スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

C83

 サントラa

 さうんどとらっく怨霊

 C83 3日目(12/31) 東X05-b
 オーバーイプシロン にて頒布

 ぼくが関わったゲーム三作品のBGMをまとめたものです。


 【試聴】
 01 怨霊: 来呼(タイトル)
 02 怨霊: 埋墓(第壱幕)
 03 怨霊: 廃古(第弐幕)
 04 怨霊: 開素(第参幕)
 05 怨霊: 大都(第四幕)
 06 怨霊: 再屠(最終ボス)
 07 怨霊: 最期(エンディング)
 08 noita: koti(タイトル)
 09 noita: taivas(ステージ)
 10 noita: sota(ボス)
 11 旧怨霊: 第一幕
 12 旧怨霊: ボス
 13 旧怨霊: 第二幕
 14 旧怨霊: ボツ


 同じところに以下の作品もあります。

 ・全方位STG 『noita』 (新作)
 ・超ランク弾幕STG 『怨霊』
 ・初音ミク曲集 『まぶしいからやめて』

 ジャケットa_

 
スポンサーサイト

独文独歩 6

 ホフマン
 『黄金の壺』

 E.T.A.Hoffmann, 1776-1822
 Der goldne Topf, 1814

 素人の文芸サークルの部誌を、斜め読みするのが好き。たいてい童話風の小品がひとつは載っている。メルヘンというのはとりあえず不思議なことが起こっていれば成立するし、論理的整合性もいらない。魔法使いうんぬんのモチーフは漫画やゲームにおけるコンテクストが豊富なので、説明が下手でもよそからの借り物で世界観を作れる。そして、短くても言い訳がつく。書きたくなる気持ちはよくわかるのである。
 自由度が高いからこそ芸術として完成させるのは難しいジャンルのはずで、高校生とかが考えなしにオシャレぶって書いてもスベるのは仕方がない。その点で『黄金の壺』、ノヴァーリスやシュレーゲル直系の後期ロマン派・ホフマンの自信作は、一見すると頭の中がお花畑としか思えないような部分にも、作者の思想が込められた手触りがちゃんとある。どんな文学が本物でなにが猿真似かをはっきり見分けるのは難しいけれど、一つ言えることは、すぐれたメルヘンに登場するモチーフはどれも必ず何かしらの象徴性を帯びていて、しかもそれが頭でっかちや露骨ではない形で表現されているということ。
hoffmann1.gif
 上の図が一番大きなテーマ。不運続きの大学生アンゼルムスが、霊界の存在である蛇の姿をしたぜルペンティーナに恋い焦がれ、その父で人間界と霊界を媒介しているリントホルストのもとで、奇妙な文字を筆写する仕事を通じて、彼女のいる楽園へ近づいていくという話です。
hoffmann2.gif
 それに対応する現実世界の人々が上の三人。ヴェロニカは最初アンゼルムスが宮廷顧問官になるだろうという将来性に恋していたけれど、彼はあっちの世界に行ってしまって、代わりにその職についたへ―ルブラントと終盤で結ばれる。空想界の幸福がアンゼルムス、世俗の幸福がへ―ルブラントの辿る道ということです。
 ただし完全に対立するかというとそうでもない。アンゼルムスも当初は出世したかったのだけど、ことごとくツイてない、世渡りの才覚のないヤツだったから挫折したわけで(錯誤行為についての精神分析理論を使うと、そもそも世俗の成功なんて望んでいなかったとも言えそう)、一方へ―ルブラントもパウルマンに指摘されているように(第二の夜話)、詩的なもの、幻想への愛着はもっているほうだった。両者が区別できるのは、最終的に想像界へ完全に沈潜していくか、それとも現実の可愛い娘にその想像を投影して済ませるか、という違いにおいてです。アンゼルムスがその沈潜の過程でゼルペンティーナとヴェロニカをごっちゃにする(第九の夜話)ことからもそれが分かる。
hoffmann3.gif
 ヴェロニカもアンゼルムスを空想界への歩みから取り戻すために、リントホルストの敵である魔女(子供のころ世話になったリーゼばあやの姿をしている)と結託して、万策講じます。魔女というモチーフを使っておどろおどろしいことをやっている理由は、これがアンゼルムスの旅路を阻む現世の「誘惑」だということを表すためでしょう。
 ホフマン自身が恋多き人で、歌唱を教えていたユーリアという二十歳年下の娘に、妻のいる身で惚れてしまってひと悶着あり、その失恋直後の作品がこれなのだそうです。私小説みたいに表には絶対に出さなくても、メルヘンの形をとってその経験が昇華されているのかもしれない。

独文独歩 5

 ヨーゼフ・ロート
 『果てしなき逃走』

 Joseph Roth, 1894-1939
 Die Flucht ohne Ende, 1927

 ロシア革命以後、社会主義に寄せる期待はヨーロッパでも高かった。世界恐慌でガタついた資本主義世界にとって、五カ年計画で政府主導の工業化を推し進めているソ連は輝いて見える。人のふり見てわがふり直し、ケインズの修正資本主義、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策につながって、国家が経済に介入するのもアリだなという世論は一般的になった。
 『果てしなき逃走』はそれより前に書かれた作品ですが、新聞特派員としてソ連の官僚主義な現実を見てきた作者は、すでに革命に幻滅してしまっている。オーストリアの将校トゥンダは大戦中ロシア軍に捕らえられて、赤軍の兵士として革命のただ中に身を投じる。しかし祖国での帰還兵としての栄達の道も閉ざされ、性格としてはどんな党派や思想にも与したくない、そんな物質的にも精神的にもニートな主人公にとってプロレタリアート思想など馴染めるはずもなく、ロシアを見捨てて許嫁イレーネの待つ故郷へと向かうが、君主国オーストリアは解体し、西欧世界の中にももはや居場所はなくなっている。

 彼は革命が目下必要とする以上の生命力を持っていた。自らの主張に生を順応させようとするその理論が必要とし得る以上の、自主性を持っていた。結局のところ、彼はヨーロッパ人だった。教養ある人たちがよく言うところの、「個人主義者」だった。生を存分に享受するためには、彼には複雑な境遇が必要だった。(…)倒壊の恐れが予感されながら、何百年もの耐久力が保証されている、そんな摩天楼の近くにいることが必要だった。彼は「現代人」(modelner Mensch)だった。
 
 だが僕はこのトゥンダの性格像を、西欧とソ連の両項から疎外された人間として読むのではなく、新説を提示しようと思う。すなわち、男性性を喪失した男として。
 軍人よりも音楽家になりたかったような出世コース拒否タイプの人間のくせに、その音楽家になった兄に食わせてもらっている無職の自分が後ろめたくて、貧乏は男らしくないとか、女性に金の無心をするなんて厭だという。作中には知り合った女性たちの美しさや性格についての記述が目立つし、革命軍に参加したのもナターシャという男まさりの活動家との愛のためだけ。追い求める許嫁イレーネの影は彼の中の理想像でしかなく、結婚してパリにいる現実のイレーネは彼の顔すら覚えていなかった。結局この小説は何を描きたいのかと考えると、甲斐性を失いきって男らしさに自信をなくしている男の話といってよいのでは。それは母国を失った者というテーマにもどこか繋がっているかもしれない。
 ロートもまた離散の民ユダヤ人であり、父性的な宗教原理と、包容的コミュニティへの母体回帰願望という裏表がある。作者の女嫌いと父性への憧れは指摘済みらしく、つまり残念ながら新説ではなかったのでした。

独文独歩 4

 シラー
 『群盗』

 Friedrich von Schiller, 1759-1805
 Die Räuber

 年暮れにあちこちで耳にする歓喜の歌(Ode an die Freude, 1786)、あの腹立たしいほど人類愛に満ち満ちた賛歌の作者が、十代で書いた戯曲。それがこんなにも毒舌で反権力的だとは思わなかった。
 領伯の長男カアルが、父親に勘当されたと思って逆ギレし、盗賊団の長となる。それは領主を継ぎたい狡猾な弟フランツの陰謀で、絶望させて殺した父の後釜になって暴政をはたらき、兄の恋人アマリアに言い寄る。ならず者を率いて封建制度からの脱却を求める、啓蒙コンプレックスな疾風怒濤文学の代表者カアルのイメージは、義賊ロビン・フッドの物語やドン・キホーテの盗賊ロケに着想を得ており、弟が父と兄を騙して下剋上するのはリア王のグロスター伯親子に共通しているらしいが、僕はどれも知らない。
 毒舌なのはカアルもフランツも同等ですが、例えば第一幕第二景でカアルが、読んでいる書物に悪態を吐くシーンなどは痛快です。

 何んのざまだ! 何んのざまだ、このだれ切った、去勢された一世紀は。前の時代の仕事を反芻したり、古代の英雄を、下手な注釈本で苦しめたり、悲劇に書いて瀆したりする。ものを産み出す力など、とうの昔に涸れ果てちまった(…)
 法律とは何だ、荒鷲のように飛び翔けろうとするものを、堕落の底へ誘い込んで、蝸牛のように匍わせるのだ。法律が大人物をつくったためしはないが、自由は、巨人傑物をはぐくむ。(…)ああ! ヘルマンの精神が、灰のなかに燃え残っていてくれたらなあ!――おれを、吾が党の士の先頭に立たせろ、ドイツの国は共和国となれ、ローマもスパルタも、その前に出ては、尼寺同然の姿となれ。

 ヘルマンというのは帝政ローマ初期にゲルマン民族を率いてローマ軍を撃退した族長でアルミニウスともよばれる。貴族からドロップアウトした青年が、自国のみじめさ故に発奮し、過去の偉人に感化されて時代のリーダーを志向し、自由を叫ぶ。口は悪くてもその若々しい情熱は歓喜の歌に通ずる気がします。
 ニーチェがドイツ統一後に書いた『反時代的考察』(Unzeitgemässe Betrachtungen)の第二編『生にとっての歴史の利弊について』(Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben, 1874)を、授業の参考文献に出されて読んだことがあるのですが、カアルのセリフでその論を思い出した。曰く、人間の歴史は実証的な科学であるべきだとされて以来、生に奉仕しない死んだ知識の寄せ集めになっている。制限だらけの客観的真実でなく、自分なりに曲解して、心を揺さぶり創造へ導くような芸術的真実こそ、歴史の純粋なる観照なのだと。自国史や古代史に行動原理を見出そうとするのはドイツにはよくある衝動のようです。
 僕が好きだったのは、第三幕第二景でカアルが父も母もなき今の我が身を嘆き、子供になりたいとか母親の胎内に帰りたいとか、乞食や日雇い百姓になって、ささやかな喜びのためだけに汗水垂らして働きたいと願う場面。人の上に立つべき者特有の、素朴な生活への叶わぬ憧れがあらわれていると思いました。しかし無為徒食の貴族性から抜け出せないカアルは結局、アマリアとの愛にほだされて群盗(=革新を願う市民)を率いる指導者にもなりきれず、かといって百姓(=保守的な一介の労働者)のように愚直に働く気も実のところなかった。だから最後には自分の首にかかった懸賞金を、ひとりの日雇い百姓に恵んでやるという破滅的なふるまいでしか、自己肯定ができなかったのである――という総括を、法海恒吉という人の論文で読んでしまった。作品に負けず劣らず毒舌な文章で、なぜか自分のことのようにグサリときました。
 岩波文庫で久保栄訳、実吉捷郎の短い解説付き。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。