独文独歩 47

 王者の裏切られた友情
 『ドン・カルロス』のフェリペ王と『トニオ・クレエゲル』

 1.神になりきれない王フェリペ

 フリードリヒ・シラーの四作目の戯曲であり、疾風怒濤時代からの脱出を示す過渡期の作品である歴史劇『ドン・カルロス』(初版1787) は、表題とは裏腹ながら、父王への確執と義母への恋に苦しむ、若きカルロスの悩みを描くだけの作品にはとどまっていない。愛と政治との二重の禁止を息子に与える父フェリペ王は、主人公に敵対する残虐な専制君主としてのみ一面的に描かれるのではなく、スペイン王国の栄華の頂点に君臨しながら、大きな孤独を抱える、不幸な存在として示される。
 フェリペ王の孤独は直接的には、妻と息子の不倫への猜疑、佞臣たちの権謀術数への不信といった、公私双方における疎外感に由来しており、そのことがポーサ侯爵への熱狂的な全権委任をまねき、悲劇の原因をなす。しかしこれらの個人的で表面的な窮状に対し、より深い次元では王者という立場そのものに孤立性が内在することが、随所で示される。
 第五幕で宗教裁判長の説く「帝王学」によれば、王は唯一の「地上の神」であり、対等な人間、すなわち友人をもつことは不可能である。それに対してフェリペ王は、実際は人間である自分にはそのような孤独は耐えられないと言う。「王『わたしは人間がひとり欲しかったのだ(…)』 裁判長『人間はあなたにとってはただの数じゃ。(…)地上の神は、手に入らぬおそれのあるものを欲しがってはならぬ。(…)』 王『(…)造り主にしかできないことを、あなたは造られた人間に要求しておるのだ。』」(五幕十場、p.411-2)
 ポーサ侯爵の名をメモから偶然に発見するのも、彼が「恵み深い神よ、おれにひとりの人間を恵んでくだされ――(…)あなたとちがっておれは全知ではないのだから。(…)真実の泉を見つけてくれる人物を恵んでくだされ」(三幕五場、p.368)と神に願った後のことである。三幕十場の冒頭でも彼は「神ではないかぎり、いちいち覚えているわけにはいかぬ。」とポーサが出頭しなかったことを責める。「地上の神」である彼は、神との相違を常に意識するひとりの人間である。
 王が神性を自己否定するさまを描くことでシラーが意図したものの一つは、王権の威風にひそむ内部事情を暴露し、王の人間的な弱さをさらけ出すことである。ここに彼の反王権的・革命的な政治的姿勢を読み取ることはもちろん可能である。宗教的党派を超えて民主主義的な自由思想を実現させようと、王に面と向かって王権を糾弾するポーサ侯爵(三幕十場)の一連の言葉にそれが表れている。

 「ところが残念なことには、陛下が造物主の手に成った人間を、ご自分の手でお造りかえになり、この新しい人間に神としてお臨みになりましたとき――陛下はちょっとしたお見落しをなさいました。つまり、ご自分がまだ人間であることを――造物主の手に成った人間であることを、お忘れになりました。陛下も人間であられますからには、悩みも欲望もおありになれば、人の同情も必要でございましょう。――ところが、神ともなれば、人々はただ犠牲をささげたり――恐れかしこんだり――祈ったりするほかはございません。神と人間をおはきちがえになったのが、遺憾千万でございました。まことに不幸な自然の歪曲でございました。――陛下が人間をおとしめて、ご自分のたんなる楽器となさいました以上、誰が陛下とともに諧音をかなでることができましょう。」(p.373)

 前後を補ってこれを言い換えれば次のようになる。神によって造られた自然のままの人間を、王は自らのための道具的存在におとしめてしまった。神の創造は完全であったのに、人間である王が神の真似事をしたせいでその自然が歪曲されてしまった。王と国民との関係は、神と被造物との関係の、いわば劣った模倣である。だから王はすぐに国民の奴隷化をやめて、主権を人民に返し、「思想の自由」Gedankenfreiheitを人民に与え、「幾百万の王の上に立つ一人の王」ein König von millionen Königen になるべきだ。以上のことを彼は友に飢えている王に対し、情に訴える形で示す。
 ここまでの観察では、あたかも『ドン・カルロス』全体がひとつの革命思想の劇であり、天上の揺るぎない神の名において地上の王の不正が糾弾される、という構図、つまり王と神とは明確に区別されねばならないという考えが読み取れるようにも思われる。しかし、ポーサが王にする提言は、注目すべきことに、その逆をいっている。すなわち、より高度なレベルで神と同じことをせよ、と求めるのである。というのも、王が絶対性を放棄し、数百万の王のもとに隠れるという提言の正当性の根拠を、彼は神のあり様に求めているのである。

 ihn[=Gott], der Künstler, wird man nicht gewahr, / bescheiden verhüllt er sich in ewige Gesetze;
 この神、芸術家は、誰にも気づかれず、ひっそりと自らを永遠の法則の中へと隠すのです。(拙訳)

 神は宇宙の上に立つ人格的超越存在ではなく、宇宙に遍在する法則そのものであるとするこの考えは、啓蒙主義に特徴的な理神論の考えを示している。ここでは、人格神から法則への移行のプロセスが問題となる。法則そのものとなった隠れたる神は、「水滴の中にも虫けらを住まわせる」ほど多様性に寛容であり、王のように異端者を殲滅するようなことはない。フェリペもそのように行うべきだ、というのである。これは現実政治においては突飛で受け入れがたい理想論にすぎず、シラーも「変った夢想家だ」とフェリペに言わせていることから、実際の政治問題との乖離に無自覚ではなかったことがわかる。しかしそれでもポーサに大言壮語をさせざるを得なかった作者の心中には、単なる政治性よりも、むしろ形而上的な問題が多くを占めていたと考えられる。
 シラーの詩「友情」Die Freundschaftにおいては、友を求める孤独者は、王ではなく神である。「偉大なる造物主には友がなかった、/欠乏を感じた―― だから彼は霊的存在たちをつくった、/彼の至福を写し出す至福なる鏡たちを、」 ここでは宇宙の創造の原因が、人格神の感じた友情の欠乏という、寂しがり屋のフェリペ王に近い、かなり人間味のある事態に帰せられている。神と宇宙との友情は「至福なる鏡」と言われるように相互的な反射であり、被造物たちは隔絶した神に手は届かないながらも、神の希求によって無限の生命の躍動を保つ。「彼に向かって泡立っている――無限性が。」
 このカバラ的な創出の原理と世界観が、孤独なフェリペ王のポーサとの出会いと、彼の描く抑圧のないユートピア的王国との基調を成していることは疑いない。スペイン王国のことを「世界建造物、宇宙」Weltgebäudeと呼ぶことからも、神―宇宙、王―王国の入れ子構造ははっきりしている。必要なのは王の神性の剥奪ではなく、小さな宇宙を大きな宇宙にできるだけ近づけることである。ポーサの求める「思想の自由」に基づく国家は、国王を神の玉座から引きずりおろして成立するものではなく、むしろ国王が本当の意味で神となるときに実現するのである。
 しかしポーサは国王に、神になれと言っているわけではない。「神と人間をおはきちがえになった」国王が、比喩的な意味を超えて本当の神になることはもちろん不可能である。むしろ彼が提出するのは、後年のシラーが理論化した、美的国家のモデルである。真理を美のヴェールに包んで表現する芸術家は、美の祭司であり、秘められた真理を大衆にも分かりやすい形で提示することで、大衆を教育し高めることができるという、神と人間との仲介者としての芸術家像に基づくこの国家理論は、芸術家による一種の神権政治である。『ドン・カルロス』が作者の没年(1805)までずっと改作しつづけた唯一の作品であるという事実は、この二百年前の歴史上の絶対王政国家を脚色する仕事が、来たるべき芸術家王国への模索でもあったことを告げている。シラーの思想の代弁者たるポーサはフェリペ王に、これも比喩的な意味であるが、いわば芸術家になれと言っているのだ。
 上の引用においては、神が芸術家der Künstlerと名付けられる。また、一つ前の引用をよく見てみると、王は人間を「ご自分の手でお造り変えになる」者、つまり第二の創造者として語られており、楽器の比喩からは、王は人間を演奏する音楽家であるという発想が読み取れる。被造物の歪曲者という王の定義は、プラトンが芸術家をおとしめて「模倣の模倣」と定義したことを想起させるものである。ポーサによれば王の支配は、劣った形とはいえ、一種の創造的・芸術的営為とされているのだ。現在の暴君的な支配は、劣った芸術であるが、来たるべき「友情」に基づく支配は、優れた芸術を志向する。
 以上の考察で、神・王・芸術家に共通する問題が大まかに示された。すなわち、創造者として被造物の世界と相互的な友情を結びうるか、という問題、孤立性と親和性とのアンビヴァレンスの問題である。シラーにおいてそれは、神と人間との結びつき、王と人民との結びつきという二つのレベルで取り扱われており、三番目の層である芸術家のあり方は、解決策としてほのかに示されるのみである。芸術家が国家的責務を一挙に担いうるという理想論をシラーが持ちえたのは、彼の時代において職業的な作家がまだ存在しなかったことも一因であろう。一世紀を下ったトーマス・マンの作品では、芸術家という職業的地位についた一人の人間の心的葛藤として、上に述べた問題はより個人的な次元で反復される。

 2.市民性に憧れる芸術家トニオ

 トーマス・マンの全作品中で初期の頂点をなし、もっとも感傷的なものの一つである、自伝的な芸術家小説『トニオ・クレエゲル』(1903) の主人公トニオは、少年時代に『ドン・カルロス』を読んで衝撃を受け、自分とフェリペ王とを、友の不実のゆえに重ね合わせる。
 彼は学校の帰り道にボンボン飴を食べながら、唯一の友の裏切りを知り「王が泣かれた」シーンを、美少年で人気者の友人ハンス・ハンゼンに向かい、解説しようとする。しかし文学に縁のないハンスは、別の生徒が割り込むとすぐに態度を変える。トニオは裏切られたと感じて泣きそうになり、フェリペ王のことを思い出す。
 飴をなめる十四歳の少年が同級生への嫉妬ゆえに、古典劇中のスペインの国王に自分をなぞらえるのは、感情の子供らしい誇張であり、ほほえましさを引き出す効果がある。またマンにもシラーにも潜む同性愛的な要素は、無視できない特徴であろう。しかしトニオが名声ある作家に成長してから、旅先で友の姿を認めたとき、再び蘇るこの重ね合わせは、芸術家=王という等式の容貌を帯びている。
 世界の王フェリペと芸術家トニオとの、両者の苦悩はひとつの共通する相剋に基づく。すなわち、人間を支配=認識するために自らを神に擬することを要求されながら、実際には人間でありつづける、という相剋である。女画家のリザヴェータは、浮世の市民性を超越した気でいながらも憧れを捨てきれないトニオを一蹴して、「道に迷った俗人(市民)」ein verirrter Bürgerと呼ぶが、この呼称には「神と人間をおはきちがえになった」というポーサの批判と同じ響きがある。 トニオがリザヴェータに勢い込んで語る芸術家論の中には、前の章で述べたいくつかの要素すなわち、隠れたる神、王者の孤立、などの徴候が含まれている。

 人間的なものを演じ、それと戯れ、効果的に趣味よく描写するためには、自らが何か超人間的で非人間的なものになっていなければならないのです。
 Es ist nötig, daß man irgend etwas Außermenschliches und Unmenschliches sei, (...) es zu spielen, damit zu spielen, es wirksam und geschmacksvoll darzustellen. (S.298)

 専制君主の仕事は人間の支配、弾圧、虐殺であったが、芸術家の仕事は人間の認識、表現、再演である。人間を対象化するために、人間を超える(außermenschlich)、ないしは人間を否定する(unmenschlich)必要があるという点で、両者は重なっている。他のどの役でもなく、フェリペ王の役に感情移入した少年トニオは、成人してもそのシンパシーを常に保っていることがわかる。

 他人に認識され、観察されている人は、隔離されてどこにも属していないような感じがするものです。そのような人の表情には、何か王者的で、同時にきまり悪げなところがあります。民衆の群れの中を通って歩く、私服を着た王侯の表情にも、これと似たところが見て取れるでしょう。
 Das Gefühl der Separation und Unzugehörigkeit, des Erkannt- und Beobachtetseins, etwas zugleich Königliches und Verlegenes ist in seinem Gesicht. In den Zügen eines Fürsten, der in Zivil durch eine Volksmenge schreitet, kann man etwas Ähnliches beobachten.

 彼によれば、芸術家は市民の中に隠れたお忍びの王侯のようなものであり、隠れていても周りから際立ってしまい、決して居心地良く溶け込むことができず、いつまでも孤独であり続ける。ここではポーサの提言、人の上に立つのでなく、人の間に交ざる君主となれ、という、隠れたる神を模倣するプランが、すでに実現しているといえる。王は市民化されて芸術家となったのだ。 しかし依然として、芸術家と市民に対する隔絶と憧れ、孤立と親和との間の揺らぎ、すなわち「友情」の問題は、主要なものとして残る。
 そして『トニオ・クレエゲル』においても、裏切られた友情は回復されない。トニオとハンスとの間の幼い友情、芸術家と市民との結びつきは失われたものとして描かれ、トニオの心中における片思い的な羨望しかそこには残っていない。どれほど彼が相互理解を求めても、ハンスは最後まで「寂しいといって泣くような王様」などといった「詩と憂鬱」とは無縁の人間であり、彼の高踏的な作品を読むことも一生ない。彼の読者は「よく転ぶ人」と形容される、社会不適合ゆえに芸術に避難所を求める人々ばかりである。すなわち、美的国家における理想的芸術家の祭司的あり方、真理を認識した上でそれを美に包んで表現し、大衆への教育的手段として提供する、という仲介者の役割は、現実の市民社会において十全に実現することはなかったのだ。

 3.神と人との仲介者へ。理想的な解決

 このようにして、孤独な一者から、民衆との仲介者へ、という移行は、フェリペ王においてもトニオにおいても、友情の不可能性によって、挫折の道を辿る。それに対する解決策を、シラーは理論的著作において追求し、一方マンはそれを『ヨゼフとその兄弟たち』の主人公ヨゼフに仮託する。
 美貌でだれからも愛され、芸術的な才能をも併せ持つヨゼフは、トニオを想起させる精神的厳しさをもつ父ヤコブの性格を、愛している。彼の内において、以前には対立していた芸術家の精神性と市民の自然性とが、弁証法的に統一されている。彼はいわば、「『ドン・カルロス』を読むハンス・ハンゼン」である。エジプトに誘拐された彼は、奴隷の身分に隠れながらも、まさに「私服を着た王侯」であるかのように頭角を現して出世し、ファラオの代理人として、地上の神と民衆とを仲介する役割を果たす。彼は一人の芸術家である、と作者自らが述べるとき、シラーの美的国家のプログラムが頭の片隅にあったことは確実である。
 ヨゼフは「神のような」存在として多神教的なエジプトの民衆に称揚され、また自らの人生行路をオシリスの死と復活になぞらえるが、やはり人間にとどまっていることに変わりはない。しかし彼は、神と人間との双方に関わりをもつ、特殊な人間としての芸術家であり、それはトニオやフェリペのような疎外の悩みから解放された、明朗な存在として示されている。もっとも彼の像は、シラーの理論的構築物と同様、幾分ユートピア的なものであることは否定できない。