スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

独文独歩 15

 トーマス・マン
 『非政治的人間の考察』

 Thomas Mann, 1875-1955
 Betrachtungen eines Unpolitischen, 1918

 かつて読んだユングの『心理学的類型』という本では、人間を「外向的」と「内向的」に大きく二つに分け、外の世界を重んじ行動と変化を求める人と、心の内に閉じこもり観照と自己保存を求める人とを対比的に分析していた。両者はお互いを自分の価値観に引きつけて理解する。内面的生活に縁のない外向的人間は、内向きの人をただの無気力コミュ障と見なし、逆に社会的価値を軽視する内向的人間には、社交好きの人が軽薄で内面の貧しい俗物に思われ、こうして二人は永遠に分かりあえないのである。そして文明社会は、そこにおいて意見、行動、進歩が問題である限り、多かれ少なかれいつでも外向的人間の味方であり、内面で感じ考えた複雑なものを言葉に翻訳できない不器用な内向的人間は、無能力な唖とみなされる。ユングはこのかわいそうな内面的人間をもっと公正かつ思いやりある態度で社会に包容してあげるべきだと言っていた。そしてトーマス・マンが本書で熱弁している内容も、政治的人間に対する非政治的人間のプロテスト、デモクラシーと進歩主義に対するナショナリズムと保守主義の主張、すなわち外面性に対する内面性の擁護といえるのである。
 戦争は、あらゆるものを目覚めさせ昂揚させ、変化を促進させる。無自覚的な生活をしていた人にも、明確な立場と行動を要求する時代である。今まで政治に関わってこなかったマンは、戦争について肯定か否定かの二者択一を迫られたとき、肯定を選んだ。フランスを始めとするメインストリームな協商国のデモクラシー的「文明」から、ドイツの内向的で謙虚で原初的な情熱をもつ「文化」を守ることを選んだ。このナショナリストとなったマンの声明を、野蛮で反理性的な戦争賛美の言説だとして、フランスの大作家ロマン・ロラン、作者の兄ハインリヒ・マンなど、国内外の作家が囂々たる非難を浴びせる。なまじ性に合わない政治的言説を、時代にそそのかされ調子に乗ってやってみただけのマンにとって、この攻撃はショックだっただろう。こうした戦争の是非をめぐる論争をきっかけに、内向的なマンは自己反省の渦にはまりこんでいき、自分と論客との対立のうちにありとあらゆる次元の二項対立を見出し、安易な反戦論者への軽蔑、政治一般、行動的人間、フランスかぶれへの嫌悪、そして兄ハインリヒへの個人攻撃がいちどに大噴火して、目もくらむばかりの、『魔の山』と同じくらい長い本書が書き上げられた次第である。
 彼は言う。政治とは非人間的で下級な領域である。政治的人間はだれもが例外なく教条主義的で、善悪の基準が明確であり、都合のよろしいことに自分はつねに善の側であり、それゆえに行動する権利があると無反省に自惚れて、絶対悪である他者を批判し攻撃し、自分と異質なものをすべて打ち倒すことに熱狂している。かれらは博愛主義をうたうくせして、皮一枚めくれば人間不信の塊であり、社会を改良する制度を後生大事にしていながら、自分は倫理的敬虔さをみじんも持ち合わせない、すなわち人間とも呼べない輩である。自分がほんとうに正義なのかどうか一度も疑ったことのない正義のヒーローは、ただの暴力人間である。
 非政治的人間こそが人間的な人間である。「正義」は個人の良心の問題であり、懐疑、自己反省、内心の葛藤から生まれ、謙虚で精神的な情熱として現れるものであって、政治的なスローガンであってはならない。非政治的人間は、社会批判の前にまず己の内部を批判し、自分の中にある危険で有害なもの、誘惑に心ひかれている弱い有り様をまず認識し、その罪の意識のゆえに、悪人とされた者をも理解をもって受け入れ、安易に裁くことがない。体内で善悪が激しい戦いを繰り広げている人は、外界の善悪には寛容か、もしくは無関心であり、政治的革新を好まず、保守的にただ自らの倫理的義務をこなすことを身上とする。戦争が起きても、それを正しいか誤っているかといった法廷事件に格下げするのではなく、時代の転換が要請する、善悪を超えた、一種の悲劇的運命として理解するのである。これは戦争の甘受であって、いたずらな戦争賛美とは一線を画している。一方的に反戦を唱えて自分の清廉潔白ぶりをひけらかす美徳居士の政治屋たちよりも、よっぽど繊細で高貴な態度ではないだろうか。
 これが非政治的人間であるトーマス・マンの言い分である。ユング風に言えば、内向的人間が自分の価値観に基づいて外向的人間を批判しているようすである。
 内面が豊かな人ほど政治を軽蔑する――これは理屈にかなった悲しい矛盾である。沈思黙考と勇敢な活動、哲学者と社会改良家の幸福な一致こそがプラトン以来の政治の理想であり、国家の目標であると同時に一個の人格的完成の目標でもあり、マン自身が『大公殿下』で描いたものでもある。薄っぺらい進歩的知識人は両者を兼ね備えているふりをしているだけで、内面には乏しい。逆に、自己完成さえすれば満足だといって社会に構う気のない浮世離れの世捨て人も、どこか不完全だ。外向的人間と内向的人間は永遠に分かり合えないのであろうか? ほんとうは誰でも両方の性向を併せもっているのではないだろうか。自分の裡に外向性も内向性も共存していることを感じ、絶えず葛藤し迷い続ける人こそ、じつはこの幸福な統一に近づきつつある存在であり、本書はまさにその一例、マン自身の自己考察を通じた統一と止揚の過程なのである。
スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。