独文独歩 44

 ホルクハイマー/アドルノ
 『啓蒙の弁証法』

 Max Horkheimer, Theodor W. Adorno
 Dialektik der Aufklärung, 1947

 (承前)

 Ⅱ オデュッセウスあるいは神話と啓蒙

 セイレーン神話

 ホメロスは、民間伝承の神話を叙事詩Eposとして組織立てることによって、様式化し、理性的な秩序付けを行い、それによって神話を解体し、もとの神話とは矛盾するものを作った。男性的で克己心のある支配者オデュッセウスは、みずから神話的人物でありながら、先史世界の神話からの訣別を実行する者、啓蒙的自我の体現である。彼がセイレーンという、幸福へと誘惑するもの、ゆえに反文明的で危険なものを逃れるに際して、自分がとった対策と、漕ぎ手にとらせた対策は、近代における工場主と労働者の分業制度と重ねて考察することができる。その対策によってかれらは危機を切り抜けるが、同時にセイレーンの約束していた幸福は、成就されざる仮象となり、かれらは永遠に幸福になれない。文明のより強い自己支配・他者支配によって、かれらの本能は硬直する。
 オデュッセウスは漕ぎ手たちに、自らを帆柱に縛り付けさせる。それによって彼は、セイレーンの歌を聴くことができ、しかし衝動的に海に飛び込んで命を失うことがない。彼が誘惑されていかに縄を解いてくれと懇願し暴れても、部下は聞き入れてはならず、より一層きつく上司を縛り付けるようにあらかじめ命令されている。この対策は、永遠に反復する神話の規定のうちに、じつは存在している抜け道(体を縛りつけたときのことは規定されていない!)を、巧妙に利用するところに成り立つ「詭計」である。詭計を通じてセイレーンの呪いはもはや実際的な効力をもたなくなり、反復は失敗し、運命の不可避性は克服される。そして自我喪失への誘惑は、無力化され、文明に組み込まれ、たんなる弱々しい美、瞑想と憧れの対象――すなわち、芸術になる。帆柱は演奏会の客席であり、労働者の雇用主であるオデュッセウスは、技術的啓蒙の輝かしい成果として、文明にみずから望んで抑圧されながら、芸術を享受しつづけることができる。いっぽう漕ぎ手たちは、蝋の耳栓をさせられ、歌を聴くことができない。しかしそれによって、労働の役に立つこと、すなわち全員が息を合わせて同じ拍子で船を漕ぐ、画一的で類的存在となることができる。かれら工場労働者は芸術にたいして無感覚にされている。「こうして先史世界からの訣別にあたって、芸術の享受と手仕事とは別々の道を辿る」(p.75)。
 このような分業は人間を進歩させると同時に退化させる。オデュッセウスは労働を自分でせず、部下にさせる。「代理可能性ということが支配の尺度であり、もっとも多くの役柄において自分の代理をつとめさせうる者が最大の権力者である」(p.76)。このときオデュッセウスは、失業者と正反対の地位にいながらも、労働から除外されて本性を失っている点では同じである。

 詭計は合理化された反抗である

 先史世界の神話の本質は反復にある。シーシュポス的な永久の懲罰として、常に同一の事を反復するということには、ある法的関係の性格が備わっている。ポリュペモスは自分のねぐらに来た人を常に喰う権利があり、スキュラとカリュブディスは自分の支配域に入った船乗りに対する処分権を有している。かれらは呪詛されているがゆえに残虐を働き、残虐によって呪詛を再生産する。この贖罪連関の循環、この不可避な法的関係から、例外的に脱出しようとすることが、詭計である。詭計は法を拒否するのではない。むしろ法的力を認め、それを利用することで、かえって無力化するという方法をとる。契約は、字面では遵守されながらも廃棄される。それは詭計が、言語が存在とほんとうは一致していないという隙を悪用することによって成り立つからだ。かつて言語は対象と区別されず、事象に直接力を及ぼす、「宿命」であった。しかし言語はやがて唯名論的に「記号」へと格下げされる。記号論ほど合理的なものはない。詭計には近代数学の図式が含まれている。詭計は理性の特殊性の現れ、理性の汚点である。
 オデュッセウスはポリュペモスと遭遇した際に、自分を「誰でもない者」という意味のウーディスと名乗ることで、相手陣営の加勢を阻害し、かの怪物から逃れることができる。彼の行動は、名前に対する絶縁であると同時に、名前に対する従順である。自分を「誰でもない者」として否認し、自分自身を消滅させることによって、名前と存在との間に亀裂を生ませる。指し示すものが存在しないような記号を使うことで、ポリュペモスの法的力の執行は不可能となり、彼は自分の生命の存在を救い出す。もしくは、名前の上だけで「死ぬ」ことによって、法的力は表面上だけ執行されるが、それによって実際のオデュッセウスは生き延びる、とも言える。いずれにせよ、彼は自己否定によって自己主張を行うのだ。ウーディスという名は彼の本名に響きが似ている。
 詭計は、完全に合理的な等価交換によって、実はずるい「すり替え」を行う。ポセイドンの復讐は、犠牲を捧げることによって断念されうる。つまり犠牲さえ捧げれば、結果として神よりも人間の目的(オデュッセウスの帰郷)が優先させられる。よって神の力はまさしく最初の法的関係の当然な帰結として解消されてしまう。犠牲が神々をなだめる、という理屈は、ギブアンドテイクの精神であり、等価交換の原理に基づいている。また、東方商人のごとくオデュッセウスは、物々交換だけで方々で原住民相手に莫大な財をなす。彼の旅が常に波浪の危険に晒されていることが、彼の利潤を道徳的に根拠づける。リスクを負うのだから得をするのは正当である、という危険保障の概念がそこに存在している。
 キルケは、娼婦の原型であり、女性的=自然的魔力、エロスのイニシアチブを持つデモーニッシュで反文明的な存在として、部下を全員豚に変え、その魔法が効かなかった文明人オデュッセウスを自らの魅力によって一年間も島に縛り付ける。オデュッセウスの帰郷の冒険はこの島を逃れることから始まる。彼がキルケに別れを告げると、彼女は誘惑者から援助者へと変貌し、セイレーンやスキュラやカリュブディスについての忠告を与えてくれる。オデュッセウスが母権への永遠の屈服、自然への心地良い埋没を、諦念を知る者として一年で終わりにしたとき、彼女はもはや危険ではなくなる。オデュッセウスは自己去勢をすることによって、自分を去勢から守った。そしてキルケの男性を隷属させる力は、彼の旅路を援助するという男性への隷属に転化する。オデュッセウスは自然に身を委ねたことによって、自然からの疎外を成し遂げ、自然の諸力を自分の味方につけることができるのだ。