骨液

 男がスピーチを終えると、観客のあいだからどっと拍手が沸き起こった。そのスピーチは、彼が前々から練りに練って作り上げた原稿にもとづいたもので、苦心のかいあって大成功を収めたのであった。観客の拍手はいつまでも鳴り止まなかった。男は上機嫌で壇上から降りたが、急に何か思い立ったらしく、そのまま大急ぎで便所へと向かった。
 便所の洗面台の鏡の前に一人の女が微笑んで立っていた。そこに男が走り込んできて、しばらく息を荒げていたが、女が男に声を掛けた。
 「あなたのスピーチはうまく行きましたか?」
 「何を言っているんだ。ずっと耳をそばだてて聴いていたくせに」男は息切れしながら答えると、洗面所の蛇口をひねり顔を洗った。しかしそこで信じ難いことが起こった。蛇口から出てきたのは水ではなく、赤紫色のドロドロした液体であった。液体、というのも憚られる。言うならばジェル状、それどころかほとんど固体に近い部分すらあり、さながら動物の内臓をミキサーで骨ごと掻き砕いたかのようなものなのである。しかし男はそうとは気づかず、彼のそう悪くはない顔にその奇怪な物体をこすりつける。たちまち彼の顔は異様な様相をかもし出し、顔中から血液が滴っているかのようであった。
 男は蛇口の流れを止め女と向き直った。女はその一部始終を謎めいた微笑みでもって傍観していた。男は息もととのい落ち着いたとみえて口を開いた。
 「それであんたは結局今夜のパーティーに参加するのかい」
 「参加しようとしまいと私の勝手だわ。それよりあなた、顔がまだ濡れているわよ。タオルを貸しましょうか?」女は手に提げていたバッグからアニメキャラクターの等身大フィギュアを取り出し彼女の隣に立たせた。
 「折りたたみ式のフィギュアなんて初めて見たよ」と、男は驚いたように言った。
 「そうかしら?」女は何でもないといった風に、「今どきは携帯電話だって折りたたみ式なのよ。フィギュアが折りたためても何もおかしくないわ。むしろ自然よ」
 「でも腰があらぬ方向に曲がっているフィギュアなんて見たくない」
 「うるさいわね」女は急に険しい顔になり男の腰の関節を想像を絶する握力で破壊した。男は声にならないうめきとともに体中の穴という穴から赤紫色のドロドロとした液体を噴出して便所の床に倒れた。女子便所の桃色のタイルが赤く染まった。女は男が倒れた拍子に手放したスピーチの原稿を取り上げて個室に入り、用を足すとその表紙を破りそれで尻を拭いた。水が流れる音とともに女は個室を出て微笑みを湛えつつその場を去った。男の屍体と等身大のフィギュアだけが残されていた。拍手が水の流れる音と重なっていつまでも続いていた。