独文独歩 18

 ギュンター・グラス
 『ブリキの太鼓』

 Günter Grass, 1927-
 Die Blechtrommel, 1959

 1.要約

 《第一部》
 三歳児のときに成長を拒否して地下室に落ち、小人となったオスカルは、言葉のかわりにおもちゃのブリキの太鼓をたたいて自己表現をし、その太鼓を取り上げられるとわめき声で周囲のガラスを破壊できる超能力者だった。舞台は第一次世界大戦後の自由都市となったダンツィヒ。仕入れ上手に食料品店を経営する、料理の得意なナチ党の父マツェラート、オスカルに太鼓を買ってあげる芸術好きの母アグネス、その公然の浮気相手であるポーランド郵便局員ヤン・ブロンスキー、この仲の良い三人と、五階建てアパートの奇妙な人々に囲まれてオスカルは育つ。カシューブ人の祖母の大きなスカートの中に入るのが好きだった。近所のパン屋の奥さんグレートヒェンの家で、古今の歴史書を乱読し、またゲーテの『親和力』とラスプーチンの漁色を記した『ラスプーチンと女たち』の二冊を座右の書としてABCと男女関係を学んだ。
 サーカスで会った小人の師匠べブラの言葉に従い、ナチ党の集会の演壇の下で太鼓をたたき、鼓笛隊の演奏をワルツとチャールストンに変えて民衆を踊らせ、集会をぶちこわしにする。また、夜にショーウインドウの商品を物欲しげに眺める人がいると、声でガラスをくりぬいて窃盗させる。ヤン・ブロンスキーにも同じ手で首飾りを与え、それは母に贈られる。だれの仕業か知っている母はそれ以降信心深くなり、土曜日ごとにオスカルを連れて聖心教会へ告解に行くようになる。オスカルは教会の幼子イエス像に自分の太鼓と撥を持たせ、イエスが太鼓をたたくのを待つ。しかし奇蹟は起こらず、ゆえに自分が本当のイエスだと考えるようになった。
 マツェラート、ヤン、アグネスと四人でバルト海に行き、ある男のウナギ漁を目にする。海に沈めておいた馬の首の中からウナギを引っ張り出す作業を見て、妊娠していたアグネスは嘔吐し、マツェラートが作ったウナギ料理も拒否し、その二週間後から狂ったように魚を大量に食べて死ぬ。
 母の死後しばらく敬愛の対象となったのが、同じアパートに住むヘルベルト・トゥルツィンスキーであった。国籍入り乱れる治安の悪い港町で給仕をしていて背中が傷だらけであり、オスカルが傷痕のどれかに触れるとその由来を逐一語ってくれた。ヘルベルトは客を殴り殺した罪悪感で退職した後、二三度オスカルとふたりで盗みもはたらいたが、博物館の守衛の仕事につく。そこには所有者が次々と死んでいく呪われたニオベの船首像があり、ふたりはその女体を審美的に観察したり、エスカレートして乳房を太鼓の撥で叩いたりして侮辱した。やがてヘルベルトはニオベと性交しようとした状態で死んでいるのを発見される。
 同じアパートの飲んだくれラッパ吹きマインの活躍もあって、ユダヤ教会とともに、オスカルがいつも太鼓を買っていた近所のユダヤ人のおもちゃ屋が襲撃され、以降は太鼓が貴重品となる。第二次大戦が間近い一九三八年、オスカルは十五歳になっている。

 《第二部》
 ヤンに連れられてポーランド郵便局内に入り、手紙の山の中で一晩過ごすと、第二次世界大戦が始まっていた。小心者のヤンはかすり傷ですむが、重傷を負った同僚たちを看護する役になる。ヤンとオスカルと瀕死の門番は、安全な部屋でロウソクのもと、トランプ遊びのスカートをする。やがて敵に見つかるが、オスカルはヤンを悪者に仕立てて処刑を逃れ入院し、ヤンは銃殺される。退院したオスカルは奇妙な墓守シュガー・レオにその薬莢を手渡され、ヤンが埋葬されたザスペ墓地に連れて行かれる。
 マツェラートは店番にヘルベルトの妹マリーアを雇う。無理解な父にかわって太鼓を調達してくれ、身の回りの世話もしてくれる彼女は、オスカルの初恋の人となった。手にのせた沸騰散にオスカルが唾を注いで泡立たせ、それを急いでマリーアが舐めるという二人の浜辺での遊びが、共用のベッドにも持ち込まれ、興奮した二人はセックスをする。しかしその数日後オスカルは、マリーアがマツェラートとセックスしているのを目撃し、マリーアとひと喧嘩する。妊娠した責任をとってマツェラートが再婚し、男の子クルトが生まれる。以後オスカルは近所の八百屋で機械仕掛け作りに取り付かれた少年愛者グレッフの、妻である病弱で怠惰なリーナのベッドへと通う。それを黙認していたグレッフはある日地下室で自作のからくり太鼓の機械仕掛けで首つり自殺をした。
 一九四三年からオスカルは師べブラと年齢不詳の美女ラグーナ・ロスヴィータとともに、一年のあいだ前線劇場の興行の旅に出る。ラグーナはオスカルへの恋心を打ち明け、空襲のさなか興行した後に土砂の中で結ばれる。しかし大西洋の監視哨のコンクリートを視察した翌朝、彼らのいたある寒村が敵軍に掃討され、オスカルがコーヒーをとりに行かせたせいでロスヴィータは艦砲射撃で死ぬ。
 故郷に帰るとクルトの三歳の誕生日があり、オスカルは太鼓をプレゼントするが、クルトはその場でオスカルを鞭で打ちまくり、太鼓をおもちゃの船の胴体で叩きこわした。親戚が次々と戦死して、マリーアは信心深くなり、マツェラートと同じプロテスタント教会だけでなく、オスカルのカトリック教会へ二人で行くことになる。オスカルがそこの幼子イエス像に、前と同じように太鼓を持たせると、イエスはオスカルと同じように太鼓をたたいた。オスカルは激怒し、太鼓を取り返してイエスとの絶交を宣言し、自分の弟子を集めることにした。いちゃもんをつけてきた少年不良団にたいしてイエスの名を名乗りそのリーダーとなったのである。寝室から声であちこちのガラスを破壊し、少年たちが盗みに入り悪さの限りをつくす。アジトの地下室に教会から盗んだ調度をかざっていたが、ついに聖心教会のイエス像をもノコギリで切り離させ、オスカルが代わりにそこに座り、夜中の教会でミサを行う。警官が入り全員逮捕されるが、オスカルだけが精神薄弱のかどで無罪放免となる。
 戦争もたけなわ、町中が燃え上がる中で家族と地下室で過ごしていたが、ロシア軍に発見され、寡婦グレッフが輪姦されているあいだ、オスカルは、外していたナチの党員章をマツェラートに手渡す。とっさに彼はそれを口に入れて飲み込むが、針が刺さって大騒ぎしはじめ、兵士たちに一斉射撃されて死んだ。
 戦争が終わり、マツェラートの遺骸を埋葬したとき、オスカルは太鼓を墓穴に捨て、成長を決意する。そして全身がきしみ始め、高熱が続く。食料品店にはファインゴルトというポーランド人が来て、商才をあらわしてきたクルトと協力しながら店の営業を拡大する。マリーアは彼に求婚されるがそれを断り、親戚の家にオスカルともども引き移る。それからもしばらく入院し、二十二歳のオスカルは、身長九四センチだったのが一二一センチになった。

 《第三部》
 マリーアとクルトが闇市をやって生計を立てるようになり、オスカルも退院して石工コルネフのもとで墓石を彫刻する仕事に就く。その給料で身だしなみも一人前になり、看護婦とデートしたり、ダンスホールに通ったりして、最後にはマリーアに結婚を申し込むが、断られる。通貨改革後は転職して美術大学のモデルとなり、巧拙さまざまな学生たちの黒々とした暗い木炭デッサンや、粘土彫刻のためのヌードモデルを果たす。学校のパーティで、監視硝の見張りをしていた伍長ランケスと再会するが、画家になった彼の恋人であるウラもまたヌードモデルになり、オスカルと並んでポーズをとるようになる。ある日オスカルはある画家に、見切りをつけたはずのブリキの太鼓を嫌々ながら持たされて絵に描かれる。
 オスカルは間借り人として独り暮らしをはじめる。隣の部屋にドロテーアという看護婦が住んでいると聞かされ、会ったこともないのに恋い焦がれて手紙を盗み読みして、手紙を送ってくる医者ヴェルナーに嫉妬したり、部屋の衣装戸棚に侵入したりする。そんな折、おなじく同居人の、一日中ベッドでごろごろしているクレップの部屋で、数年ぶりにブリキの太鼓をたたくと、クレップもフルートで合奏し、意気投合した二人はジャズバンドを結成する。ギタリスト探しのため居酒屋をまわり、クレップは活き活きとして結婚までするが、オスカルは夜に帰ってきた看護婦ドロテーアを、廊下に敷いたばかりのココヤシの敷物の上に押し倒してセックスしようとするが勃起せず、あえなく逃げられる。
 バンドが雇われたのは玉ねぎ酒場という、客たちが玉ねぎをむいて刻んで涙を流し、老若男女が悩みを相談し合う場だった。オスカルたちの務めはかれらが興奮しすぎぬように音楽でコントロールすることで、ある時酒場の主人シュムーの陽気な妻が男友達を連れて騒ぎたてたせいで、客たちが乱交騒ぎになったときも、オスカル一人が太鼓で子供のリズムをたたくことで、全員を幼児化させて泣かせ、おしっこをさせ、収拾をつける。
 スズメ狩りが趣味だった酒場の主人シュムーは、スズメの大群に襲われて自動車事故で死に、玉ねぎ酒場も閉店する。画家ランケスと二人で、監視硝を再訪し、かつて射殺した尼僧たちの幽霊(?)と会話し、トーチカの内部で尼僧の一人とランケスがセックスする。それ以降ランケスは尼僧の絵を描いて大出世し、オスカルも音楽事務所のスカウトを受け入れる。事務所のボスは四肢の麻痺した師べブラだった。かれの前でオスカルは、母アグネス、父マツェラートとヤン、恋人ロスヴィータを死に追いやったのは自分だと懺悔する。
 太鼓たたきのオスカルとしての単独興行は大成功で、とくに年配の人々は皆聴きほれて三歳児に返った。レコードの売り上げも含めて大金持ちになったオスカルは、その金でドロテーア看護婦の空き部屋を借り、さらにマリーアのために新しい食料品店の建設費を出資する。
 べブラが死んだ時からショックで演奏旅行をキャンセルし、慰めに「貸し犬屋」でルックスという犬を借り、ライ麦畑を散歩していると、ルックスが指輪をはめた女のちぎれた薬指をくわえてくる。それをポケットにしまったところをリンゴの木の上にいたヴィトラールという男に見つかり、すぐ打ち解けた二人は石工コルネフのところへ行って指の石膏をいくつか作らせ、オリジナルの指は保存瓶に入れ、それを持って再び巡業に出かける。
 オスカルとヴィトラールは、ある都市で真夜中の車庫の市電に忍び込んで勝手に運転していると、ポーランド郵便局防衛のときに逃亡したヴィクトール・ヴェルーンが、それを追う警察とともに乗り込んでくる。警察が拳銃を取り出すと、オスカルは太鼓をたたいてポーランドの騎兵隊の大群を出現させ、ヴィクトールと警察はどこかに連れ去られる。
 自分も有名になりたいというヴィトラールの望みに対して、オスカルは薬指の件で自分を訴えればよいとけしかけ、告訴された彼はパリへ逃亡する。逃亡中オスカルは「黒い料理女」がいたるところに潜むような気がして怖れつづけ、最終的にパリの地下鉄のエスカレーターを登りきったところに警察がいて、逮捕される。オスカルは「私はイエスだ」と叫ぶ。

 ここで小説は終わるが、時系列的には続きがある。薬指は何者かに殺害されたドロテーア看護婦のものであった。オスカルは殺人者の嫌疑をうけて精神病院に入れられ、ときどきマリーア、クレップ、ヴィトラールが見舞いにくるなかで、この小説である手記を書きはじめる。そして手記の最後の部分を書いているころ彼は三十歳の誕生日を迎えたが、殺人の真犯人はヴェルナーに片思いしていた同僚の看護婦だったことが発覚し、かれは無罪放免、退院となり、彼の青年期が終わる。


 2.太鼓はなにを象徴するか

 要約からも分かるとおり、『ブリキの太鼓』はめくるめくエピソードの過積載によって、一本筋の通った読解を拒否しているように見える。それゆえ、オスカルが母に買い与えられ、叩きつぶしては新しいのを買い、両親の死とともに捨て去り、戦後また手に取った太鼓、そのリズムを聞くものに過去の思い出を呼び起こす不思議なブリキの太鼓が、はたして太鼓以上の何かを象徴しているか、という一義性を求める問いは単純に過ぎるかもしれない。しかし敢えて単純化を行うことも理解の一助にはなるだろう。僕の読んだところでは、個々のエピソードにおける様々な太鼓の使われ方はすべて、大きく二つの側面に分類できる。それは芸術的営為としての太鼓と、セックスの代理物としての太鼓の二つである。

 A.芸術的営為としての太鼓 
 
 この小説自体をオスカルは、精神病院のベッドという一定の場所で、太鼓をたたくことで記憶を呼び覚まし、書いている。戦後しばらくお金稼ぎのために使っていた太鼓を、自分の半生を見つめ直すために、自分のためだけに使っているのである。しかし無罪判決によって退院が決定し、芸術的達成と、その後の自己反省を終えた彼は、三十歳の大人として社会復帰しなければならない。彼はそれを非常に嫌がっている。
 オスカルが生まれたときに聞いた二つの声、二つの選択肢は、父の「食料品店」か、母の「ブリキの太鼓」か、であった。ピアノの上手な母が三歳の誕生日に与えたのが、子供のおもちゃであるブリキの太鼓であり、その日にオスカルは成長を拒否して、マツェラートの食料品店を継ぐことをも拒否した。そして、戦前の第二部までは、就業年齢に決して達さない三歳児としておもちゃの太鼓に固執し、自分の小人性と精神薄弱のフリを思う存分活用したが、戦後の第三部からは、太鼓を捨てて墓彫りやモデルの仕事をする。この大転換から明らかに言えるのは、太鼓たたきが、他の一般的な職業との対比において位置づけられているということである。しかし最終的には、オスカルは太鼓たたき自体を仕事にして、ジャズバンドのドラマーから一流スターへ栄転し、芸術家として大成する。子供の遊びに端を発し、大人になってもそれを保持し、しかし遊びのままで終わらない力を秘めたもの、すなわち芸術の営為を、太鼓は表している。それはどのような芸術であるか?
 太鼓は、オスカルの成長拒否の印であり、言葉を喋れないふりをしている彼が社会に反抗するためのメディアである。太鼓を外すことを拒否したせいで小学校に通えなくなるのは小さな例である。映画でも印象的な名場面、ナチスの集会に潜り込んで鼓笛隊の音楽を太鼓で混乱させ、「美しく青きドナウ」に変えてしまうシーンからも分かるように、太鼓は本質的に反社会的である――より適切には、「脱」社会的である。オスカル本人が言っているように、ナチスを混乱させるのも、政治的レジスタンスではなく、鼓笛隊の音楽が美しくなかったからであり、社会に敵対するのが真の目的ではない。
 太鼓はリズムを刻むものであるが、オスカルの特技はそれにとどまらず、リズムによって聴衆に視覚的・聴覚的イリュージョンを生じさせることである。かれは自分の見た、あるいは思い描いた場面を、太鼓で模倣して再現することができる。これは言語芸術、音楽芸術、絵画芸術のそれぞれの側面を太鼓があわせ持っているということである。子どものころは祖母のスカートの下で十月の雨の音をたたき、母アグネスの出生の原因となった日のことを祖母に思い出させたりした。玉ねぎ酒場でも黒い料理女のイメージを出現させて玉ねぎなしで客を泣かせたし、戦後の舞台での単独演奏も、オスカル自身の戦前戦中の体験を太鼓たたきによって蘇らせることで、観客の老人たちを三歳児に返らせ、怖がらせたり喜ばせたりして、金を稼いだのであった。戦時の世の中を苦労して成長していく他の人々の体験を、三歳児という静止した完璧な立場からオスカルは傍観してきた。観察者であることが、表現者としての彼を形作ったといえる。
 最後の段階において太鼓たたきは、子供のころの拒否性、脱社会性という特徴を失い、経験を伝達し、感動を引き起こす有益な仕事として、そして金を生む仕事として社会適応的なものになっている。このような変化が起きるためには、一度はそれを墓に捨て、成長し、職を転々としたあとで、さいしょは嫌々ながら画家のモデルとして太鼓をふたたび持たされ、やがてまた自発的にクレップの部屋で叩きはじめる、という紆余曲折が必要であった。その周り道のあいだ、まっとうな社会人になろうとして、一家の稼ぎ頭になり、身なりを整え、マリーアに求婚するにまで至ったのである。しかし小人は小人であってその試みは挫折し、かれがふたたび芸術の道に戻ることを決意するとき、ようやく太鼓たたきは栄光の道を歩み始める。
 しかしその栄光は、小説の最後にオスカルは自ら放棄する。彼自身がそう仕向けたのであって、その原因は女のくすり指、かつて彼が襲おうとしたが勃起せずに未遂に終わったドロテーアのくすり指を所持していたことであるのだから、ここにおいて太鼓の第二の側面、性器と性交の代理物が関係してくることは明らかである。

 B.性器と性交の代理物としての太鼓

 太鼓の撥は、オスカルの性器の代理物であり、太鼓をたたくことは、セックスの代償行為である。この一見いささか乱暴な当てはめには、有力な根拠が数多くある。
 オスカルにとって「硬質で、感じやすく、混乱させるもの」の集まりとして、自分と母とをつないでいたへその緒、自分と幼子イエスのおちんちん、彼が抱いてきた女のアソコ、ヘルベルトの背中にあった指の長さほどの多数の傷跡、ヤンを殺した薬莢、太鼓の撥、これらがすべて結びついている。そしてドロテーアのくすり指が、自分の所有物だと主張するのも、かれの半生におけるこれらすべての経験が、くすり指を約束していたのだという理屈によるのである。子供のころかかりつけの看護婦インゲの白衣に興奮すると、彼は太鼓をたたきたくなったのだし、海でマリーアの裸の恥毛を見たときオスカルは勃起して、太鼓と撥のことを忘れて彼女にとびつく。呪われた船首像ニオベに対しては、オスカルはヘルベルトのように性交を試みるかわりに、乳房を撥でチャカポコ叩いたのである。オスカル自身が語っている通り、太鼓たたきは身体的な直接性を欠いており、相手との一定の距離を保って行われるものであり、ただその点においてのみ単なるセックスと異なる。
 太鼓がそもそも母のプレゼントであるということからは、おなじみのエディプス・コンプレックスがうかがえる。オスカルは何歳になっても看護婦とその制服に異常な執着を示すのだが、序盤で母はかつて看護婦であったという記述がさりげなく含まれている。母の葬送のときには、彼は母の棺の上に乗って、太鼓ではなく棺の蓋を撥で叩きたいと願ったが、させてもらえなかった。
 これらのことをAで述べた芸術としての太鼓の側面と重ね合わせて、この長編小説のあらすじを単純に言えば、こうなるだろう。オスカルは普通のセックスの代わりに太鼓たたきを選んで、それを高いレベルの商業芸術へと完成させたが、最後にはくすり指という、やはり性器のようなものを瓶に入れて飾り、芸術的達成を放棄する。芸術とはセックスの変容であり、両者は近接していながらも両立しない。オスカルが実際は何人かの女と関係を持ったとはいえ、どれも結局はうまく行かなかったのは、それだけ彼が芸術的活動を宿命づけられている証である。そしてくすり指への固執は、彼が結局はセックスを捨てきれなかったことの証である。
 この考え方、つまり芸術と性とが近いものであるという考え方がある程度有効であることは、たとえば母アグネスの問題を考えるとよく分かる。彼女はもちろん、単なる音楽的なおもちゃとして、情操教育の一環として、そして音楽芸術への理解があったがゆえに太鼓を買い与えたのだろう。まさかそれがオスカルの成長拒否、不具化へと結びつくとは彼女は思っていなかった。オスカルの成長が止まったのを、母はマツェラートが地下室の上げ蓋を閉め忘れたせいだと言って、夫を事あるごとに詰る。母自身が太鼓を与えたからこそオスカルは成長拒否を実行したのだから、これは責任転嫁であり、それを本人も気づいていながら、自分が息子を不具にしたという罪悪感を抑圧しているのである。そしてこの事件によって夫との仲がぎくしゃくしたことが、ヤンとの不倫を白熱させ、抜け出せないものにし、最終的にはその罪悪感が、ウナギと馬の首という原因で自殺するところにまでつながっている。オスカルの方も、母を太鼓で叩いて死に追いやったのは自分であるという罪の意識にさいなまれているが、見方を変えれば、母アグネスは、自らの芸術的なプレゼントによって自滅したのである。そしてその芸術性は再び、不倫という性的な事柄と結びついている。
 

 3.おわりに

 この小説の筋を、第二次大戦と、とりわけナチズムとの深い関連において考えるのは、おそらく最初に思いつきやすい考えであろうが、汲めども尽きない豊かさをもった作品は、たんなる戦争文学にしておくには勿体なく、他の読み方でも読まれる価値がある。そのうち一つの視点を提示できていれば、僕の試みは成功したことになる。
 河出書房新社の池内紀訳を読み、原書をまれに参照した。
 映画は第二部までの映像化だが、おすすめである。