1COIN

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 Instrumental
 『1COIN』
 2013.11 satsumaimo
 
 01 Fudatsuki PIRATES
 02 スペース・パブ
 03 メタル
 04 徒競走
 05 Pocket
 06 登山/下山
 07 It creeps swiftly
 08 課内授業
 09 1COIN
 10 Wailing Off
 11 スペース・パブの閉店

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独文独歩 39

 柴田翔
 『はじめて学ぶドイツ文学史』
 ミネルヴァ書房、2003
 
 Höfisches Epos
 
 言語上の変化も相まって、ドイツ語詩の韻律はゲルマン古来の頭韻から、ラテン語と同じ脚韻へと移行した。宮廷叙事詩Höfisches Eposは、フランス宮廷文学を基に、王侯の注文に応じて創作された。Hartmann von Aueは、二編のArtusromanと、„Der arme Heinrich“、そしてマン『選ばれし人』の原作„Gregorius“で知られる。奔放な形式を用いたWolfram von Eschenbachは„Parzival“ „Tagelied“、反対に修辞的なGottfried von Straßburgは„Tristan“の作者である。これらのフランス系叙事詩と対照をなすのが、„Das Nibelungenlied“ „Kudrun“などの、キリスト教以前のゲルマン伝説に取材した英雄叙事詩Heldeneposである。これらはすべてシュタウフェン朝下でのドイツ宮廷文化最盛期、12世紀後半から13世紀前半の作品であり、その後は大空位時代(1256-73)の騎士の失権や、ハンザ同盟の結成によって、文学の中心は宮廷から都市へと移っていった。

 Humanismus

 イタリア・ルネサンスに起こった人文主義Humanismusは、教会の独占していたギリシア・ローマ文化を、教会を媒介せずに受容することで、権威を相対化し批判する運動であり、15世紀にドイツに流入した。隆盛の背景には、印刷術を駆使したビラ・パンフレットによる宣伝、14世紀後半からの大学の設立ブームがある。Johannes von Teplの„Der Ackermann aus Böhmen“ (um 1400) は農夫と「死」との論争を通じて、神の下した「死」を拒絶するという現世擁護の新時代精神を表現した、ドイツ初の人文主義作品である。百年後、Sebastian Brantの„Das Narrenschiff“(1494)がベストセラーとなり、代表的な人文主義文学にして阿呆文学・悪漢文学の先駆となった。この系譜はエラスムスの教皇庁批判『愚神礼賛』Encomion Morias(1509)、Ulrich von Huttenのカトリック批判『蒙昧な人々の書簡』、Thomas Murnerのプロテスタント批判『ルター的大馬鹿』などへ続き、そしてバロック時代にGrimmelshausenの『阿呆物語』Simplicissimus(1669)において大成する。
 
 Sprachgesellschaft
 
 言語協会Sprachgesellschaftは、三十年戦争によって諸邦が弱体化し、分裂が固定されてしまった中で、英仏のアカデミーを範として、宮廷文人たちが集まり、共通のドイツ語を確立させようとした試みである。Weimarで結成された「実りの会」(1617)が代表的である。ドイツ語の純化運動はそのメンバーであったMartin Opitzの詩論(1624)を嚆矢としている。彼は外来語の多用を批判し、古典古代の韻律法をドイツ語詩にも適用することを説いた。この傾向が17世紀バロック詩の華麗で技巧を重視した作風へつながる。
 
 Empfindsamkeit
 
 Leibnizの『弁神論』(1710)では、科学的法則にもとづくこの世界は神の作った最善世界であるとして、神と理性の対立を調停した。しかしリスボン地震(1755)、七年戦争(1756-63)によって最善説は説得力を失い、合理主義への確信もゆらぎはじめる。およそ18世紀の啓蒙思想の展開は、理性による人間の進歩への信頼が次第に崩れ、感性の重視へと軟化していく過程であり、それがやがて感性至上主義の極致としてのSturm und Drangの運動(1760s-1770s)へとつながり、最後にKantによって理性の限界が確定される(1780s)。理性と感性を調和させようとするセンチメンタリズム(感傷主義)Empfindsamkeitは、この軟化の過程を代表しており、イギリス経験主義とPietismusに影響を受けている。Gellertの„Leben der schwedischen Gräfin von G.“は、Pietismusを基調に、三人の男女の共棲が描かれる。Sophie von La Rocheの„Geschichte des Fräuleins von Sternheim“は、ドイツ初の女性小説とされている。 

独文独歩 38

 シュティフター
 『水晶』

 Adalbert Stifter, 1805-1868
 Bergkristall, 1845/53

 四方を山に囲まれた辺境の村クシャイトGschaidに住む二人の兄妹が、山の向こうの町ミルスドルフMilsdorfに住む祖母を訪ねた帰り道、クリスマスの前夜に、大雪によって山中で遭難し、万年雪の巨大な氷山の中に迷い込む。兄の賢明な判断によって二人は無事に一晩を明かし、次の日村人たちに救出される。母がミルスドルフ生まれのため、それまで半分「よそ者」Auswärtige(S.239)とされていた子供たちは、この日から真に村の子供となった。ミルスドルフの染物工場の頑固な祖父も、はじめてクシャイトを訪れ、娘の家族と共にクリスマスを祝う。
 大吹雪の中で道に迷う小さな子供たち、強大な自然に翻弄されるかよわい生命、という組み合わせは、ドラマチックであり、さまざまな演出の余地がある。シュティフターの場合は、しかし、猛威を振るうデモーニッシュな自然とか、不安におののき泣き叫ぶ子供とか、帰りを待ちわびる親たちの苦悩とかいったものを描くことで、読者をあおり立て、はらはらさせることもできるはずなのに、あえてそれをしない。
 雪は、祖父の染物師Färberが言うように、珍しくも「干し竿から濡れ紐がぶらさがるように」wie nasse Schnüre von einer Stange hängen風もなくまっすぐ降った(S.238, 訳p.87)ため、子供たちに害をなすことがなかった。豪雪ではあるが、音もなく、「自分たちのまつ毛に雪のふりかかる音さえ、聞えるような」als sollten sie den Schnee hören, der auf ihre Wimpern fiel(S.215, 訳p.53)不思議な静かさをもった豪雪である。そしてこの雪が、子供たちと共同体とのつながりをより強固にしたのだから、考えようによっては敵対的な自然どころか、神の恵みとも言いうるのである。(vgl. S.238)
 下ろうと思えば昇り、昇ろうと思えば下ってしまうような山に迷い込んだ子供たちは、不安におびえるようすもとくに見せない。思慮深い兄コンラートKonradは、眠って死んでしまわぬように濃いコーヒーを飲みあうことで夜を乗り切る。小さな妹ザンナSannaは、「そうよ、コンラート」“Ja, Konrad“というセリフの印象的な繰り返しから分かるように、兄を信用しきっていて、怖れを抱くことがない。
 別の短編「石灰石」Kalksteinの主人公である測量士は、氾濫する川を無邪気に渡って登校する子供たちを見ながら、子供は死を知らないのだ、と考える。

 Aber sie kennen den Tod nicht. Wenn sie auch seinen Namen auf den Lippen führen, so kennen sie seine Wesenheit nicht, und ihr emporstrebendes Leben hat keine Empfindung von Vernichtung. Wenn sie selbst in den Tod geriethen, würden sie es nicht wissen, und sie würden eher sterben, ehe sie es erführen.(S.93)
 けれど子どもたちは死がどんなものであるかを知らない。死という言葉をしゃべることはあっても、それが何を意味するか知らない。すくすくと伸びて行くかれらのいのちは、「ほろびる」ことを予感することができないのである。死の手にとらえられたそのときでさえ、かれらは死というものを知らないだろう。それを知らずに死んでゆくだろう。(p.183)

 この部分からは子供の危なっかしさを気遣う大人の眼が感じられる。子供たちはすくすくと伸びて行くいのちemporstrebendes Lebenをもち、生に属しているがゆえに、死の意識をもたない。しかしそれゆえに、死に近い存在でもある。
 『水晶』の兄妹が、山を越えて祖母の家に行く途中で、「災難柱」Unglücksäuleが倒れているのを見つける。その柱は、昔パン屋が遭難死した場所、ちょうど「くび」Halsとよばれる道の途中の一番高い地点に建てられた、絵と説明の入った柱である。これが折れているのは、読者にとって、明らかに不吉な徴候である。しかし子供たちはそれに気づかない。

 (...)aber da sie einmal lag, so machte es ihnen Freude, daß sie das Bild und die Schrift so nahe betrachten konnten, wie es sonst nie der Fall gewesen war. Als sie alles – den Korb mit den Semmeln, die bleichen Hände des Bekers, seine geschlossenen Augen, seinen grauen Rok und die umstehenden Tannen – betrachtet hatten, als sie die Schrift gelesen und laut gesagt hatten, gingen sie wieder weiter.(S.205-6)
 しかし、柱が倒れているために、絵と字をこんなに近くで見ることができたので、二人はうれしかった。今まではそんなことはできなかったからだ。二人はすべてのもの――籠にもられた巻パン、パン屋の蒼ざめた手、閉じた眼、灰色の上着、まわりに描かれているモミの木立――をじっと眺め、文字を読んで、口に出して言ってみてから、また歩き続けたのだった。

 帰りには雪によってこの柱は埋もれてしまい、おそらくそれが遭難を招いたきっかけとなっている。読者にしてみれば、パン屋の死の記録が役目を終え、新たに子供たちがその悲劇を受け継ぐのではないか、という予感に気が気ではないのだが、子供たちは、背の低い自分たちにも看板が近くに見えるというので喜んでいるばかりで、何とも呑気なものである。
 自然―子供―死、という、ロマン主義的なモチーフの繋がりは、ここでも他の作品においても、けっして大袈裟に描かれることがない。自然の脅威にも節度があって、雪や嵐、『みかげ石』Granitにおけるペストや、『石乳』Bergmilchにおける戦争は、時間が経てば止む。文化と自然という対立も際立つことがなく、むしろ両者は浸透しあっている。兄妹の父親は信頼されている靴職人であるが、その仕事は「人類が原始状態にとどまっているのでないかぎりは、どんな土地にもなくてはならぬ職業である」das nirgends entbehrt werden kann, wo die Menschen nicht in ihrem Urzustande sind(S.193, p.22)。子供も神秘的な存在などではなくて、彼らなりの理性をもって考え決断しながらも、大人に庇護されている存在である。死の危険に対する作者の態度もまた、退廃的に接近するでもなく、楽観的に否定するのでもなく、ただ正しい距離を保ちながら見きわめ、現実的に対処する、中庸の態度である。
 ウィーン体制崩壊の中で、文壇にも政治運動が吹き荒れ、激しい革命と転覆を主張する人々が多数派であった世相において、非政治的な立場にとどまる克己心を思うとき、そこには逃避というよりも、かえって強さが感じられる。シュティフターの作品には、絶対的な悪は存在せず、けたたましい叫びも感情の放出もない。ただ静謐と、生きることへの真摯さがある。

 引用は以下に準拠。
 Adalbert Stifter: Werke und Briefe. Bd.2,2. Verlag W.Kohlhammer 1982
 手塚富雄・藤村宏訳『水晶 他三篇』岩波文庫 1993

独文独歩 37

 リルケ
 『ドゥイノの悲歌』

 Rainer Maria Rilke, 1875-1926
 Duineser Elegien, 1922

 この世ならぬものへの愛、天上の天使への愛、目に見えず、どこにもない、実現不可能な愛を求め続ける詩人たちにとって、目に見える地上の愛は、反映にすぎない。しかし一方で、彼はそのおぼろげな反映を通じてはじめて、天使を予感することができる。

 Liebende, wäre nicht der andre, der
 die Sicht verstellt, sind nah daran[=Nirgends ohne Nicht] und staunen...
 Wie aus Versehen ist ihnen aufgetan
 hinter dem andern... Aber über ihn
 kommt keiner fort, und wieder wird ihm Welt.(8. 24-28)
 愛する者たちは、もし愛の相手が
 視界を妨げてさえいなかったならば、そこ(Nirgends ohne Nicht)へと近づき、驚嘆する……
 ついうっかりしたかのようにそれはかれらに開かれる、
 相手の者の背後に…… しかし相手をこえて
 先へゆく者は誰もいない、そしてまた「世界」がかれに現れてしまうのだ。

 愛の相手は、目に見える形をもつがゆえに、「視界を妨げ」、形のないものへの洞察を不可能にしている。しかし人は、意図せずして、その物質的「世界」の「背後」に、Nirgends ohne Nicht「『ない』のない、どこにもないところ」を発見する。「どこにもない」という消極的な言い表しに、「ない」をさらに重ねることによって、無ではなく無限が表現されることになる。眼に見えないがゆえに、そこにはすべてがあるのである。「愛する者たち」Liebendeは、その愛を通じて、無限を予感することができる。しかし同時に、愛の相手が視界をさえぎるせいで、地上の「世界」にとどまってしまい、それ以上無限と関わることがない。これが「愛する者たち」の限界である。
 
 Wenn ihr einer dem andern
 euch an den Mund hebt und ansetzt – Getränk an Getränk:
 o wie entgeht dann der Trinkende seltsam der Handlung.(2. 63-5)
 おまえたち(愛する者たち)が、一人がもう一人の
 口へとつま先立ち、唇を合わせ――ひと口ひと口飲むとき、
 おお、飲む者は、飲む行為からなんと奇妙に離脱していくことか。

 接吻をGetränk「飲み物」と表現するのはおもしろい。そこにはtrunken「酔った、陶酔した」の意味が含まれるし、また互いが互いの唇を吸うのを「飲む」と表現することで、接吻という単なる接触を示す言葉よりも、ふたりの合一の度合いが高く感じられる。しかし、その合一は成就しないのである。飲む者は、行為そのものとわずかな間しか一体化できず、やがて「離脱して」しまう。肉体の歓喜の中で永遠を予感し期待することはあれ、肉体をもつ身にとっては、永遠の持続は不可能である。
 このように、本作品では「愛する者たち」Liebendeはしきりにその限界性を強調して描かれている。ではわれわれの幸福は、地上にではなく、天上の天使たちへの愛のうちにあるのだろうか。しかし、それは初めから否定されている。

 WER, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel
 Ordnungen? und gesetzt selbst, es nähme
 einer mich plötzlich ans Herz: ich verginge von seinem
 stärkeren Dasein. Denn das Schöne ist nichts
 als des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen,
 und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht,
 uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich.(1. 1-7)
 いかなる天使がいったい、私が叫んだとて、天使の列序から
 それを聞いてくれようか? 仮に一人の天使が、
 突然わたしを抱きしめたとしても、わたしはかれの
 より強い存在によって消え去ってしまう。なぜなら美とは
 恐るべきものの始まりであり、われわれが美にかろうじて耐え、
 嘆賞するのも、美がわれわれを破壊するのを
 平然と拒絶しているからなのだ。すべての天使はおそろしい。

 ここで詩人が呼びかける対象となる「天使」は、目に見えない超越的存在が、呼びかけるために形象化された存在である。そして「天使」は「美」と同一であり、それらは「おそろしい」schrecklich存在、『ファウスト』の前に現れる地霊にも比することのできる存在であり、直接それに対峙すれば人間は消え去って死んでしまうし、そもそもそのような圧倒的現前による破壊すらも天使は取るに足らぬこととして「平然と拒絶」するのである。そしてそのような拒絶と隔たりAbstandがあるからこそ、人は死なずに安全に美を「嘆賞する」ことができるのだ。
 したがって、天使への愛も不可能である。われわれの幸福は、目に見える地上にも、目に見えない天上にもなく、その狭間にあるのだ。狭間とは、地上にありながら目に見えない、われわれがすでに所有している唯一の天上的なもの、すなわち、われわれの内部である。

 Nur, wir vergessen so leicht, was der lachende Nachbar
 uns nicht bestätigt oder beneidet. Sichtbar
 wollten wirs heben, wo doch das sichtbarste Glück uns
 erst zu erkennen sich giebt, wenn wir es innen verwandeln.(7, 46-49)
 ただ、われわれはあまりにも簡単に忘れてしまうのだ、笑いさざめく隣人が
 承認したり羨んだりしてはくれないもののことを。目に見えるように(sichtbar)
 我々はそれを掲げようとする、しかし最も疑いようのない(das sichtbarste)幸福が
 われわれにはじめて明らかになるのは、われわれがそれを内部において変化させるときなのだ。

 隣人の「目に見えるように」掲げるものは、地上の事物であるだろう。しかしここで、sichtbar「目に見える/明らかで疑いのない」という語の二義性が2行目と3行目で対比させられている。「目に見える」sichtbar幸福は、「われわれがそれを内部において変化させるとき」wenn wir es innen verwandelnに、はじめて真に「確実な」das sichtbarste幸福となるのである。もちろん、逆に言えば、変化させる素材としての「目に見える」幸福がなければ、内なる幸福も生まれない。しかし、目に見える地上の事物は、そのままでは虚しいものである。それらは人間の心の中で聖化され高められることを待ち望んでいる。うつろいゆく地上の事物を、言葉によって讃えることで、目に見えないものへと高め、永遠化することこそ、人間の使命、詩人の使命であり同時に幸福でもある、という結論が、ここで準備されている。
 
 – und diese, von Hingang
 lebenden Dinge verstehn, daß du sie rühmst; vergänglich,
 traun sie ein Rettendes uns, den Vergänglichsten, zu.
 Wollen, wir sollen sie ganz im unsichtbarn Herzen verwandeln
 in – o unendlich – in uns! Wer wir am Ende auch seien.
 Erde, ist es nicht dies, was du willst: unsichtbar
 in uns erstehn?(9. 62-8)
 ――そしてこれらの、うつろいによって
 生きている事物は理解するのだ、おまえがかれらをたたえていることを。うつろいながら、
 事物たちはわれわれ、この最もうつろいやすい者たちに、救ってもらうのを期待している。
 願っているのだ、われわれがかれらを完全に、目に見えない(unsichtbar)心の中で変化させる(verwandeln)のを、
 おお、永遠に――われわれの中で! たとえわれわれがいかにはかない存在であろうとも。
 大地よ、これがおまえの願うところではないか、目に見えないものとして
 われわれの内によみがえることが?
 
 引き続きunsichtbarとverwandelnの語が使われている。もっともうつろいやすい人間だけが、すべてのうつろいゆくものを、自らの心の内で、もはやうつろわない、永遠のもの、目に見えないものに変化させることができる。言葉で言い得ないものを追い求めるのでなく、素朴な物をただ言葉で示す、このような行為によってならば、天使の驚嘆を得ることもできるのだ。(Sag ihm die Dinge.「天使に事物を告げよ」)
 現実とは理想の影でしかない――しかし、まさに理想の影であるがゆえに尊い。この価値転換が、現世否定から現世肯定への移行の本質をなしている。そして、その肯定された現実は、詩人の心の内でついに理想の姿にまで高められていくのである。その行為は、対人的な恋愛への埋没でもなく、激しい美=天使との葛藤でもなく――両者をつなぎ合わせる行為である。

2015

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