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独文独歩 13

 トーマス・マン
 『ヨゼフとその兄弟たち』

 Thomas Mann, 1875-1955
 Joseph und seine Brüder, 1943

 「神にえこひいきはない」というのはパウロの言葉であるが、それはキリスト教の考える神であって、旧約聖書の物語が示している気まぐれな神には全く当てはまらない。神の祝福は万人に平等ではない。すべての人が幸運であるときそれは幸運とは呼べないだろう。祝福される者は必ず少数であり、その裏には多くの祝福されない者がいて、嫉妬に苦しむのである。ひいきと嫉妬はこのように対になって存在する。
 『ヨゼフとその兄弟たち』は旧約聖書のヤコブとその十二人の息子の、波乱に富むが簡潔でディテールの少ない物語に、これでもかと説得的な状況説明と心理描写、時間や空間に対する神学的な考察を付け加えて語り直し、十六年間かけて筆を尽くされ、その数十年後には僕のお盆休みの読書時間をすべて犠牲に強いた、四部構成、トーマス・マン全集二冊分の畢生の大作である。神話にはあらゆる物語に現れる普遍的なテーマの数々が原初的な形でひしめいており、それを明示化した現代の文学ともなれば、鈍感で聖書もよく知らない者でも様々なテーマに心ひかれて、目移りしてしまうこと必至である。だから読むにあたって僕は言葉の海に溺れないように、ひとつ固定的な視点を持つようにした。すなわち「ひいきと嫉妬」というテーマ、ヨゼフが他の兄弟たちよりも、容姿と身のこなしの優美さと喋りの巧みさで、父ヤコブにひいきされているということ、ほかの兄弟がそれに嫉妬して一度は暴挙に出るが、小説の最後にはその不公平を受け入れていること、に注目してメモを取っていたのである。これが一番大事なテーマだという確かな証明は持っていない。たしかにエジプトの人妻に誘惑されまくる第三部あたりは一見関係がなさそうだし、嫉妬する兄弟たちは途中何百ページにもわたって出てこない。けれども、作者が迷った末にもこのタイトルを採用し、小説の最後にも書き記しているからには、『ヨゼフ』と『その兄弟たち』との対比、即ちひいきと嫉妬の対比とが、何らかの形で中心を占めていると考えてよいだろう。
 ひいきと嫉妬の原型となっているのがアベルとカインの神話、最も露骨な神のえこひいきの神話である。農耕を営むカインの供物よりも、牧畜を営むアベルのそれを神が好んだため、カインは嫉妬でアベルを殺す。この神話を基にして、ひいきと嫉妬は物語中の随所で現れる。それらはすべてヨゼフにつながる家系の人々が受ける、両親の、あるいは神のひいきである。
 まず、ヨゼフをひいきするヤコブ自身が、親のひいきによって出世した人である。本来兄のエサウに与えられるはずの長子権を、弟ヤコブにまんまと騙し取らせるために、彼を偏愛する母リベカによる暗闇の中の奸計が行われる。エサウの毛深い肌を模した毛皮を母リベカがヤコブに貼りつけたため、目が見えない父イサクはすべすべ肌のヤコブを毛深いエサウとすっかり思い込んで祝福すなわち長子権を与えてしまう。
 次に夫による妻のひいきがある。ヤコブは二人(奴隷を含めると四人)の妻をもったが、目の上に赤いかさぶたのあるレアよりも、美しいラケルを偏愛する。十二人の兄弟のうちこのラケルから生まれたのはヨゼフとベンヤミンだけである。結局ヤコブのヨゼフびいきも、この優美な息子の瞳が、産褥で故人となったラケルと同じ色をしているからであって、それが他の息子たち、レアの遺伝で目の上に赤いかさぶたがある息子たちや、奴隷に産ませた息子たち合わせて十人の嫉妬をかきたてるのである。ひいきが連鎖すれば、嫉妬も連鎖する。
 この三代にわたるひいきの原因、すなわち母に愛されるヤコブ、ヤコブに愛されるラケル、そしてその形見であるヨゼフ、この三人の愛されている所以は何であろうか。これは分かりすぎるくらい当然であって、すなわち彼らは、肌が毛深くなくてすべすべしているとか、目の上にかさぶたがなく愛らしい顔つきをしているとか、挙措も優美ならば喋りも達者であるとか、要するにみな、美しくて文化的に洗練された人々なのである。立居振舞いの高貴さを備えていることは努力の成果ではなく生れつきの天稟の証であって、神が与えたもの、神のひいきの証明と言い換えてよいものである。そして神のひいきした者を人間たちもが、父親や母親や夫や、はては異国の者までもがえこひいきし、愛するのである。
 しかし作者はそのえこひいきを正当なものとして、祝福されたキャラを自らも愛し、読者にもそのひいきに参加を促しているのだろうか? そうではないのだ。作品も中盤というタイミングで、読者をこのように諭す文がある。――「ヨゼフ贔屓は数千年の歴史を持つ偏愛だが、われわれの客観的な描写はこの偏愛をまぬがれる試みなのである。」読者は、立身出世のスーパーヒーロー・ヨゼフへの神のひいき、人々のひいきには同調せず、むしろ俯瞰的に、外部から見ることを要求しているのである。すなわち、ひいきと嫉妬の二元論を、優劣などという尺度を超えた立場から把握したうえで、美しくない上に粗野な兄弟たちにも目を向けてやることを、かれら脇役たちの存在意義をも見出してやることを求められているのである。
 これはそう簡単ではない。神のひいきという絶対的な不平等を、相対的な観点から、しかも自分自身のひいきや嫉妬という私情をまじえずに冷静に眺めることは、いかにして可能であろうか。(続く)

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