独文独歩 11

 マルクーゼ
 『エロス的文明』

 Herbert Marcuse, 1898-1979
 Eros and civilization, 1955

 文明とは、個人の満足を抑圧して、リビドーをより効果的な目標に向けさせるものである。受動的な快楽を生産的な仕事へ変容させるものである。個人の幸福を全体の進歩のために犠牲にするものである。だから個人と文明、快楽原則と現実原則はつねに対立している。しかしマルクーゼは、その葛藤を解決する、抑圧のない文明のプランを提出する――それがエロス的文明である。
 抑圧は、物的欠乏という外因的な要因から生まれるものであって、本能の本質に内在するものではない。苦悩が存在するからといって、その状態が正当だというのは早計だ。ましてやその苦悩を、現世の快楽を否定する根拠だと強調する弱者道徳などもってのほかである。苦悩には欠乏という原因があり、いずれは取り除けるのである。
 今まさに文明の進歩によって、労働が減少し富が増え、欠乏の解消とともに抑圧も不必要になりつつある。欠乏なしの自由な欲求の発展は、既存の社会秩序の崩壊を招くので、締め付けが強化されるが、その悪あがきこそが新たな秩序が求められている証である。
 今までの秩序はどんな倫理のもとに成り立っていたか。それは理性主義と、生産性の倫理である。西欧の哲学はいつだって理性の概念を、すなわち現存する社会の原則を重視していた。しかしその哲学ですら常に、それと相反する感受性やら瞑想やらの「より高いかたちの理性」を夢見ていたではないか。原始の完全な満足の記憶が無意識から呼びかけてきて、人類に未来のユートピアをいつも描かせているではないか。新しい秩序は、理性ではなく感性を、生産性でなく非生産性を、仕事でなく遊びを――今までは知的に劣等だとか女性的だとか称され貶められてきたそれらの価値を復権したところに生まれるのではないか。理性と感性を和解させるという発想、それが論理学に対抗する立場としての美学の考え方であったり、意識を通じて抑圧を免れた空想を体現する芸術創造の営為であったりするのだ。感性・非生産性・遊びに価値をおく文明――それはある意味で原始への退行であるが、しかし成熟した意識とともに導かれる退行である。満足のための満足を禁止しない、本能が解放された世界である。
 それはフリーセックスで色情狂の社会を意味するのではない。生殖に奉仕する「性」は、性感帯(きわめて広義の!)からただ快楽を得るだけの「エロス」へと変形される。性器中心的な性欲の組織化は破られ、エロスがパーソナリティ全体に拡大し、いわば、みずから抑圧抜きの昇華をし、野蛮なものではなくなる。単なる性的表現はむしろ減少し、より高められたプラトニックな快楽、限りなくアガペーに近い何かが、社会に有用な仕事をしている時すらも感じられる。労働が遊びに従属することで、快楽原則と現実原則は一致するのである。
 西欧の理性と生産性のイデオロギーを全否定するユートピア論。欠乏がそう簡単に減少するかという妥当性はともかく、新左翼の旗手と聞いて納得のラディカルさが面白い。精神分析の理論はほんらい反社会的なのだ。しかし治療の現場においてその理論は、社会に適合できなくなった患者を更生させ、現実原則を受け入れさせる、社会の味方として働かねばならない。だから臨床を重視する精神分析家、そして本書で新フロイト修正主義と括られる立場は、往々にして社会に迎合的で、根底からの価値観の相対化が出来ておらず、現実原則を無批判に承認している。それが著者には許せない。この社会の「生産性の倫理」に手をつけない限り、全体的パーソナリティーの抑圧なき発展など永遠に望めないのである。