独文独歩 43

 ホルクハイマー/アドルノ
 『啓蒙の弁証法』

 Max Horkheimer, Theodor W. Adorno
 Dialektik der Aufklärung, 1947

 Ⅰ 啓蒙の概念

 自然の復讐

 マックス・ウェーバーの定義によれば、啓蒙とは「世界の脱魔術化」die Entzauberung der Welt、すなわち非合理的な空想の力、神話の権威を、知識の合理性によって失墜させることである。この合理化の過程は、ホメロスが行った神話の組織化にもすでに読み取れるような時代普遍的な過程であるのだが、とりわけ十八世紀からの啓蒙は、合理性を究極にまで推し進め、それまで人間存在の意義の拠りどころとされてきたあらゆる信仰を破壊していく点で、極端なものであった。人間のもつ迷信の数が減れば減るほど、人間は文明化すると考えるのは自然であろう。しかしその啓蒙の行き着いた先は、世界大戦における野蛮への退行であった。悪しき国家主義が啓蒙を悪用したのだろうか。そうではなく、ほかならぬ啓蒙の概念そのものの内に、すでに退行への萌芽がふくまれているのである。啓蒙は自己省察を怠ったのである。
 人間は、理性だけで構成されているわけではなく、自らのうちにもまた自然を持つ。よって人間主体が自然を完全に支配することは不可能である。人間は外なる野蛮を主体に隷属させ、支配しようとするが、じつはその「支配」こそが人間の内なる野蛮であり、人間はかえって自らの自然性に隷属させられてしまう。自然の暴力から抜け出たつもりになっていると、同じものが今度は体制の暴力として現れるのだ。虚偽を暴いていたはずの啓蒙が、盲目的な統治の手段となってしまう。神話から逃れようとすると、かえって神話の勢力圏内に落ち込んでいく。これが自然の復讐である。
 どんなに合理的に算出された数値や科学的データでさえも、必ずや社会的な意味を付与され、神話と化されてしまう。そして自らを合理的だと考えている人間ほど、自らの行う神話化に無自覚な者はいない。「数学的に正しい」ことにただ満足する数学者には別に非難されるいわれはないが、「数学的に正しいものには服従せねばならない」という非数学者たちの思考は、数学を絶対的審級に祀り上げることに他ならない。実証性と計算にすべてを限定することは、「虚偽の明晰さ」である。想像力をペテンと迷信として排除することは、二十世紀において、政治的狂気というペテンと迷信の下ごしらえとなった。
 
 In der Unparteilichkeit der wissenschaftlichen Sprache hat das Ohnmächtige vollends die Kraft verloren, sich Ausdruck zu verschaffen, und bloß das Bestehende findet ihr neutrales Zeichen. Solche Neutralität ist metaphysischer als die Metaphysik. (S.24)
 科学的言語の党派的不偏性のうちでは、力なきものは完全に自らに表現を与える力を喪失し、現存するものだけが、言語の中立的な記号を見出す。そういう中立性は形而上学よりも形而上学的である。(p.55)

 思考の物象化

 形而上学と違って、科学を利用する産業界においては、真理を認識する満足感は必要ない。操作と有用性だけが問題である。支配者にとっては、対象を思うがままに支配し操作することができる、ということが、理解するということである。すなわちかれらの理解はつねに対自的である。事物がこの世に存在する神秘的な意味などは、誇大狂の幻想であるから、詩の世界に追放しておく。そのかわりに、事物の計量可能性、等価交換原理、代替可能性が本質とされるようになる。そのとき、思考は現実に存在するものを整理するための道具にすぎず、現実存在の圏外に逃れ出るような思考は狂気の沙汰とされる。これが思考の「物象化」Verdinglichung, Versachlichungである。精神とは物象化の否定にこそ本質があるのだから、精神自身が物象化したとき、それは消滅せざるをえない。

 Er(=der Positismus) braucht – zu seinem Glück – nicht atheistisch zu sein, weil das versachlichte Denken nicht einmal die Frage stellen kann.(S.26)
 実証主義は――幸運にも――無神論的である必要はない。なぜなら物象化した思考は、この問いを立てることすらできないからである。(p.60)

 Aufklärung ist die radikal gewordene, mythische Angst. Die reine Immanenz des Positivismus, ihr letztes Produkt, ist nichts anderes als ein gleichsam universales Tabu. (S.18)
 啓蒙はラディカルになった神話的不安である。その究極の産物である実証主義がとる純粋内在の立場は、[経験の外へ出ることを禁ずるという意味で]いわば普遍的タブーにほかならない。(p.43)

 神話は生命なきものに生命を見出したが、啓蒙は生命あるものを生命なきものと同一視する。かつてアニミズムは事物に心を吹き込んだが、今は産業主義が心を事物化する(p.64)。個々人はもはや事物として、統計学的要素として均質に扱われる。これが主体性の喪失と全体主義という、野蛮な自然への頽落Naturverfallenheitへと直結するのである。

 限定された否定die bestimmte Negation

 偶像崇拝を禁ずる、というユダヤ教の教えは、アドルノにとって、物象化という欺瞞へ抵抗するための武器である。「神の像を描くな」という教えのもっとも重要な点は、描かれた像が真の神の姿をつねに不完全にしか伝えていないという、事物の虚偽性の意識、すなわち物象化・物神化の拒否にある。真と偽とは表裏一体であるが、描くことのできない真を言い表すためには、裏側から攻めなければならない。すなわち、描かれた像の虚偽性を徹底的に告白することによって、像の力を真理に帰属させるのである。
 近代における偶像とは、実証主義的な記号論理の体系である。啓蒙はこの体系を神聖化することで、偽を真と呼ぶという過ちを冒し、崩壊に陥った。そうならないためには、実証主義そのものを、その限界線を俯瞰した上で批判しなければならない。それによってはじめて言語は、単なる記号の体系以上のものになる。
 このような否定の仕方は、ヘーゲルの用語にもとづき「限定された否定」die bestimmte Negationと呼ばれる。ここにおいて「限定された」とは、「この世には真も偽もない」などといった没理想的な全否定とは一線を画するような否定であることを指す。(仏教のように)真偽の概念そのものを否定することは、形式主義的で生産性のない、闇雲な懐疑にすぎない。絶対的なものなどこの世に存在しない、と否定するとき、否定性そのものが絶対化されている。こうして否定性を救済の道として神聖視することは、また一つの欺瞞である。そうではなくて、偶像に「否」と言い続けることで、裏返した形で真理への貞節を誓うことこそが、正しい懐疑の形、啓蒙の進むべき道なのである。

 注1:「世界の脱魔術化」die Entzauberung der Welt:マックス・ウェーバー『職業としての学問』Wissenschaft als Beruf(1917)に登場する表現である。
 注2:「代替可能性」:息子を殺すかわりに羊を犠牲にするという旧約聖書の出来事でさえも、すでに代替可能性の原理を表している。オデュッセウスが船漕ぎの労働を部下にさせるという分業的支配のあり方も、代替可能性にもとづいている。近代では、旧支配者層が破壊されたかわりに、貨幣という普遍的媒介の中に支配者が永遠化された。

 引用のページ数は、Fischer Taschenbuch Verlagと岩波文庫に準拠した。和訳は岩波文庫の徳永恂の訳を借用した。