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独文独歩 21

 ベンヤミン
 ゲーテの『親和力』

 Walter Benjamin, 1892-1940
 Goethes Wahlverwandtschaften, 1922

 オティーリエの死

 オティーリエは自殺の理由を言葉にしない。大好きなエドアルドの近くに居ながら結ばれない悲しみ、エドアルドとシャルロッテとの子を池に落としてしまった罪悪感、そういう思いは、あれだけ頻繁にオティーリエの日記が挿入されているのに、本人の告白として語られることがない。そして言葉に表されない行動とは、道徳的な決断ではなく、ある衝動であり、運命に従順であること、悪く言えば成り行き任せであり、絶食による自殺は彼女自身にもほとんど意識されないうちに行われたのだ(もともと彼女は小食だった)。いかなる選択も決断もしない、これが彼女の役目にとってじつは重要である。
 ベンヤミンはおそらく、作中人物の生き方を三種類に分類している。この小説は、タイトルにWahlという語が含まれているように、まずは何よりも、エドアルド、シャルロッテ、大尉たちの「選択」の物語である。それは社会の束縛から逃れようとする選択であり、まず第一にかれらは両親や故郷を放棄して、行動の自由が保障された隠居生活をしている。外から規定されたあり方を否定して、逃げてきたのであり、そういう人が結婚制度からも逃れようとしていくのも、さもありなんという感じだ。しかし、反抗は従属のあかしであり、アンチテーゼはいつだって元のテーゼからは逃れきれない。選択は、決断とは違って、運命(成り行き)を超越するほどに主体的になりきることができない。運命からみればすべての選択は盲目であり、自分で行動しているつもりでも、実は逆に運命の手中に陥っている。
 たとえばエドアルドの行動にそれは顕著だ。エドアルドのフルートとオティーリエのピアノの、調子はずれで不器用な合奏。本の読み聞かせのときにページを後ろから覗きこむのを、シャルロッテには断っておいてオティーリエには許すこと。彼女と精神的に分かり合っていると言いながら、かれらの会話といえばエドアルドがほぼ一方的に喋っているだけであり、共通の苦しみといって喜ぶものはただの偏頭痛。これらはすべて、高い教養と文化の皮をかぶってはいるが、自然への屈服の証拠なのである。人間性と自然性が結びつくためには、人間は人間らしく、超自然的でなければならず、さもないと彼のように自然の力のなすがままになるのだ。
 それと対になっているのが、後半に挿入された短編「不思議な子供たち」のなかの男女である。子供のころは喧嘩ばかりしていた男の子と成長してから再会したとき、女の子の憎しみは裏返って愛情となり、絶望して池に飛び込む。すると男の子も飛び込んで、水の中で女の子を助け、対岸に引き揚げ、濡れた服の代わりになぜか婚礼の衣装を着ることになり、二人の愛は成就する。あまりの急展開に後からやってきた家族たちはびっくりしてしまうし、読者も同じだろう。かれらの物語は、「決断」の物語である。両親の束縛から逃げたのではなく、束縛されながらも、その力を超えた愛の力によって、運命を克服しているのである。
 本編のなかの湖沼が、見せかけの美しさとは裏腹に、赤子を呑みこむ、静かな深淵、地上の庭づくりと並行してひそかに増大する地下の力であるのに対して、短編中においての池は、男の子のとっさの決断と力強い泳ぎによって克服される。本編の昼ドラ展開は、見せかけの秩序によって体裁を保って続けられるが、短編ではすべてが激しく、破壊的で、それゆえにこそ真の和解が成立している。ベンヤミンによれば、ここに情熱Leidenschaftの泥沼と、愛情Neigungの救済との違いがあるのだという。
 そして、三つ目の生き方は何か? それはオティーリエの受動性である。これは生き方のタイプというよりも、ひとつの仮象的な美の象徴であり、「選択」する者たちの罪――ここでは、婚姻を破るという罪――を償うための犠牲である。
 純潔な美しさとは常に二義的である。神聖さゆえにかえって欲望はかき立てられる。無垢の象徴である百合の花は、真っ白であるが、うっとりするような甘さで誘惑する。池の表面はきれいに輝くが、池に魅入られた者は最も深い闇へと導かれていく。そのような危うさをもったオティーリエはしかし、男を手玉に取るいわゆる魔性の女ではなく、家事手伝いにばかり励む、エゴのかけらもない少女である。それでもなお、彼女の美しさ、清純、無知それ自体が、エドアルドのようなだらしのない男の罪を誘発する力、正しい婚姻の子が池の底へと呑みこまれるように、秩序を崩壊させる闇の自然力なのである。
 そのようなものとして自らを認識したオティーリエは、餓死という完全な受身の自殺によって、つまり、最期まで何も選択しないことによって、全ての選択する者の罪を背負って死ぬことができる。内省的で非行動的な美少女が、男に愛を向けられながらも、純潔を守って死んでいく――僕にはいささか少女趣味で胡散臭く見えてくるプロットだが、このオティーリエの死は、英雄的で崇高な決断をし得ぬままに、成り行きのなかで選択を繰り返す人々の罪が赦されてあるための、ひとつの神話であるのだ。そうベンヤミンは言っている。

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