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独文独歩 1

 シュニッツラー
 『花・死人に口なし 他七篇』

 Arthur Schnitzler, 1862-1931
 Blumen, Die Toten schweigen

 短編集。新しめの岩波文庫。翻訳者の番匠谷英一と山本有三がどちらも戯曲家なのは、シュニッツラーが戯曲家として有名なのと関係があるのでしょうが、山本有三の後書きには、彼は戯曲よりも小説、それも短編小説に向く作家だと評価してあります。
 シュニッツラーはオーストリア人でユダヤ系、医者でもあり、ホフマンスタールやハウプトマンと同時代人、ツヴァイクよりは先輩、フロイトとも知り合いで精神分析の知識もあり。音楽好きでピアノも上手い。当時作曲家としては不人気だったマーラー(1860-1911)の交響曲の大ファン。新ロマン主義の代表的作家で作品の舞台もたいがい優雅でデカダンな世紀末ウィーン。
 巻頭の『花』(Blumen, 1894)に心惹かれました。元カノが自分の知らないうちに病気で死んだと聞かされて、憂鬱になっている。ふいに、別れた後も彼女から毎月贈られていた花が届く。生前に注文してあったのが送られてきたのだろうが、あの世から挨拶されたかのように思って心を動かされ、枯れても花瓶に飾りっぱなしにしている。新しい恋人もその花の意味深さをうすうす感じて物問いたげなそぶりをする。男は故人の思い出にとらわれて他のことに夢中になれない。春の晴天にも背をそむけて部屋の花を見つめるのである。

 ――そして外は春だ。晴れ晴れと絨毯の上に流れる太陽。近くの公園から漂ってくる接骨木(ニワトコ)の匂い。そして下を通って行く見ず知らずの人たち。ちょうどそんなものだけが生きているのだろうか。私は窓掛けを下ろすことができる。そしたら太陽は死んでいる。私はそれらの人たちのことを知ろうとは思わない。そしたら彼らは死んでいる。私は窓を閉めよう。接骨木の匂いはもう私の周囲に流れてこない。そしたら春は死んでいる。
 私は太陽や人間や春よりも強い。しかし私よりも強いのが思い出だ。思い出は思いのままにやって来る。思い出は逃げ隠れすることを許さない。だから玻璃の中のこれらの乾からびた茎は、すべての接骨木の匂いや春よりも強い。

 ところがその後、新しい恋人グレーテルは無言で微笑んだまま枯花をつかんで、窓から下の往来に投げ捨ててしまう。そして代わりに花束を、健康で新鮮な白い接骨木の花束を彼の鼻先に差し出す。男は「自分で自分の気持ちが分からなかった。とにかくずっと自由な――前より遥かに自由な気持ちだった」。死のイメージにとらわれて軽く病んでいたのがふいに解放されて、新しく生のよろこびの湧き出るのを感じたのである。
 かつての恋人の死にそこそこショックを受けながらもけっこう簡単に立ち直ってしまう男(気軽なふさぎ屋 Leichtsinniger Melancholiker)。この作品に限らず、愛と死などという重いテーマをしょっちゅう扱っていながらも、大仰で深刻な感じではないところがいい。単に恋人が死んで悲しいので泣くみたいな直球の話はなくて、『わかれ』(Ein Abschied, 1896)は亡き女の横たわる床を目にして感極まるクライマックスで、不倫相手の夫がそこに居るのに気づいて涙が止まってしまう。『死人に口なし』(Die Toten schweigen, 1897)も不倫カップルが嵐の中で馬車に乗ってたら転覆して男が死に、女はそれを気にかけながらも夫と子供の待つ家へとこっそり逃げ帰る。タイトルからして皮肉なくらい楽天的ですが、かといって厭らしかったりドロドロした感じはなくて、多少は悩みはするけど、成り行きと自分の気持ちに追従してしまう登場人物たちの、移り気で小市民的な心情は誰しも共感できるものに思えます。恋人の死に殉ずるとか、あなただけを愛するぜ的な一途でピュアな話は多分シュニッツラーの好みではなかったのでしょう。
 路線の違う作品ですが、『盲目のジェロニモとその兄』(Der blinde Geronimo und sein Bruder, 1900)は兄弟愛もので、涙腺にくる名作でした。

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