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独文独歩 14

 トーマス・マン
 『ヨゼフとその兄弟たち』

 Thomas Mann, 1875-1955
 Joseph und seine Brüder, 1943

 (承前)

 ヨゼフは自分の受けているひいきを、どうとらえているか。それはある事件を契機として変化している。小説の冒頭ではヨゼフは月夜に井戸端で裸になって横たわり、美しい肉体を罪の意識もなく曝け出していた。また、兄弟とけんかになるといつも父に告げ口をして、父をたてに自分を護ろうとした。祝福を利己的に使用して、幸福に自惚れていたのである。
 しかしこの自惚れは、父にもらった母の婚礼の服を着て兄弟の前に見せびらかしに行くという行為においてその頂点に達した瞬間、井戸に突き落とされて否定される。自分の魅力を軽薄にも野放図に発揮すると、危険なものを呼び起こしうる(後のムト=エム=エネトの誘惑とも関係がある)のだということを、兄弟たちに真っ向からの憎悪をぶつけられて初めて知る。
 無条件に愛される者が、他人への思いやりの重要性に気づくのはこの瞬間だ。自分の陰で犠牲になっている、兄弟たち、そして他の祝福されていない者たちへの配慮というものが、しだいに発達してくるのは、この事件を境としてのことである。じっさい、自分がいなくなったら父親の感じやすい魂が傷ついてしまう、ということを井戸の底で心配しはじめるヨゼフは、ルベンの考える通り、すでに利己的から利他的への変化を起こしているのである。

 他人の損害は彼の存在と否応なく結びついていたのである。彼はその知力のかなりの部分をあげて、絶えず自分の陰になってぱっとせぬ連中や踏みつけにされた連中を、自分の存在と宥和させることに用いなければならなかった。

 これはヨゼフがのちにエジプトの宮廷で異国人のくせにとんとん拍子の出世を重ね、ドゥードゥをはじめとするアムン神崇拝の勢力に嫉視されるさまを描いた文章である。犠牲になった人々を宥めることは安全上必要であるし、またそうする義務がある。なぜなら自分が出世できたのは、出世できない人のおかげなのだから。
 別の部分にはこうある。

 きたない家畜はきれいな家畜にむかって、『おれに礼を言うがいい、おれがいないことには、お前は自分がきれいだなんてことは分るまいし、お前をきれいだなんて言う者もいなかろうじゃないか』と言います。また、悪人は正しい者に向って、『おれの足元にひれ伏すがいい、おれがいなかったら、お前のいいところなんてどこにあることになるんだ』と言いますよ。

 ここに美醜や善悪、つまり祝福の有無についての二元論の、ある種の相対化、優劣の排除が明快に語られている。悪があってはじめて善が善たりうるのならば、悪が善より劣っているなんてことがあるだろうか? なんだかセカオワの歌詞みたいに聞こえてくるが、これは注目すべき真理だ。祝福されていない者が劣っているわけではない、彼らには彼らなりの正当な立場がある。
 二元論を上から俯瞰的にながめると、このように「兄弟たち」にもスポットが当たる。作者の要求する、ひいきの外部からの視点とは、まさにこのことである。
 そして、注目すべきことに、あれだけ有力だった長子権の継承、すなわち救いと祝福の継承はヨゼフには与えられず、ヤコブはそれを「兄弟たち」の側、ラケルの子ではなくレアの子、すなわちユダに与えるということである。世俗的に出世して兄弟の上に立ったヨゼフは、宗教的な祝福は拒まれているからだ、とヤコブは言う(「否定する愛情について」)。ここの理屈がまだ僕にはよく分かっていないのだが、それは「祝福されているかいないか」という簡素な二分法がもはや通じないからで、神の愛情と嫉妬についての、作中におけるいくつかの神学的な記述を詳細に検討せねばならない。
 しかし夏休みが終わるので、この考察もここまでにしようと思う。

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