独文独歩 25

 ゲーテ
 『イタリア紀行』

 Johann Wolfgang Goethe, 1749-1832
 Italienische Reise, 1786-88

 南方精神の観察

 「私はいつもただ眼をばみひらき、印象を正しく受けとろうと思っている。できることなら、一切の批判を加えたくない。」

 批判も賛成もしない超然とした観察者になるのは、ゲーテにとっても決して容易いことではない。この決意的な文面こそがその証左でもある。堅苦しい公務に疲れてこっそり抜け出してきたゲーテは、イタリア人の心配無用な気ままさに憧れも抱いただろうし、逆に生産力のなさ、計画性や建設性の不足をあげつらいたくもなっただろうし、比較してドイツ人気質としての抑制、規則正しい仕事への信頼を、褒め称えてもよかったのだし、事実いくつかの箇所ではそれに近いようなことも言っているのだ。

  ローマにいると勉強をしたくなるが、ここ[ナポリ]ではただ楽しく暮したくなる。そして我をもこの世をも忘れてしまう。享楽を好む人間とばかり交際すると、私は一種変な気持になる。

 眼を見開き、印象を正しく受けとる、観察者であるということは、場への没入的な参加を拒んでいることでもある。自分はあくまで異国の者であり、違う立場の者としてブレずに一身を持していることが肝要である。ゲーテはなるべく素性も知られぬように冗談交じりに偽名も使うし、うっかり知られてもお忍び旅行中の大詩人としてちやほやされることを嫌う。日記中に自分のセリフがほとんど出てこず、いわば透明人間化しており、本当はもっと積極的な対話をしていたのを上手く隠して、あたかも自分が一方的に印象を受け入れるだけだったかのように見せかけているようだ。

 スケッチ

 写真を撮る代わりにゲーテはやたらとスケッチをする。城址でスケッチをしていたら野次馬が集まってきて、あげくスケッチは禁止されているのだと警官に言われ、破られたりもする。対するゲーテは滔々と景色の美しさを賛美して野次馬を味方につける。
 ローマから絵描きのティッシュバインと同行し、彼の絵の上手さをうらやましいと感じながらも、自分のヘタな絵も「感覚的事物の表象を作る上でよい助けになる」としている。

 火山に登りたがるゲーテ

 ゲーテはヴェスヴィオ火山やエトナ火山に異常な執着を示し、噴火口を見るために三回も危険な登山をしている。自分の靴も見えぬほどの湯気と灰色のほこりの中、足元には五日前の溶岩が冷却して固まっている道を、二人の強力に先導され引っ張られながら行く。噴出した石がひっきりなしに落ちてくるので帽子にハンカチを詰め込み、火口をのぞきこんで案外面白くないなどといってぐずぐずしていると頭を岩がかすめる。ここでもゲーテの記述はいたって冷静であり、お前なにやってんだという読者のツッコミを待ち受けているかの観すらあるように思える。
 火山は「冥府」であり、「しょっちゅう自己を破壊し、美的感情に挑戦してくる」醜い自然である。その深甚な自然に取りつかれたゲーテは、足しげく通っていたイタリア劇にも飽きてしまう。ゲーテによればナポリが怠惰と安逸の町であるのは、美しい景色と怖ろしい火山、神と悪魔の極端な対照に常時挟まれていることによる無関心に由来するのだという。街の住民にとっては美も崇高も身近すぎで何の印象も与えないのだ。とはいえゲーテも、熱狂して叫ぶのではない――「ただ大きな大きな眼を瞠るだけのことである」。
 シチリアのエトナ火山にも登ろうとするがこれは結局見るだけにとどめる。公爵夫人の部屋の窓からふいに眺められた満月と火山の焔の叙述などとても良い。

 日記というものはその日その日に経験したことを羅列するだけの気ままさにその本髄があるのであって、形式の美的統一に心を配ったりする必要はない。単なる日記であり書簡であり、一冊の旅行記というにはあまりに細部に無頓着である。しかしその無頓着さに一種の貫禄を感じるようでもある。