やかん猫 1

 我輩は猫である。名前はまだ無い。
 しかし今はそんな事はどうでも好い。
 やかんから出られないのだ。
 かれこれ二時間の悪戦苦闘もむなしく我輩は、湯沸かしに使い込まれた古典的なやかんにすっぽり体を嵌めたまま、顔だけ突き出して、超然とその悲劇を受け入れていた。斯くの如き非常事態に於いて無様に焦ったりするようでは猫として未熟である。このように常に堂々としていなければならない。
 しかし内心、散歩にすら行けないのは癪だ。現在我輩の身動きがとれるのはこのやかん内に限られている。我輩の貫禄を持った体躯が仇となったか。やかんから身を乗り出そうとすると腹のあたりがつかえる。前足を出そうとすると今度は二の腕が邪魔をする。やかんの中は窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。
 居間で話し声が聞こえる。主人と、その細君である。
「茶が飲みたい」
「お湯を沸かして来ますわ」
 二人の会話はいつも手短である。けして夫婦仲が悪いわけではなく、両者とも寡黙であるがために、家の中はいつも静けさが漂っているのだが、例えば主人の書斎などはその最たるものである。本の匂いに囲まれたあの狭い空間が我輩の好みに良く合う。読書中の主人の膝の上に乗り、我輩もその本を覗き込む。何時だったか主人は、漱石とか云う作家の、猫が主人公の本を手にしていて、この小説が大変我輩の気に入った。それからというものの我輩は、主人の留守の間に、書棚から漱石ばかりを拝借して読んでいた。我輩はこの主人に拾われた野良であるが、若い頃に新聞を漁って興味本位で字の勉強をしていたのが、まさかこのような形で役に立つとは、流石の我輩も想像もしなかったことだ。
 さて先ほどの会話の後、お湯を沸かそうと台所へやって来た主人の細君は、我輩のやかん姿を見たとたん、ぷっと吹きだして、そのまま居間へ戻っていって、夫にささやいた。
「貴方ちょっと、面白いものが見れてよ」
「見れてじゃない、見られて、だ。古風な話し方をしたってラ抜きでは台無しだぞ」
「いいから御出でなさい」
 主人はつまらなさそうに妻の後について台所までやって来たが、我輩のやかん姿を見るや否や、とんでもない大笑いをはじめた。
「わははは。こりゃ傑作だ。わはは。わはははは。ああ愉快愉快」
「愉快でしょう」
 我輩は不愉快だ。普段滅多に笑わない主人がこんなにも大笑いするのだから、余程我輩のやかん姿が滑稽に見えるのだろう。不愉快だ。主人も精々この程度の教養の人間であったわけだ。我輩は失望した。馬鹿みたいに大口を開けている下品な主人を思い切り睨み付けてやったが、それが逆にまた受けたようで、さらなる笑いの大波である。細君もつられてくすくす笑っている。我輩はもうこんな家は出ていってやろうと思った。
 しかしそれも、やかん姿には無理な相談である。

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