独文独歩 33

 ムージル
 『愛の完成』

 Robert Musil, 1880-1942
 Die Vollendung der Liebe, 1911

 娘の寄宿舎を訪ねる旅の道で、昔の男遊びを思い出して郷愁を覚えはじめる主人公クラウディネ。その娘の父も情事相手の歯医者の先生だったという。身を固めたことによって捨てた、より高い愛への可能性に思いをはせるうちに、電車で出会った行きずりの凡庸な参事官のもちかけてきた誘いに、身を任せることになる。しかしそれは単なる不倫ではない。本当の愛においては、二人はもはや誰にも聞かれない音楽のようでしかなくなる。不貞は夫との究極の結婚である。不実であることこそ、愛の完成なのだ。

 輪郭の崩壊

 主人公は、自分という人格、自分の人生が、ひとつながりのまとまりを持った確固たるものであるという実感を失っている。暗い部屋の中で立って男を待つとき、「自分の輪郭が、暗闇にあいた奇妙な穴にしか見えなくなった。」別の作品『静かなヴェロニカの誘惑』の主人公ヴェロニカもこう言っている。「わが身を内側からどんなふうに感じとっていたかを思い出してみると、昔はまるく張りきった水滴のようだったのに、今ではとうに、輪郭のぼやけた小さな水たまりでしかない。」「目覚めた魂というものは空間の内にあいた、何ものにも満たされない空洞なのだ。」
 人がふつう信頼している自我というものは、彼女たちのような、自然との真の合一感を求める者たちにとっては、実感にそぐわないものである。男を求めるのも、ある特定の男を求めるのではなくて、現実の凡庸な人間を踏み台にして、神的なものを感じたい、大きな流れの中に消えて無くなってしまいたいのである。その意識をヴェロニカよりもまだぼんやりとしか感じていないクラウディネはたとえば、大勢の人の臭いのしみこんだ、宿の部屋の敷物に身を投げ出したくなる。このような神秘主義的な、超個人的な感覚には、その反対のものには決して存しえぬ、恐ろしくもあるようなエロティシズムがある。

独文独歩 32

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927 
 
 (承前)

 頽落

 世間話Geredeにおいては、平均的了解可能性にしたがってつねに同一のしかたで了解するのであり、話が受け売りのものなのか、真に根源からくみ取ったものなのかを判定することができない。話そのものは了解されるが、話されたもののこと、話題にのぼった存在者のことは、ぼんやりとしか了解されないし、話題にのぼる存在者の地盤に立ち戻らないという不作為によって、むしろ存在者を閉ざし覆い隠す。「すでに理解した」ので「それ以上問わない」、というのが、平均的理解、既成的解意のあり方である。われわれは日常的にこの根源喪失の状態にいるのであり、すべての真正な了解は、ここから、これに反抗する形で行われる。
 しかし、根源喪失の誘惑は現存在自身が絶えず供するものなのだ。現存在の日常性は、頽落Verfallenの状態にある。すなわち、現存在はさしあたっていつもすでに本来性から脱落して世界にとらわれ、気を奪われている。世界に安んじているheimlichな状態は、実は非本来的な状態である。本来的なものへと人が連れ戻され、自分自身に向き合うようになるのは、不安によってunheimlichな心境になっているときである。不安においてはじめて人は、用具性がまったく捨象された、すなわち存在者がそれ自体の意味を失った、不気味で無意味な「世界そのもの」に臨むのである。

 Das beruhigt-vertraute In-der-Welt-sein ist ein Modus der Unheimlichkeit des Daseins, nicht umgekehrt. Das Un-zuhause muß existenzial-ontologisch als das ursprünglichere Phänomen begriffen werden.
 心安く親しまれた世界=内=存在が、現存在の不気味さのひとつの様態なのであって、その逆ではない。居心地のわるさの方が、実存論的=存在論的には、いっそう根源的な現象であるということが理解されなければならない。

 実在性

 世界は人間の意識から独立に存在しうる(実在論)か、それとも人間の意識の中にしか世界はない(観念論)のかという、ものの実在性Realitätを問う問題、いわゆる「外界問題」は、その問題設定からして間違っている。本当に知りたいのは超越的である「存在」であるのに、客体的な「存在者」を一生懸命解明しようとしており、その上両者を混同しているからである。そもそも世界の独立性をなぜ証明したいのか。外界と遊離した主観、すなわち未だ世界をもっていず、これから外にそれを取りにいこうと意志している純粋な主観とかいうもの、そんなものが存在するという設定自体をそもそも疑うべきではないのか。問われている現存在自体が、主客の分離という不自然な問題設定を拒むのである。

 Zu beweisen ist nicht, daß und wie eine »Außenwelt« vorhanden ist, sondern aufzuweisen ist, warum das Dasein als In-der-Welt-sein die Tendenz hat, die »Außenwelt« zunächst »erkenntnistheoretisch« in Nichtigkeit zu begraben, um sie dann erst zu beweisen.
 「外界」が存在するということ、それがいかに存在するかということを証明することが必要なのではなく、世界=内=存在としての現存在が、「外界」をまず「認識論的に」ほりくずして虚無化しておいて、あとであらためてそれを証明しようとする傾向をそなえているのはなぜなのかということを挙示することこそ必要なのである。

 真理性

 古来なされてきた真理の定義はこうである:「真理とは、認識がその対象と一致することである」。しかし、何の観点から一致するというのか? それらが一致しうるということ自体はそもそも何に基づくのだろうか? 主観的認識と客観的対象との対応関係、その関係全体の基礎は、どこにあるのだろうか? 理念性と実在性とは合致する、ではその合致の存在様式は理念的なのか、実在的なのか? それとも、そもそも理念性と実在性を、認識と対象を、主観と客観を、分離していたのが間違いだったのだろうか?
 真理とはそのようなものではないのだ。真理とは発見である。普段は非真理のうちに頽落している存在者を、努力によってそれ自体のありさまで発見することである。その発見は言葉を超越するものである。存在者について言葉にしたとたん、その言明と存在者というふたつの客体的存在関係の間の、客体的合致こそが真理であるということに再びなってしまう。

 われわれは真理を、なにかわれわれの「そと」やわれわれを「超えて」あるものとして前提するのではない。(…)われわれが「真理」を前提するのではなく、真理の方こそ、われわれがなにかを「前提」するという仕方で存在しうることを、そもそも存在論的に可能にする条件なのである。真理が、前提というようなことを、はじめて可能にするのである。

独文独歩 31

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927 
 
 (承前)

 主客の否定

 現存在は、客体性ではない――どんなにこのことを熱弁して、人格の対象化・意識の事物化・心の実態視を排撃してもなお、われわれの思考は、人格や意識や心を、ある所与のひとまとまりのものとして実態視してしまいがちである。しかし、だからといって今までの哲学のように、自我を所与のものとして前提するのを理にかなった健全な方法論だと思い込むのは間違っている。なぜなら自我や主観よりも先に世界があり、世界なしには主観は存在しないからである。

 共同性

 他の人びとdie Anderenというのは「自我以外」ではなく、むしろ「自分と区別しないでいる人びと」のことである。われわれは自分の主観と他人の主観とが区別されていて、そのあとではじめて出会う、というふうに人と出会うのではない。どんな他人にもすでに「無関心・疎遠という形で」出会っている。他人は、共同存在の欠如的様態という形で存在しているのである。
 この他人が集まったところに世間das Manがある。世間とは、主体が何人集まったものとかいう頭数的・加算的な合成ではなく、特定の他人に還元することができない、それどころか自分もそこに加わっているのであって「自分vs世間」という図式すらも成立しない、目立たず、つきとめにくい存在でありながら、むしろそれ故に独裁力をもち、日常性のあり方に司令を与えつづけるものであり、現存在そのものを構成する要素の一つである。
 世間の作用は「他人との差を気にする」こと、「均等化」を招くことである。世間で公開されているものは、深く理解されなくとも、それが公開的であるというだけで周知のものであると公称され、結果的にはすべての現象を曇らせる。そうして高尚なものもすぐ自らの常識の範囲に押し込めるのが世間というもののやり口である。このような世間の言いなりになる現存在は、世間の中に溶け込み散逸してしまい、存在の意味も世間から与えられているような、非本来的な自己であるが、しかしこのように「私が私でなくなる」自己喪失の状態というのも、自我のひとつの存在様態なのである。そして多くの人々は、この非本来的な世間的自己のままでいる。

 心境・気分
 
 現存在Daseinは、«そこ»にいる存在、であり、空間性をすでに開示しているという本質をもっている。これを、現存在はおのれの開示態Erschlossenheitを存在する、と言い表す。それを構成する実存範疇は「心境」と「了解」である。
 心境や気分とよばれるものが、存在を現Daの中につれこみ、現を開示すると同時に包みかくす。その心境とは、被投性Geworfenheitの心境である。自分がどこから来たか、どこへ行くのか、由来についても帰趨についても不明なままであるのに、とにかくこの世界にあるし、ないわけにはいかない、という事実性Faktizitätだけが、客体的事実ではなく、知覚や自己発見でもなく、ただ気分としてのみ露骨に感じられるのである。被投性の心境においては、自分の存在目的への信仰や、自分の由来についての知識は、もはや役に立たず、今ここに存在することの謎さだけが身に迫ってくる。そして人間は、まずこの被投性から眼をそむけ、逃れようとする。
 気分を制するのは知識や意志ではない。反対の気分によってである。したがって気分は現存在のもっとも根源的な存在様相である。

 了解・解意

 現存在とは、客体的に存在していて、その上なにかができるということをおまけとして持っている、というようなものではない。現存在は、なによりもまず可能的に存在すること、おのれの存在可能を存在することなのである。現存在はいつでも「事実上」あるものよりも「以上のもの」を含んでいる。これから成るもの、成らぬものをすでに存在しているのである。その可能的存在を了解したあとで、人は自分を投企Entwurfする、すなわち有意義性の中へみずからを投げ入れる。
 
 意味の構造は循環である

 解釈とは、あるものを別のあるものとしてみることである。すべての解釈は、解意すべきものをすでに了解している。無前提な解釈は不可能であり、必然的に先入見に基づいた結論の前置きVorhabe・見通しVorsicht・先取りVorgriffが行われる。証明すべきものを前提にしているのだから、意味の構造はつねに「循環」であり、この循環から逃れた客観的認識は存在しない。ふつう科学的客観的認識とよばれるものは、たんに「冷静さ」という気分の一種のもとで行われる了解の亜種であり、質的には他の了解のしかたと何ら異ならないのである。するべきことは、この循環から抜け出そうとすることでなく、先にあげた三つを、なるべく事象そのものから開発して、俗な解釈に堕さぬように学問的課題を導こうと努力すること、すなわち、まともに循環に入り込むことである。

独文独歩 30

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927 
 
 (承前)

 用具的存在様相

 何かをするためにある道具は、壊れたり失われたりしてその用具性が阻まれたときになってはじめて、その「何かをするため」という指示関係が表立ってくる。ふだん当たり前に使用しているうちは、道具自体は主題的にならない。すなわち道具は、日常的に開示されているがゆえに、目的と手段の指示関係のなかに非主題的に配視的にとけこんでいる。しかし道具が壊れて役立たずになると、その単純な客体性がきざしてきて、「もはやただ存在するだけ」の厄介物として非世界化される。
 中でも特別な道具が、「記号」である。世界のある事象に名前を付けるとき、それは単なる事物との一対一関係を作ることなのではない。たとえばある風に「南風」という名を付けるのは、単に南からの風をそう呼ぶこと自体が目的なのではなく、「雨の前触れを示すもの」として印づけ目立たせることで、お天気対策の役に立つことが目的なのだ。太陽の場所に、いちいち日の出とか昼とか日没とかいう名前をつけて分節するのは、ひとえにその光と熱が人間の利害に関係するがゆえである。記号が設定されてはじめてものごとは発見され、ひとまとまりの道具立て全体として配視に浮かび上がり、用具的存在者として世界に適合していることが示される。
 何かの役に立つということは、ものの属性ではなく、適性にすぎない。それなのに存在者の存在は、世界の中で役に立つか、用具的な指示連関に溶け込んでいるかどうかという点に規定されている。このような価値付けの有り様は、あくまでデカルト的な物質性・客体性よりも前にすでに存在するのであって、客観的な物質を基礎にしてあとから価値付けの層が築かれていくのでは決してない。世界が空間の中にあるのではなく、空間性が世界の世界性にもとづくのである。人は幾何学的な空間というものに先行的に出会うことはできない。まずは身の回りの世界の用具的なあり方に出会うのであり、そのあとでようやく、配視から解放され、環境世界を非世界化することによって、初めて同質的な自然空間というものが抽象化できるのである。
 デカルトは存在者から出発したから、世界という現象が眼に入らず、それどころか感性的な現れを完全スルーして、認識によってのみ存在者に近づきうるとした。物の堅さは触らなければわからない、物の色は眼を閉じているときには存在しない。従ってそれらは物の本性ではない。そうやって切り詰めていった結果、すべての存在者の本性は、「長さと幅と奥行きをもった空間内の延長物」ということになる。こういう存在論において数学と物理が最重要視されるのは当然であろう。

 開離

 現存在が存在者に出会うときには、開離(Entfernung)を行う。開離とは、物に対して、空間的距離とはしばしば矛盾するようなある一定の心理的距離の遠さ・近さを設定することである。たとえば、距離的には短いけれども難儀な道のりは、心理的には遠い「気がする」、すなわち遠くに開離されている。見つめている遠くの壁よりも、そのとき意識にのぼっていない自分のメガネのレンズのほうが、遠くに開離されている。二十歩先にいる知人より、足元の地面のほうが遠くに開離されているから、足元の石につまずいて転ぶのである。しかしこれらは単なる主観的恣意として一蹴できるような余計物ではないのだ。このような心理的距離こそが本当の現前であり、これこそが存在者の発見の仕方なのである。