独文独歩 4

 シラー
 『群盗』

 Friedrich von Schiller, 1759-1805
 Die Räuber

 年暮れにあちこちで耳にする歓喜の歌(Ode an die Freude, 1786)、あの腹立たしいほど人類愛に満ち満ちた賛歌の作者が、十代で書いた戯曲。それがこんなにも毒舌で反権力的だとは思わなかった。
 領伯の長男カアルが、父親に勘当されたと思って逆ギレし、盗賊団の長となる。それは領主を継ぎたい狡猾な弟フランツの陰謀で、絶望させて殺した父の後釜になって暴政をはたらき、兄の恋人アマリアに言い寄る。ならず者を率いて封建制度からの脱却を求める、啓蒙コンプレックスな疾風怒濤文学の代表者カアルのイメージは、義賊ロビン・フッドの物語やドン・キホーテの盗賊ロケに着想を得ており、弟が父と兄を騙して下剋上するのはリア王のグロスター伯親子に共通しているらしいが、僕はどれも知らない。
 毒舌なのはカアルもフランツも同等ですが、例えば第一幕第二景でカアルが、読んでいる書物に悪態を吐くシーンなどは痛快です。

 何んのざまだ! 何んのざまだ、このだれ切った、去勢された一世紀は。前の時代の仕事を反芻したり、古代の英雄を、下手な注釈本で苦しめたり、悲劇に書いて瀆したりする。ものを産み出す力など、とうの昔に涸れ果てちまった(…)
 法律とは何だ、荒鷲のように飛び翔けろうとするものを、堕落の底へ誘い込んで、蝸牛のように匍わせるのだ。法律が大人物をつくったためしはないが、自由は、巨人傑物をはぐくむ。(…)ああ! ヘルマンの精神が、灰のなかに燃え残っていてくれたらなあ!――おれを、吾が党の士の先頭に立たせろ、ドイツの国は共和国となれ、ローマもスパルタも、その前に出ては、尼寺同然の姿となれ。

 ヘルマンというのは帝政ローマ初期にゲルマン民族を率いてローマ軍を撃退した族長でアルミニウスともよばれる。貴族からドロップアウトした青年が、自国のみじめさ故に発奮し、過去の偉人に感化されて時代のリーダーを志向し、自由を叫ぶ。口は悪くてもその若々しい情熱は歓喜の歌に通ずる気がします。
 ニーチェがドイツ統一後に書いた『反時代的考察』(Unzeitgemässe Betrachtungen)の第二編『生にとっての歴史の利弊について』(Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben, 1874)を、授業の参考文献に出されて読んだことがあるのですが、カアルのセリフでその論を思い出した。曰く、人間の歴史は実証的な科学であるべきだとされて以来、生に奉仕しない死んだ知識の寄せ集めになっている。制限だらけの客観的真実でなく、自分なりに曲解して、心を揺さぶり創造へ導くような芸術的真実こそ、歴史の純粋なる観照なのだと。自国史や古代史に行動原理を見出そうとするのはドイツにはよくある衝動のようです。
 僕が好きだったのは、第三幕第二景でカアルが父も母もなき今の我が身を嘆き、子供になりたいとか母親の胎内に帰りたいとか、乞食や日雇い百姓になって、ささやかな喜びのためだけに汗水垂らして働きたいと願う場面。人の上に立つべき者特有の、素朴な生活への叶わぬ憧れがあらわれていると思いました。しかし無為徒食の貴族性から抜け出せないカアルは結局、アマリアとの愛にほだされて群盗(=革新を願う市民)を率いる指導者にもなりきれず、かといって百姓(=保守的な一介の労働者)のように愚直に働く気も実のところなかった。だから最後には自分の首にかかった懸賞金を、ひとりの日雇い百姓に恵んでやるという破滅的なふるまいでしか、自己肯定ができなかったのである――という総括を、法海恒吉という人の論文で読んでしまった。作品に負けず劣らず毒舌な文章で、なぜか自分のことのようにグサリときました。
 岩波文庫で久保栄訳、実吉捷郎の短い解説付き。