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独文独歩 45

 ホルクハイマー/アドルノ
 『啓蒙の弁証法』

 Max Horkheimer, Theodor W. Adorno
 Diealektik der Aufklärung, 1947

 (承前)

 Ⅲ ジュリエットあるいは啓蒙と道徳

 衝動と感情の排除による生の形式化と、その挫折

 『悪徳の栄え』におけるジュリエットのセックス・チームは、効率的に集団淫行をすることができるように、きわめて組織化されている。いかなる体孔をも、短い時間でさえも無駄にしてはならないという考えに基づいているこのスポーツ的なチーム、あるいは快楽の大量生産工場は、快楽を享受するという内容よりも、むしろ合理的組織の形式こそが眼目におかれている。単なる計算と公式化のみに理性の領分を局限することで、インモラルな目的内容には中立を装うことができるこの態度は、近代のラディカルな啓蒙が必ず陥るところの没価値的な形式化そのものを体現している。いかなる自然をも排除し対象化する啓蒙は、性的な衝動すらも、線や面を扱うようにニュートラルに扱う(S.78 neutrale Triebe)。その不自然さによって啓蒙は自然的な衝動からの復讐を受ける。目的内容に意を払わない不動の形式は、じつはいかなる悪しき目的内容の意のままにでもなってしまう弱さをもつ。形式化とは一方で完全な道具化であるのだ。ジュリエットはその疎外された自然の復讐をみずから意識的に執行することに喜びを見出している。

 「ジュリエットが体現しているのは、昇華されざるリビドーや退行したリビドーではなくて、退行への知的喜び、悪魔への知的愛である。文明を、それ自身の武器を逆手にとって撃つことの快楽である。彼女は体系と一貫性を愛する。」
 Juliette verkörpert, weder unsublimierte noch regredierte libido, sondern intellektuelle Freude an der Regression, amor intellectualis diaboli, die Lust, Zivilisation mit ihren eigenen Waffen zu schlagen. Sie liebt System und Konsequenz.

 ジュリエットの「悪の哲学」はカントの哲学と根を同じくする。ジュリエットは、犯罪者は冷静でいるためには良心の呵責から自由でなければいけないと言うが、これはカントの徳の概念における主張、徳をもつためには人は個人的な愛憎に左右されてはならず、アパテイア(アパシー、無関心さ)を前提として備えていなければならない、という主張に完全に一致する。同情は「もよおす」ものであり、例外的な個々の実例に対する、感傷的な一時の気の弱さであって、それ自体では徳にはなりえないどころか、有害無益な、軟弱で男性的徳目に反するものでもあり、哲学の格率とは相容れない過度の神経過敏である。反対に、アパテイアを備えた冷淡な近代的市民は、一時の感情に左右されずに一貫した普遍的安定性を持つ点で、むしろ大いなる長所を持っているのであって、非人間的の謗りを受けるいわれは全くない、ということになる。形式的一貫性さえあれば、内容が国民議会であれ乱交パーティであれ構わないのだ。思弁と乱脈が奇妙に合わさったサドの作品がそのような形式主義のグロテスクさを嘲弄的に示している。

 享楽の社会性、神話性

 しかし、形式主義・リゴリズムが、享楽へと結びつくのはなぜだろうか。実はその二つは棒の両端のように離れているのではなく、同じカードの裏表なのである。なぜなら、享楽とは自然の営みそのものではなくて、自然を自らの外側に対象化した文明が耽る所業であるからだ。故郷は、そこから脱け出ることではじめて故郷となる。オデュッセウスの啓蒙的冒険全体が望郷の想いを原動力としているように、近代化と自然憧憬とはつねに同時発生的である。文明人が社会秩序によって自然から疎外されている度合が強ければ強いほど、秩序を脱して自然に帰りたいという切望は強くなる。

 「自然はもともと享楽とは縁がない。自然はただ必要を充足させればそれでいいのだ。あらゆる快楽は社会的であり、疎外に由来する。」(p.217)
 Natur kennt nicht eigentlich Genuß: sie bringt es nicht weiter als zur Stillung des Bedürfnisses. Alle Lust ist gesellschaftlich und stammt aus der Entfremdung.

 ここでは「快楽は社会的である」と述べられるが、同じ段落に「享楽は神話的である」とも書かれる。文明化のプロセスに力点をおけば「社会的」、そこから自然への退行という結果に力点をおけば「神話的」ということになろう。
 享楽のこの両面性が看過され、単なる合理的「ガス抜き」と誤信されるとき、それは治癒しがたい病へと変貌する。古代のまだ緩やかであった社会秩序においては、享楽は「祭り」という、神々・デーモンへの愛に基づいた、非日常的なハレの場で営まれていた。祭りは、一方では制度として社会に組み込まれているが、他方では享楽がもっている神話性・非合理性を、なお担保していた。しかし近代の合理化された「祭り」は、茶番劇Farceとなる。

 「支配者たちは、享楽を合理的なものとして、つまり完全には制御しきれない自然へ支払う税金として、導入し、同時にそれを無毒化しようと試みる。」
 Die Herrschenden führen den Genuß als rationalen ein, als Zoll an die nicht ganz gebändigte Natur, sie suchen ihn zu entgiften zugleich.

 「休暇」が祭りにとって代わる。大衆の享楽は操作され、権力が提供する娯楽と催し物のうちに埋没する。それらはもはや、文明の敵である自然との再合一を許さない。休暇は神々やデーモンなどとは何の関係もなく、再び労働に立ち帰らせるための厳然とした合理的システムであり、社会秩序への服従を誓わせる手段にすぎない。
 近代の過激な理性は、すべての非理性的自然を呑みこみ、自然のアナーキーな力を、文明の支配下におく。しかし理性のこのような支配欲・自然蔑視そのものこそが、最も非理性的な欲望なのだ。「自然に逆戻りするという誘惑を根絶しようとすることが、文明の野蛮さである。」
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