独文独歩 19

 アドルノ
 『文学ノート』

 Theodor W. Adorno, 1903-1969
 Noten zur Literatur, 1961

 異国の言葉
 Wörter aus der Fremde

 外来語を使うことを、言語ナショナリズムの観点から、もしくは学者的ディレッタントが鼻につくという理由から批判する傾向がドイツにはあるが、これは僻みである。かれらは自らの怠慢のゆえに、外来語を使うことで達成された複雑な思考の産物を、単に小難しいと考えて理解を拒んでいるのであり、手に届かないブドウをすっぱいと言っているだけである。外来語に惹かれることは一種の族外婚の誘惑であり、エキゾチックな女の子への憧れであり、そのような動機から自民族の決まりきった言語表現を抜け出そうと試みる者が、民族共同体から憎まれるのは必然である。しかし禁止が強いほど愛は燃え上がるのだ。フランスやイギリスと異なり、民衆語とラテン的教養が切り離されて、外来語が同化しないまま際立っているというドイツの特異性は、受難でもあるが創造性でもありえる。自国語と外来語の対立の層にあってはじめて、外来語を実り豊かにし危険にもする緊張が生まれる。
 ふだん使っている単語は、あまりに多くの連想を引きずっているため、表現の意志に従わず、逃れていってしまう。誰にでもわかる言葉は、その普遍性ゆえに、著作家の個性的な考えを画一的で没趣味な表現に埋没させるという欠点があり、その結果、真理をも覆い隠す。というのも標準語は、事柄と概念が、言いたかったことと言われたことが常に同じであるという幻想に加担しており、存在とそれを表す言葉が乖離しているという近代的危機に無自覚であるからだ。実際はどんなに古い起源をもつ自国の言語でさえも自然発生的、即自的、絶対的なものではありえず、それは恣意的な名づけ、符牒にすぎないのである。
 外来語はみずからの異質性によって、そのような言語の恣意性、概念の被媒介性を暴露する。外来語のぎごちなさ、突出性、硬くて輪郭がはっきりしているという特質は、上手く用いれば、表現の明確化に寄与しうる。そして、自らが不自然であることを通じて、言語一般がそもそも不自然であるという覆い隠された真実を暴きだす。異化効果によって、分かりにくさによって、読者に入り組んだ思考を要求し、読者を啓蒙する働きをもつのである。その最たるものが、ラテン語の伝統に基づく哲学の術語であり、それらは直接的なことは決して直接的に言えず、あらゆる省察と媒介を通してしか言えないという認識に基づいている。(ハイデガーらの用いるドイツ語由来の造語はこれと異なり、概念の本源性をむりやり主張している点で嘘つきである。)
 ところが、この啓蒙的な分かりにくさ、専門用語性という美点こそが、一方で外来語を空疎にする原因でもある。ブドウを手にしている特権意識に自惚れてむやみやたらに外来語を濫発するとき、それは空虚で無力な様相を呈し、その知識に与れない者を締め出す排他的な傾向をもつようになる。教養という概念がリベラルな社会とともにその実質を失った現代においては、外来語の高級性も自明のものではありえない以上、自国語と外来語を慎重に比較衡量したうえで、その都度の文脈においてどちらがより妥当するかを判断するという、書き手の主体的な推敲の過程があってこそ、外来語は先に述べたような威力を発揮するのである。
 ここで問題になっているのは外来語だけではなく、言語一般に対する人文学者と一般人の態度の対立である。一般人の日常会話をただひとつの規範として、対他的な理解だけを考慮し、分かりにくい表現をすべて排除しようというのならば、外来語だけでなく自国語のややこしい単語も全て辞書から抹消し、内容はともかく理解されることだけが目標になり、理解されるべき真理の価値が二義的なものになる。これは全く本末転倒な退行であろう。人文学者にとって、言語とは分かりやすく伝達するためだけの手段ではない。外界の現実と切り離された語彙の組み合わせによって、分かりにくい真理を分かりにくい形のままに再現し、それによって受け手に真理への参加を促すものである。そこには理解してほしいという融和性と、簡単に理解されてたまるかという孤立性とが共存している。
 真のコミュニケーションはディスコミュニケーションの意識なしには成立しない。しかし、伝達の不可能性に固執して言語が社会的なものであることを完全に無視し、汚れなき言語だけを自分だけの裁量で扱おうとする孤立は、汚れなさのゆえにかえって無意味になり、結局は多数者による排除を免れえない。人文学の表現者は常に、分かりやすさと分かりにくさの、社会性と個別性の、同一性と多様性のバランスを取りつづける必要がある。