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やかん猫 3

 やかん猫 2 の続き

 しかし我輩は甘かった。主人は我輩を解放しようと努力するどころか、我輩をやかんごと庭の物置に閉じ込めたのだ。我輩が勝手に餓死してくれれば好いのにとでも思っているのか、事件の次の日の朝から餌も一切よこさなくなった。昼を過ぎた頃には、昨日の昼から飲まず食わずの我輩はそろそろ生命の危機を感じた。
 それは何と言う激しい絶望だっただろう。我輩は斯くの如き惨めな空腹を抱えたまま、このみずぼらしいやかんの中にうずくまって死んでゆくのか。その日の夜ほど我輩が感情を露にして泣いたことはなかった。まるで赤ん坊のように泣いた。威厳なんて有りやしなかった。
「やかん猫さん、」
 物置の扉が少し開けられて、隙間から優しげな囁きが聞こえた。我輩はふと泣き止んで、そろそろと外に視線を向けると、そこには暗がりの中、月明かりに仄かに照らされて淡く光る細君の顔があった。
「御飯の時間よ。」
 そう囁いて細君は一匹の魚をそっと我輩の口元へ差し出した。何てことだ、我輩の目からはまた涙が溢れ出した。先とは違う、あたたかい涙である。そうして魚にかぶり付いた。身も世もないように食事する我輩の姿を見ていた細君の笑顔は、主人のあの不快なる嘲笑とは全く違う、天衣無縫の、施しの天使の微笑みであった。
 それから毎晩、主人が寝静まるのを待って、細君は我輩の食事として一匹の魚と水を調達してきて呉れた。我輩は細君に感謝せずにいられなかった。今まで誰にも感謝の念なぞ起こらなかったこの我輩が、である。ランプを持って物置を開け、中に居る我輩をそっと覗き込んで安心したように微笑む。我輩もその笑顔を見るたびに救われるような思いがした。
 また主人が外出中で何時まで帰ってこないか判然しているときは、早めに家事を終えると物置に訪れてきて、我輩の隣で読書をはじめることがあった。活字にも飢えていた我輩がその本を読みたげに視線を送っていると、勘の良い細君はやかんを膝の上に乗っけて、体育座りをして、我輩にもよく読めるように気を遣って呉れるのであった。背後に感じる細君の胸の温もりが心地よかった。そうして読んでいた本は漱石ではなく、主人の本棚の中でも我輩の手に届かぬ高い所にあったと思われる様々な小説であったが、その中の一冊に、岩屋に閉じ込められた魚の話があり、我輩はかなりの感情移入をもってその短編を読んだ。
 ある時、もし我輩が細君のくれる魚を全部は平らげぬようにして、次第に痩せて身が細くなるよう努力すれば、このやかんから出られるかもしれぬことに遅まきながら気づいた。しかし、そろそろやかん生活にも馴染んできた頃合いであったし、こうやって細君と触れ合える時間を心待ちにしていられる今の暮らしは、満更でもないように思えた。例の主人はというと、かつてのオブジエのことなぞ最早すっかり忘れたらしく、餓死したかどうか様子を見にさえ来なかった。それは我輩と細君との交流にとっては寧ろ好都合なことであったが、しかしそれも、長くは続かなかった。

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