独文独歩 17

 『カール・クラウス著作集 5 アフォリズム』 池内紀編訳

 カール・クラウスはジャーナリズムの陳腐な言葉遣いを批判した世紀末ウィーンの作家である。彼にとってジャーナリズムとは、どんな偉大な精神をも陳腐な意見にひきずりおろし、深遠な思想ではなく薄っぺらな社交のために言葉を使う、瀕死の文化にはびこる蛆虫であり、精神の淫売である。言葉は、詩人の専売特許であって、画家にとっての絵具に比すべきものであり、詩人以外が言葉を用いること自体そもそも許されない。お前らにはジェスチャーで事足りるだろうというのである。詩人の言葉、思想の言葉、すなわち現実の素材を指し示すことから離れて高く飛翔していく不死の精神の言葉、これだけが真の言葉で、政治的意見とか煽動のための言葉は下劣である。言葉への信仰が絶対的だからこそ、クラウスの攻撃は舌鋒きわまる。
 ところで興味深かったのは、批判はジャーナリズムだけでなく、心理分析という一見関係ないものにも及んでいる点である。心理学は学問的分析でなく、凡人が天才に対して行う情熱的な復讐なのだという。芸術家にあって自分には欠けているものを、病名で診断し、それで才能の原因をすべて説明した気になっているのである。

 彼が分析するのは、自分が綜合のない断片からできているからである。(…)いかに彼が振る舞おうとも、天才の説明としてもち出すものは、御当人における天才の不在証明である。しかし、天才は説明を必要とせず、凡庸が天才に対して弁じ立てる説明は、みじめさの結果なのだから、心理分析の存在理由は一つしかない。そっくり心理分析暴露のために適用可能ということ。

 心理学が行う説明は、天才が天才である原因を解剖して、自分たちと同じレベルに引き下げるための言葉である。たとえばワーグナーの書いた楽劇はかれのエディプス・コンプレックスの昇華であり、父親に取って代わりたいという無意識の願望の変容である、という説明がなされる。ところがこの言葉は、主語を「○○が医者になったのは」とか「○○がボーリングを好きなのは」とか、何に言い換えても通用するわけで、結局ワーグナーをワーグナーたらしめた特異性には全く触れられていない。(人間を物質性へ還元するような見方に対して反駁しようとすると、どうしても特異性とか霊魂とかクオリアとかいったふんわりしたタームしか使えないのであるが、そのこと自体、物質を示す言葉よりもふんわりした言葉のほうが偉いことを示している。)何よりうざいのは、心理分析家はみずから客観的であると称して、精神の作業に動機の嫌疑をかけ、白昼堂々と復讐するところである。
 ジャーナリズムと心理学、それらは一見無関係だが、偉大なものを陳腐化しようとする還元主義的な点において共通する。あの偉人も所詮はおれたちと同じ人間だから、その業績も大したものではない。そして、おれたちも偉人と同じ人間だから、偉人と同じくらい立派なことが言えるはずだ。ここにあるのは、貴族をひきずりおろす民主主義、大衆の反逆である。凡人たちは、正義の名のもとにひそんでいる自分の憎悪と思い上がりに気づかない。そして憎悪と思い上がりが原動力であるとき、立派なことが言えるはずがない。言葉への、詩人の言葉への、精神性・貴族性への、尊敬がなければならない。しかしクラウスは、自分以外の同時代人は全員救いようのない俗物どもであって更生の余地なしと考えているから、ひたすら辛辣な皮肉を浴びせる。こんな形で現れる真理愛もあるのだろう。

独文独歩 16

 ゲーテ
 『親和力』

 Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832
 Die Wahlverwandtschaften, 1809

 In der Komödie sehen wir eine Heirat als das letzte Ziel (...), und im Augenblick, da es erreicht ist, fällt der Vorhang, und die momentane Befriedigung klingt bei uns nach. In der Welt ist es anders; da wird hinten immer fortgespielt, und wenn der Vorhang wieder aufgeht, mag man gern nichts weiter davon sehen noch hören.
 私たちは喜劇において、結婚が最終目標となっているのを見ます。それが達成されるとすぐに幕が下りて、私たちは瞬間的満足を感じるというわけです。だが現実は別です――幕の後ろでは劇が続けられ、そして再び幕が開けば、もう見るにも聞くにも堪えないものになっています。

 かつて愛し合った二人が、それぞれ別の人と望まない結婚をするが、どちらも相手が死んでフリーになり、再び巡り会って結ばれ、幸せに暮らす――主人公夫婦のエドアルドとシャルロッテは、そういう喜劇を経験した二人である。しかし物語が始まるのは、その後からだ。
 二人の広大な家屋敷に、エドアルドの友人でただいま就活中の大尉と、シャルロッテの姪で寄宿学校の劣等生オティーリエが、居候することになる。大尉は女家主シャルロッテの庭づくりに協力し、オティーリエは家事の切り盛りに才能をしめす。この調子で四人共々仲良く暮らしていこう、あわよくば大尉とオティーリエをくっつけて幸せにしてやろう……ところがそれどころではない。子供っぽくて奔放なエドアルドが、面倒見の良い謙虚な美少女オティーリエに惚れ込み、いっしょに庭仕事をしていたシャルロッテと大尉も、なんだか仲良くなってしまう。分離と再結合をみちびく力、親和力。小説前半、第一部でこの過程が一直線に描かれていき、知らず知らずに脇道にそれはじめる無自覚な男女たちを、どうすることもできず見守る読者は、やばいやばいと興奮させられる。家にいるオティーリエに早く会いたいがために、妻と大尉をボートに残して去るエドアルド、やばいよ、二人きりはやばいっすよ。こういう感じでエンタメ性に欠けるところなく、惹かれあう個性の組み合わせの説得力も十分だ。第二部はエドアルドが旅に出てしまい、代わりに様々なお客さんの様子が描かれたりゲーテお得意の挿話をはさんだり、多様性を増すぶん何やら散漫とした感が否めないが、このまま際限なく四人でドロドロしてても面白くなかろうし英断であったかもしれない。
 最終的にはオティーリエとエドアルドが死ぬ。自殺である。なぜ死ぬべきだったのか。直接的にはオティーリエがシャルロッテの赤ちゃんを過失致死させた罪悪感からオティーリエが引きこもり絶食して死ぬのであるが、それ以前にこのカップルが、現世的社会的規範から少し外れた悲劇的な男女だったということが大前提としてある。
 エドアルドは一人っ子で、かつて年上の金満家と結婚してヒモになり、そいつが死んでからは遺産で遊び、今に至るまでわがままを否定されることなくすくすく育ってきた男で、それゆえに子供っぽい衝動性と情熱が抑えられることなく持続していた。大それた望みは抱かないが、自分の欲しいものを諦めるということには慣れていなかった。対照的なのがオティーリエの無欲である。何も熱心に求めたり望んだりせず、ただ献身的にまめまめしく殿方に仕える彼女は、わがままなエドアルドには確かにぴったりな家庭的女性だ。しかしその滅私奉公には単なる社会的礼節の域を超えたマゾい危うさがあるし、寄宿学校に馴染めないとか、エドアルドと同じ偏頭痛持ちであるというキャラ付けは、健全に世を渡っていくタイプ(第二部で登場する人気者ルチアアネのようなタイプ)とは真逆であることを示している。エドアルドもオティーリエも、互いに出会って情熱が引き起こされる前までは、それなりに世界に適応していたのだが、出会ったのが運の尽きだった。
 生き残った二人のほうはどういう性格か。大尉は現実的な人間で、抑制と自由、仕事と生活をきっちり分けてこそ、好きなことを正当にやれるのだという考えをもっていた。シャルロッテも大尉への恋は脇道であることをはっきりわきまえており、夫エドアルドの世間体を全く気にせず誕生日を大々的に祝ってしまうような無邪気なオティーリエ賛美よりは、大分まともに自分の気持ちに対処している。大尉とシャルロッテに共通するのは社会への配慮、規律を守ることを愛するおだやかさ、理性を失わないことである。一方エドアルドとオティーリエの特徴は、情熱ゆえの逸脱、苦悩ゆえのとっぴな行動、そしてオティーリエの日記に代表されるある種の内向性、そういったものである。地に足が着いていないせいで、うっかり現世から離れて行って死にかねないのがどちらのカップルかは、明らかだろう。
 落ち着いて死なずにいれば、普通に離婚&再婚で正しい組み合わせにチェンジして皆がハッピーエンド、それこそ喜劇として幕を閉じることができたのに――小説を読んだ者は誰しもそういう印象を受けるはずだ。そしてそれなのにみすみす死んでいった二人を、悲劇的というより馬鹿だと思うかもしれない(ぼくは思った)。しかし物語の最後は、二人が仲よく並んで棺におさまる葬式のシーンであり、生き残った方の二人がどうなったかは全く描かれることがない。ゲーテの共感と贔屓、温かい眼差しは、明らかに、来世で幸福に結ばれたかもしれない世渡り下手な二人のほうに、多く向けられているのである。