワークや、所属のラジオ局やテレビを通じて家族の神聖さを強調する活動を行った。ニューヨークではカトリックとユダヤ教徒と福音派プロテスタントとが宗派を超えて結束した。80年代は、同性愛者の権利への賛否の二極化が進行した時期なのである。
 イギリスの社会学者Jeffrey Weeksによれば、1980年代のアメリカないし西欧における「新右翼」(New Right)は、家族生活の神聖さ、「性的逸脱」への敵愾心、性教育への反対、男女の伝統的役割を再び協調することを、強力な政治的武器としていた。すなわち、それまで行政にとっては周縁的なものであった性に関する議論が、はじめて(解放への反動という形で)政治的関心の枢要に据えられたのである。1990年代以降、国家レベルでの同性婚の議論の顕在化を可能たらしめた下地は、この反動の時代にできたものとも言えよう。

§3 同性婚という目標 ――1990年代以降
 
 同性愛についての全米規模での議論は、90年代に軍隊→同性婚の順で浮上した。1992年の大統領選では、ビル・クリントンが米軍の同性愛者排除政策の廃止を主張、またエイズ対策として国民健康保険制度の創設を公約(のちに挫折)する一方、民主党共和党のジョージ・ブッシュはキリスト教保守派との結びつきを強化し、アメリカの精神をかけた「文化戦争」を同性愛者に挑む姿勢をとったことが、こんどは裏目となった。
 クリントンが政権につくと軍隊の同性愛者排斥を撤廃しようとしたが挫折を強いられ、妥協案として「同性愛者かどうかの審査はしないが、発覚したら除隊する」というDADT政策(Don’t Ask, Don’t Tell)におさまった。この政策は2010年に廃止が決定された。
 1993年にハワイ州最高裁の求めに対して、当局は結婚を異性間に限定することの利益を証明できず、同性婚拒否は州憲法に違反することになった。しかし96年に連邦上院で結婚防衛法(DOMA)が可決、結婚は一対男女間のものと明記されたため、98年に州議会は同性婚を無効とする州憲法修正を行った。
 2003年6月にローレンス対テキサス裁判において連邦最高裁は(かつて1986年に合憲とした)ソドミー法の違憲判決を下し、全州のソドミー法は無効となった。同年11月にマサチューセッツ州最高裁がこれを引用しつつ、同性婚の禁止を違憲とする判決を下し、翌2004年から同州において全米で初めて同性婚が認められた。許可証の交付開始から1か月で4000カップルが役所に並び、全米で大ニュースになった。初日に許可証を取得したカップルの3分の2がレズビアンで、その40%が子持ちだった。
 判決は宗教右派や共和党保守派から反発を招き、6か月後のブッシュ再選と同時に11州で結婚を異性間に限定する州憲法修正が可決された。ブッシュ大統領もキリスト教保守派の指導者からの圧力で、結婚を男女間に限る合衆国憲法修正案の支持を宣言した。一方キリスト教界でも一部ではオープンリー・ゲイの聖職者が選任されており、2005年には統一キリスト教会全米執行部が同性婚を宗教的にも支持している。
 2008年のカリフォルニア州最高裁での同性婚の許可に対しても、保守派の抗議運動が起こって5か月後に結婚を異性間に限定するという全く正反対の住民投票提案が同州で成立した。ゲイ権利運動の側はまたこれに抗議し、現在は司法の場で論争中だという。
 このように90年代以降の歴史はその双方が譲らぬ応酬を繰り広げて一進一退、錯綜としていながら、徐々に支持派が勝利を収めているという状況である。前述のように80年代に同性愛の賛否の二極化が進んだこともあり、主に政治的なレベルで対立が激しくなっているようだ。
 2008年の大統領選の際にオバマ側のマニフェストとして公開されたOBAMA AND MCCAIN ON LGBT ISSUESによれば、「オバマ氏は結婚許可証と同等の法的権利を与えるものとしてのシビル・ユニオン法を支持する」(訳は筆者)とあり、結婚の概念自体を広げるのではなく、別の法律で異性愛カップルと平等の権利を与える立場をとっている。また、同性婚の可否はそれぞれの州が決めるという点はオバマもマケインも共通している。
 政治はどうあれ、世論としては若い世代ほど同性愛に寛容になっていく傾向は否めない。ピュー財団の調査では2006年に同性婚を支持する人は過去最高の39%であった。

§4 現在の状況と議論

◆異性/同性カップルの現状
 1994~8年の統計で、アメリカの婚外子出生率は32%である(日本は1%)。2008年の調査では、両親とその生物学的な子どもからなる伝統的家族はアメリカ全家族の10%以下で、単親の家族の方が多くなっている。
 アメリカで60年代後半に広まった大学生=中流・上流階層の異性カップルの同棲は、法律婚のオルタナティヴであるのか、それとも結婚への移行段階なのかという問いが家族社会学の視点からなされた。80年代の研究は後者、すなわち同棲は新たな関係ではなく結婚前のおためし期間であると結論づけている(1981、E.D.マックリン)。しかし最近になってアメリカも同棲カップルを対象としたドメスティック・パートナーシップ法を制定する州がみられることから、未婚のあり方が結婚生活と別のライフスタイルとして確立しつつあると言えるかもしれない。北欧諸国やフランスでは結婚せずに同棲を続けているカップルから新生児の約半数が生まれている。
 同性カップルについては、2000年の国勢調査では未婚の同性カップルが約60万世帯、全世帯の1%を占めた。このような世帯を構成しているのは全同性愛者の約3割であると推定されている。地域的にも、けっしてサンフランシスコやニューヨークなどにゲットー的なコミュニティとして偏在しているのではなく、州別にみて最も高いカリフォルニア州で1.4%、最低のノースダコタ州でも0.47%と、まんべんなく分布していることが明らかにされた。
◆同性婚への批判
 同性婚の議論は、結婚においてヘテロセクシュアリティが所与として前提されていたあり方に一石を投じるものであった。しかし同性愛者自身による同性婚の批判は、議論の当初からあった。すなわち結婚のノーマライゼーションは、家族や親密性の価値を強化・再生産し、結果として非婚の生き方を軽視することにつながる。同性愛者コミュニティで形づくられた多様な生き方、一対一の恋愛という規範をも超えた豊かな関係を否定して、主流文化へ迎合するのは、50年代に戻ったかのような同化主義的な後退であるという批判だ。フェミニストからも、家父長制と切り離せない婚姻制度に同性カップルを閉じ込めるものだと言われたりする。
 だからといって、ドメスティック・パートナーシップ制度やシビル・ユニオン法で結婚と同程度の権利を保障されるとしても、けっきょく「結婚はできない」二級市民扱いになってしまうという懸念もある。
◆ジェンダー規範との関係
 既婚女性の労働参加率は1970年に31.9%だったのが2000年には61.1%と倍増した(ただしこの変化は黒人女性にはあまりみられない)。女性の社会進出によって夫婦役割に実質的な差がなくなってきたことは、同性カップルの特異性を和らげる効果をもっていた。また、親が両方とも男/女の家庭に育った子どもは、夫の役割、妻の役割といった価値観を継承しないため、ジェンダー秩序を重要視しないと思われる。同性婚は、性分業の崩壊と密接な相互関連性をもつのである。

§4 総括 ――新しい家族、拡大する結婚

 筆者が同性愛の問題として一番興味がある点は、アメリカにおける家族像の多様化、結婚のあり方の変容の流れの現時点での終着駅として、同性カップルの家族を位置づけられるということである。そこには生殖技術の発達も絡んで、新たな家族のあり方が端的な形で示されているからだ。
 同性カップルも養子縁組や人工授精によって子どもを意志的に持つことが可能で、現にそうしているカップルが非常に多い事実は、注目に値する。異性カップルにおいて片親の家族や、子持ちの親の再婚が一般化するにつれて、男女の親とその生物学的子どもという今までの家族像が相対化されていくと、同性カップルの家族も選択肢の一つとして視野に入ってくる。80年代にはエイズ患者の親族とパートナーとの感情的な争い(「お前がうちの息子をゲイにして感染させたんだ」)、レズビアン・カップルで子を産んだ方のパートナーが死んだ際の遺族との養育権争いなど、同性カップルと「伝統的家族」との直接対決がみられる。
 家族形態が生殖的なつながりから分離することは、性革命において愛情表現の性と出産の性が分離したことと似ている。家族も結婚も、必然的なものから意志的選択的なものへと変化しつつあるのだ。
 恋愛結婚を前提とした、夫婦中心の家族というイデオロギーは、1920年代から主にアメリカで採用され、第二次世界大戦後に世界的に普及したものである。家父長制の制度的家族から脱却し、妻と夫の役割を互いに尊重しあいながら夫婦平等と友愛を目指すこの夫婦制家族は、性役割を前提としているにせよ、パートナーとの合意に基づいた、ライフスタイルとして家族をとらえるものである。ライフスタイルならば、相手は誰を選んでも自由であるべきだし、離婚もしたい時にすればいいという考えに必然的になり、現にその傾向に進んでいる。同性婚もその延長線上の現象といえるだろう。
 かつて親や一族が決めるものであった結婚相手が、自由恋愛を良しとする風潮に応じて個人の選択の自由に委ねられる。民族や宗派を異にしてはいけなかったのが、白人と黒人のカップルが(いまだに風当たりは強い面もあるが)社会的に容認されつつあり、宗教権力の弱まりにつれて宗派を超えた愛もタブー視されなくなる。肌の色で結婚相手を制限しないのならば、性別や性的指向によっても狭められてはならないという話になる。結婚が個人の基本的人権とされる限り、選択の自由を求めて相手候補の範囲は拡張されていく傾向にあるのだ。同性の相手とも結婚できるとなれば、あと結婚できない相手は、既婚の人間、親の管理下にあり自己決定能力がないとされる「子ども」、そして人間以外(動物やロボット?)である。結婚の概念はどこまで拡大するだろうか? 婚姻や家族制度はこれからもその原型をとどめ続けるだろうか?
 楽しみなものだ。

《文献》

 『同性婚 ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史』ジョージ・チョーンシー著、明石書店、2006
 『レズビアンの歴史』リリアン・フェダマン著、筑摩書房、1996
 『性と暴力のアメリカ 理念先行国家の矛盾と苦悶』鈴木透著、中公新書、2006
 『論点ハンドブック 家族社会学』野々山久也編、世界思想社、2009
 『ジェンダーと社会 男性史・軍隊・セクシュアリティ』木本喜美子・貴堂嘉之編、旬報社、2010(主に第Ⅲ部『セクシュアリティ』)
 Sexuality Second edition, Jeffrey Weeks, Routledge, 2003
 『カナダのセクシュアル・マイノリティたち―人権を求めつづけて』サンダース宮松敬子著、教育史料出版会、2005
 『アメリカ・ジェンダー史研究入門』有賀夏紀・小檜山ルイ編、青木書店、2010(主に第13章『アメリカ・フェミニズムの現在』)
 『同性愛の歴史』ロバート・オールドリッチ編、東洋書林、2009
 『挑発するセクシュアリティ 法・社会・思想へのアプローチ』関修・志田哲之編、新泉社、2009
 『家族社会学を学ぶ人のために』井上眞理子編、世界思想社、2010
 (論文)『同性愛者のパートナーシップと家族、次世代への継承』砂川秀樹著、2009
 (論文) Findings from the Hunter College Poll of Lesbians, Gays and Bisexuals, Egan, Patrick J., Murray S. Edelman, and Kenneth Sherrill, 2008