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独文独歩 22

 ハンナ・アーレント
 『人間の条件』

 Hannah Arendt, 1906-1975
 The Human Condition, 1958

 「形に残す」こと

 知的労働者が自分の思考をはっきり示したいと思うときには、必ず肉体労働者とまったく同じように手を用い、手に技能を与えなければならない。いいかえると、考えることと仕事をすることとは、けっして同時的には起きることのない、二つの異なった活動なのである。

 英雄の業績や、偉大な言論や、深い思索は、文字に移し替えられることで形を与えられ、後世まで残ることができる。しかしその際には、ひとりの人間の生き生きとした精神は、死んだ文字に固定されることを忍ばなければならない。形のない精神が、肉体を与えられて世界にとどまろうとするときには、かならず代償が支払われる。思考を伝えるためには、思考を中止するはめになるのだ。あらゆる著述者は、ソクラテスとプラトンを一人二役でこなしているのである。
 触知できない非世界的な精神こそが本来的なものであり、「形に残す」ことはある意味で堕落である、という考え方は、きわめてイデア論的であり、反論を生みやすい。仕事をする作家よりも、夢想家のニートの方が理想的だというのか? 形に残らないものは存在しないのと同じではないか? まして、より多く働き、より多くモノを生んだものが偉いという生産力への信仰告白がまかり通る世の中では、労働や仕事の価値を第二義的だとするような意見は、一笑に付されるのが落ちであろう。
 しかし、ただ生きるために労働し、ただ物を生産するために仕事をするとき、人間性はどこへ行くのだろうか。労働や生産力を賛美する人は、生産したものを使って一体何をなすべきかについての洞察を持たない。たいていの人は、自分の苦痛を減らして快楽を増やすこと、できれば他人にもそうしてやることが人生の最大にして最終の目的だと思い込んでいるが、苦痛のない快楽は長続きせずすぐに退屈に変わり、さらなる刺激を求めていたずらに物を消費し、放っておけば地球が干からびるまで、より高い目的、崇高な精神への憧れなど知ることがない。崇高な精神、すなわち言論と思考の活動、言葉を発する人間、行為する人間、考える人となることである。
 労働は人に任せてあぐらをかき、仕事もしないで他人が作った世界の物を使用することもできるが、言論と思考なしには、人間は人間たりえない。多数の人間が互いに関わり合うこと、ある人の行為が別の人の行為を生み、無数の意志が交差しせめぎ合う「網の目」そのものが、作者のいない物語=歴史であり、市場生産物の相対的な値段とは比較しえない、真の価値なのである。労働による生命維持も、生産による世界の樹立も、言論活動がその上に立って行われる基盤作りにすぎない。
 ある行為は、行為者が何者であるかを「暴露する」。言論活動においてはじめて人間自身が出現するのであって、役に立つものを作ったり、三大欲求を満たしやすくなったときなどでは決してない。人間の偉大さは、有用性とか快適さの中ではなく、ただ行為にのみ、演技の過程のなかにのみ存在する。それは「網の目」に参入して無限に作用し、したがって不滅であるが、結果や最終生産物はあとに残らないのであって、記録を残そうという試みは、最初に引用した通り、すでに行為そのものとは別の営みなのである。人は物語の生産者ではなく、誰が作るのでもない物語の中の登場人物であり、活動者にして受難者である。キャラクターたちは自分の行動が巡り巡って何を招くかについて予測もできぬまま、闇雲になされる行為の数々を積み重ね、それが神の見えざる手、世界精神によって、知らず知らずのうちに物語として生成していくのを目の当たりにし、それが自分の死後も語られ続ける物語、人類が滅びるまで人類に意味を与え続ける物語であることを知る。
 言論活動こそが、人間を出現させ、人間を永遠たらしめるものである――この確信は、しかしけっして自明の事柄ではない。生命の危険と苦痛をゼロにすることが大事だと考えたり、人間自身よりも人間の生産物のほうが長続きすると考えたりする人は、言論活動などは怠け者の下らぬおしゃべりであって、腹の足しにもならないし、有益なものを何一つ生まない、というふうに非難するのである。
 それでもよかろう。たしかに純粋な活動は、物に固定されず流動的で不確かだ。だから不安に駆られて人はいそいそと文章などというものを書くのである。しかし、生産物こそが本質と信じこみ、形なきものへの愛を失ったときには、形あるものさえその魂を失ってしまうだろう。形なきもの、形に残らないものとは何か。それは精神である。それは無ではなく、無限である。

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