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独文独歩 12

 レッシング
 『ミス・サラ・サンプソン』

 Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781
 Miß Sara Sampson, 1755

 カントによれば啓蒙されていない人は、抜け出すべきはずの未成年状態にとどまっている。使えるはずの悟性を使わないで、王権と教権が秩序のため善かれとするものを無批判に受け入れているのである。啓蒙された人はそういった権威に素直に従わずに自分の頭で考える。そのもっともラディカルな形が、アメリカ独立やフランス革命という王権と教権の真っ向からの否定であった。また、自分の頭で考えるだけでは正しい答えに至らないので、公衆Publikumの自由に集う議論の場が必要であるとカントは書いている。共和国Republicはまさに公衆がつくりあげた国という意であり、権威でなく理性による独裁を理想にかかげている。開き(auf)明るくする(klären)啓蒙(Aufklärung)はまさしく理性の光によって行われるのである。
 しかし明るくなればなるほど、暗い部分も浮き彫りになるもので、その影の領域を自覚化することが1800年代のドイツ文学の大きなテーマであった。その例としてレッシングの『ミス・サラ・サンプソン』におけるジェンダー問題を扱うが、その前にまず、いかにしてジェンダー問題が前景化したかを説明する。
 およそある事柄が話題になるのは、その事柄の根拠が揺らいできた証拠である。18世紀末においてまさに、それまで自明であった家父長制が、自明性を失いつつあった。家の中の君主である家父長は、家の外では他の家父長との間で公的な位置づけを得るが、女性は家の中の秩序を保つのが役目で、家の外に占める地位はなかった。しかし貴族の女性が読書を通じて男性的な教養を身に着けていき、男と知的に肩を並べることで家の外の公的な枠に参加することを目指すようになると、時に男性が形作る社会とは敵対してしまう場合が生じたのである。
 『ミス・サラ・サンプソン』では知的な貴族の女性は、純真なサラに対する狡猾で嫉妬深い悪役マーウッドとして描かれる。かつての恋人で優柔不断の色男メルフォントのもとへ、サラと駆け落ちした場所まで訪ねてきて、彼を取り戻そうと画策するが叶わないマーウッドは、最終的にサラを毒殺する。観客は心が清らかなサラを奸計によって殺すマーウッドへ反感を抱くだろうが、それは単なる反感ではなく、同時にある怖れを、時代の変化からその存在が必然的に帰結されるような悪にたいする怖れを含んだものであろう。マーウッドの邪悪性はじつは能動的な本人の意志に帰せられるのではなく、男性社会を体現するメルフォントがサラとの市民的恋愛という新しいジェンダー秩序に寝返って彼女を裏切ったがゆえに受動的に獲得した邪悪性であり、観客が問題意識を喚起させられるような邪悪性ともいえる。ありていに言えば、マーウッドかわいそう、という見方が可能なのである。
 レッシングはアリストテレスの『詩学』における悲劇論を、それまでのようにフランス経由の間接的取り入れではなく、直接読みなおした上で、再定義している。悲劇の二大要素phobosとeleosは「怖れ」「悲しみ」と訳されたが、彼はeleosをMitleidすなわち「憐れみ」と訳した。登場人物と共に(mit)苦しむ(leiden)という感情移入こそが悲劇の本質だと考えたのである。「共に」という対等性において観客と、王侯貴族である登場人物との身分差は解消され、同じ人間としての共通性を前提とできるようになるのだという啓蒙主義的な平等思想がここにはある。
 マーウッドに「憐れみ」を感じることは一見難しいようだが、注意深く読むと彼女の振舞いにも多くの分がある。長らく同棲して子供まで設けたメルフォントを取り戻そうと躍起になるのは当然であって、彼女の行為がサラと比較して愛情の純粋性に欠けると言えるかは甚だ疑問であるどころか、見方によっては彼女は子供を護る勇敢な母親であり、むしろメルフォントこそが愛情が醒めたとたん恋人を蔑ろにする自己中心的な真の悪役だと言えなくもない。そのメルフォントだって、サラとの市民的結婚とマーウッドとの宮廷恋愛という、新旧二様の秩序の間で揺れ動き悩んでいるからこそどちらも選択しえないのだ、と考えれば酌量の余地もある。いずれの登場人物の性格においても時代の変化に裏打ちされた必然性が読み取れることが、観客にかれらの苦しみを身近な問題として感じさせたであろう。旧来のジェンダー秩序の中で自分を実現しようとするマーウッドが、男性的な知性を使用して、裏切られた秩序に反逆することは必然的であり、彼女は変化しつつある社会にとって身から出た錆、まさに啓蒙主義の影の部分を体現しているのである。

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