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独文独歩 2

 フォンターネ
 『迷路』

 Theodor Fontane, 1819-1898
 Irrungen Wirrungen

 岩波文庫。1937年の初版をそのまま復刻した本なので登場人物が旧字旧かなで喋る。翻訳者の伊藤武雄については不明。
 作者は晩成の人で、流行りの紀行文や批評活動から離れ、腰を落ち着けて小説を書き始めたのは六十歳ごろから。この長編は1888年作すなわち従心も近く、人生を大体すませた後の達観した態度がにじみ出ている。フォンターネを修論にしている先輩が自嘲気味に「つまらないから読まなくていいよ」と言っていた意味は、読んでみて確かに分かったけれど、はたして単につまらなかったかと言うとそうでもないのです。
 原題は「錯誤、混乱」「迷いともつれ」ですが題名のわりに大したスペクタクルも昼ドラ展開もなく、舞台はベルリン、没落貴族ボートーと庶民の娘レーネとの三ヶ月の儚い恋が、財産家の従妹ケーテとの結婚によって終わりを告げるというよくある話。当時の上流階級の男性は婚期が三十代前半くらいで、二十代のうちは下の階層の女性と関係を持ち、それは比較的長期に渡ることもあるけれど、結局は社会的に同等の相手と家庭を持つために身を引いていくのが常だった。だから二人の関係に初めから終わりの見えていることはレーネも承知済みで、時折恋人に当てこすりをしながらも束の間の幸福に浸るのである。

 彼女はヴェランダから降りて、桟橋の突端にある二艘の端艇の傍へ行つた、帆は半分おろしてあつて、名前を縫ひ取りした三角旗がマストの天邊に靡いてゐた。
 「どつちにします、「あゆ」の方、「きばう」の方。」
 「勿論、鮎よ。希望なんかに用はありませんわ。」

 二人のただ一度のお泊まりデートの最初の場面。復活祭で舟から落ちて溺れかけているのを男爵が助けたのが交際のそもそもの発端で、そんな馴れ初めをも思い出しながらのひと夏の小旅行です。
 ボートーも真剣にレーネを愛しているので、ケーテとの結婚を目前にひかえて悩みます。「この愛情を恥る必要なんかあるものか。感情は絶対的なものだ、愛するといふ事実があれば、愛する権利もあるわけだ、世間ではかういふ考へ方に対して首を振つたり、疑問だと言つたりするかも知れないが。」なんて台詞からは、恋愛至上主義と家柄主義との間で板挟みになっている姿が見える。素朴で真実で自然らしさを備えているレーネと暮らす「隠れた幸福」への憧れに対比して、ケーテの皮肉っぽさに少し辟易し、付随するであろうサロンなどの社交界も贋もの、体裁のいいもの、気取ったものだと嫌悪しながらも、結局は、情熱よりも生活の秩序を求めて後者を選ぶわけです。
 フォンターネ自身は貴族ではないけれど薬剤師という裕福な職業だったので貴族趣味はあるし、一方でレーネのような勤労する庶民への同感も強いから、境界線にいる分その対比には敏感だったのでしょう。
 小説として好きなところは、別れた二人が悲しみながらも少しずつ拘泥から抜け出して新しい生活の中に入っていくまでの、微妙な心の動きやちょっとした出来事がさりげなく描かれていく後半部分。人生そんな経験もするさという老成した目線、若い人々の「迷いともつれ」を貶めたり、逆にことさらに称揚したりするのでなく、ただ暖かく見守っている目線こそが、この何てことない作品の魅力です。
 作品中に出てくる九柱戯(Kegel)という遊びはボウリングのピンが一本少ないもので、モーツァルトにKegelstatt Trio(1786)という曲があります。

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