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独文独歩 9

 ユンガー
 『大理石の断崖の上で』

 Ernst Jünger, 1895-1998
 Auf den Marmorklippen, 1939

 経験者にたいして未経験者はつねに劣位に立っている。戦争を知らない世代の言論は、戦争を身をもってくぐり抜けた世代の一部の人にとっては物足りない。自分らの体験を共有しない者とは分かり合えないという考え方は世代間に限らず多くの議論の場でみられ、事実上の絶交宣言としてそれ以上の対話を為し得なくなるのが常である。
 第一次世界大戦後のドイツにおいて、戦争から遠い世代は年長者の側であり、それを代表するのがトーマス・マンである。一九二四年に出版された『魔の山』は、英雄的戦いとは無縁のサナトリウムでモラトリウムな非行動の小説であり、五年後にノーベル賞を受賞するが、大戦に従軍した血気盛んな若い世代の反感は強かった。その代表がユンガーで、西部戦線の志願兵として傷だらけになって戦いプロイセン最高の勲章をもらった軍人気質のこの作家は、死んだ精神より血の通った行動を愛するナショナリストであり、マンの作品をフランスかぶれのブルジョワ・デモクラシーへの迎合だと糾弾した。
 そんなウヨクじみた人の作品だが、これは反戦的な抵抗文学です。植物学者の兄弟の住む、湖に面した自然豊かなマリナの町、その南はブドウ畑で、北の平原には粗暴だが情のある牧人たちが住む。しかしいつごろからか森の中で暴虐を尽くす「頭領」の犯罪者集団が幅を利かせはじめた。果樹園や家畜や、人間の住む町や制度が大嫌いで、すべてを自然の野蛮さで埋め尽くしたいかれらのもとへ、勇敢なブラッケマールという男と、ある侯爵の二人が反撃に乗り込むが、あえなく惨殺。かれらを探しに行けというランプロス神父に従って兄弟は牧人族の一人ベロヴァールとその猟犬の護衛付きで、森の無法地帯のなかに入り、犬同士と人同士の乱闘が繰り広げられるが、結局主人公たち以外みんな死に、研究の成果も芸香庵(うんこうあん)ごと炎に包まれておじゃんになる。人間の積み上げたものを悉く灰燼に帰す、非人間的な力の勝利。いかにもバッドエンドです。
 ユンガーの小説はガルシア=マルケスなどのラテンアメリカ文学をよく形容する魔術的リアリズム、すなわち日常と非日常の融合したハチャメチャ系シュール現代小説の先駆として名高いそうです。この作品でいえば、主人公たちの召使ランプーザ婆さんとその子エリオの、庭中の毒蛇を飼い慣らしているシーンなどは非現実性が顕著で、ハイハイしながら毒蛇にミルクをあげる赤ん坊エリオは、のちにそれらを率いて頭領の猛犬たちを一網打尽にする。

 エリオは銀の鍋を、真鍮のフォークで叩いた。笑い声のような響きが大理石の断崖の底の峡谷をふるわせると、庭園の青い光沢のなかに一条の明るい光が射して、電光のごとく槍尾蛇が彼らの狭間からとび出してきた。地面のうえに金色の輪を描きながら、おもむろに人間の身の丈ほどの高さに立ちあがり、頭を時計の重い振り子のように動かした。牙が殺気に光り、息がシューシューもれ、角質のパチパチいう音がした。
 森の徒党は恐怖のため化石したようになり、眼玉が眼窩からとび出していた。蛇のボス「はげたか」が猛犬の耳にちょっと触れると、犬は死の痙攣に身をふるわせ、舌を噛み切りながら、咲き誇っている百合の花のなかに、のたうちまわった。

 長いので適宜改変したが、このエリオ格好良すぎである。逃げ回るだけの主人公たちを助けるさながらスーパーマンである。むしろ主人公たちは何をしたのか。忍び寄る悪の組織に対して何の手も打たず、知人たちの庇護下にぬくぬくと研究を続け、最後は武器を手にして戦ったとはいえ十分に勇敢とはいえない。言い過ぎかもしれないが、僕にはかれらが、療養所で趣味の本を読んで呑気にしている『魔の山』のハンス・カストルプと、そう大差ない種類の人間であるように思える。ただし彼らは、勇敢に戦いそして散ってゆく行為者たちに、心からの敬意を払っている。
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独文独歩 8

 カフカ
 『失踪者』

 Franz Kafka, 1883-1924
 Der Verschollene, 1914

 身銭を稼ぐためだけに働くのは辛いことだが、それを辛いと思わなくなるのが大人の条件である。仕事にやり甲斐を、職場に居場所を見付ければ、辛さを誇りに変えることは難しくない。しかし意義を見出せず、溶け込めもしないのであれば、その人はあてどなく放浪し続け、どこにも辿りつかずにいるだろう。
 失踪者カール・ロスマンの旅はどこにも向かわない旅だ。『審判』のKは自己弁護を、『城』のKは測量をしようという意志に則って行動するが、それら以前に書かれた『失踪者』のカールはひたすら受動的に、女中に逆レイプされ、アメリカに追放され、伯父のもとから追い出され、ドラマルシュとロビンソンの旅にのこのこ付いていく。ホテルのエレベーターボーイもクビにされ、ドラマルシュの愛人ブルネルダの身辺介護を手伝わされるはめになる。何かを求めて新世界に来たわけではないのだから、降りかかる環境の変化を甘んじて受けねばならない。事態に巻き込まれるだけの主人公の意志は踏みにじられ、一切が思い通りにいかない。
 カフカはこの小説の進捗を、のちに二度の婚約と婚約解消をするベルリンの恋人フェリーツェに仔細に書き送っているが、作中における異性のキャラクターといったら一筋縄ではない。とくにポランダー氏の娘クララは顕著にこじれている。わたしの部屋でピアノを弾け、とカールに迫って力ずくで引っ張り、羽交い絞めにしてレスリング技をかけるような女である。

「レディに対して無礼をはたらいた罰ってものよ。一発くらったほうが、あんたのこれからのためにいい。残念だわ、なかなか可愛い坊やだものね。柔術を習っとくの、そうすれば、やり返せるわ――ほんとにピシャリとくらわしてやりたい。してはいけないだろうけどさ。この手が勝手に動きだす。(…)あんたの頬っぺたがはれあがる。恥を知るなら――いいわね、恥ってものよ――とてもおめおめ生きちゃいられない、とっととこの世からおさらばするの。でも、どうしてなの、どうしてこんなにさからうの、わたしが気に入らないの? わたしの部屋に来たくないの? ほんとにピシャリとやりたいわ。今夜は我慢してあげる。(…)いいこと、覚えておくの、いま平手打ちをくらわさなくても、このざまをごらん。みっともない格好じゃないの、平手打ちをくらわされたのと同じこと、わかるわね、わからないようなら、ほんとうにくらわしてやる。(…)」

 直前でグリーン氏にセクハラされているときのしおらしさはどこへやら、謎の論理で一方的に叱責してくる。取っ組み合いには溜息やほてった顔などエロティックな描写がでてくるから、あるいは性的な隠喩を含んでいるかもしれないが、それにしても意味がわからない。カールは腕っぷしを磨いていつかレスリングで復讐してやりたいと考えるが、結局クララの部屋に行ってピアノを弾くはめになる。すると彼女のベッドに寝そべった許婚のマックが拍手して登場――やっぱり意味がわからない。
 とにかくカフカが、女性との関係に猛烈なアンビバレンスを持っていることだけは感じられるのである。ただしそれ以降も常に歪んでいるとは一概には言えなく、調理主任の秘書で薄幸のみなしごテレーゼとの楽しいひとときなどは珍しく健全だが、一月半で職場をクビになって離ればなれ。後半に登場する、超肥満にして要介護、しかし色気は妙にあるらしい女歌手ブルネルダときたら小説中きっての強烈なキャラクターのわがまま女である。
 男も男で曲者ぞろいなので、女だけに不条理の原因をかぶせるわけにはいかないが、冒頭の火夫の場面以外はどのシーンにも中核となるヒロインが一人ずついるようだ。カフカの作品でよく指摘されるように、男たちどうしはどこでも身分差と権力関係の構造を形作っている。しかし女はそのヒエラルキーの枠外にいるのだ。彼女たちがこの謎小説の解読の鍵を握っているにちがいない。
 白水社の軽妙洒脱な池内紀訳で読みました。

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