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独文独歩 27

 マルクス/エンゲルス
 『ドイツ・イデオロギー』

 Karl Heinrich Marx, 1818-1883 / Friedrich Engels, 1820-1895
 Die deutsche Ideologie, 1846

 かつてある健気な男がいて、人が水に溺れるのは人が重力の思想にとりつかれているせいだと思い込んだ。この表象を、例えば、それは迷信的な表象だ、宗教的な表象だと言明するといったやり方で人の頭から叩き出せば、あらゆる水難は免れるのだそうな。

 物質的な困窮のなかで、精神的な救済の思想は生まれるものだ。しかしマルクスたちは、労働者の物質的な苦しみは、物質的に解決しなければならないとして、それ以外のあらゆる形而上的な解決を、世界を革命すると息巻きながら現実には無力な、机上の空論である、として一刀両断する。
 マルクスたちの批判するのは、ヨーロッパに長らく支配的であった、「純粋な精神」や「純粋な自然」という抽象物に基づく思弁のすべてである。物質と精神、自然と歴史、感性と理性などを明確な、互いに入り混じることのない二項であるかのように分けて議論すること自体が、そもそもの間違いであるというのだ。
 純粋な自然――つまり、「永遠の昔から直接無媒介に存在している常に自己同一的な事物」として見られた自然、まったく社会的構築の入り込まない感性的世界のことである。しかし果たして、そんなものがあるのだろうか? あらゆる自然はそもそも歴史的で、産業と社会状態の産物であり、人間の活動の成果であるのではないか? マルクスが批判するところのフォイエルバッハは、人間を感性的対象として、すなわち自然性・物質性に着目して考えた点は正しいが、それと社会的構築性との絡み合いを完全に捨象したせいで、生き生きした相対的な感性的活動としては把握できていない。つまりは非歴史的な唯物論に留まっており、それゆえ歴史を考慮する際には、彼は観念論に逆戻りしている。飢えた人々を見て、かれらにパンを与えるための社会改革の必要性を感じるべきまさにその瞬間に、彼は唯物論者をやめてしまうのだ、という。
 純粋な精神というものも同様にまやかしである。「精神はそもそもの初めから物質に取りつかれているという呪いを負っている。」つまり運動する空気としての言語である。「言語と意識とは同い年である。しかもこの言語は、他人との交通の必要からはじめて生れる、一つの社会的な生産物である。意識とは、意識された本能にすぎない。」同様に、高尚にみえるあらゆる理念・表象・意識は、すべて物質的かかわり、現実的生活の直接的な流出として現れる。つまり下から上へと形作られる。しかしそうやって作られたイデオロギーはみずからの出自を隠し、天から地へと天下り式に、現実を解釈して自分の枠組みへとあてはめる。このように、物質と精神の上下関係が、暗箱の中のように逆立ちして現れるのが、ドイツ哲学の悪弊なのである。
 「歴史」がまさにそうだ。多くの歴史的事件の実在的土台は、たいてい物質の欠乏などに根ざしているのに、それを後から思弁的に歪曲して、このかつての事件は「世界精神」の働きによって現在の歴史が導かれるための手段だったのだと、後付けの因果関係をつくりはじめる。つまりは歴史がそれ自身の目的をもって登場人物となりあがり、すべての世界史は、そこで働き、飢え、死んでいった人民たちなど完全無視の、形而上的幽霊の抽象的な事績ということになるのだ。

 歴史はいつもその外部にある基準に則って書かれざるをえず、現実的な生の生産は非歴史的なものとして、他方、歴史的なものは普段の生活から乖離した超・脱世俗的なものとして、現われる。人間の対自然関係は、こうして歴史から締め出され、その結果、自然と歴史との対立なるものが創出される。

 では、このような実体のない二項対立は、なぜ生まれたのだろうか。実はこの思考形式にさえ具体的な起源があるということは、原始社会の発展を考えてみればわかる。すなわち、人口が増大した結果として分業が、物質労働と精神労働の分業が発生し、つまり食い物を生産することなく意識を働かせる祭司階級という名のイデオローグの原初形態が生じたときに、物質と精神との見せかけの対立と、所有被所有の関係が始まったのである。仕事をしないで浮世離れした意識が、「純粋な」理論とやらをこねくり回しはじめ、現存の物と矛盾をきたしてもなお自らの優位を主張してやまないのだ。
 祭司階級イコール支配階級といって構わないならば、こうしてわれわれは、われわれ自身がそれと知らぬ間に生みだした支配階級の強制力が、それ独自の意思を持ち始めて諸個人を支配するようになるという皮肉を、外化の帰結としての自己疎外を、恩を仇で返されている有り様を、すなわち少数者による圧制を、経験するはめになったのだ。
 精神的な二項対立による疎外状況が、物質的な分業に根ざしているのだから、前者を廃絶するためには後者を廃絶せねばならない。ここにおいて、分業すなわちあらゆる階級制度を否定する共産主義革命の考えが、産声を上げるというわけである。しかるにその革命は、実は資本主義の産物である世界的な交通網と、大工業都市が創出されていて初めて可能になるのだ。なぜならプロレタリアートの団結はけして局地的であってはならず、資本主義のおかげで出来上がったシステムを巧妙に利用して、大規模に団結することが必要だからだ。

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