独文独歩 29

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927

 序論

 存在について考えることはなおざりにされている。デカルトはcogito(われ思う)の絶対的確実知を得たことに自信を持ち、存在者の存在意味への問いは免除されたと思い込んだ。すなわちsum(われあり)の方は無規定に放置したのである。以降の哲学は、現存在の独自のあり方を無視して、存在を自明・所与のものとした上でその存在者の本質を規定しようとばかりしてきたのである。
 存在は「もっとも普遍的」であり、いかなる存在者をも超え、あらゆる類的な普遍性を踏み越える、超越的な真理である。類的な普遍性ならば他の種との違いによって定義されるが、種差のないこのような普遍性は、定義されることができない。もっとも普遍的なものは、自明なものではなく、むしろもっとも暗いものである。すでに開示されているが、つねに徹底的に誤解されているものである。存在的には身近であるが、存在論的にはもっとも遠いものである。それはすべての存在者にかかわるひとつのアプリオリにひそむ謎であり、だからこそ問わねばならない。
 「存在」を存在者として把握することは間違いである。存在はその派生である下位の概念によっては叙述できないからである。また、それよりも上位の概念から定義的に導き出すこともできない。
 存在とは何か、という問いを立てる。問うことは求めることだから、求められているものの側からあらかじめ先導されている。つまり、存在とは何かについての了解は、すでにぼやけた形で手の届くところにあり、とらえられないが未知ではない。これは証明すべきものを前提に据えてしまう循環論法とは違って、答えの予感であり、「見越し」である。
 存在について問うている私たちも存在者である。存在について問うこと自体が、存在者の存在様態である。おのれの存在においてその存在をなんらかの度合・形で理解しようとする存在がわれわれ人間、現存在(Dasein)であり、この現存在は実存によって規定されている点で、ほかの存在者から殊別されている。
 すべての科学研究は、存在でなくて存在者を研究しているのであり、それはある勝手に決めた存在了解の中で動いている。しかし、その研究の本当の進歩は、それによって得られる実証的研究成果の寄せ集めではなく、その蓄積される知識の増加から反作用的に押し出されてくる、根本への問いのなかにある。生物学ならば「生命体とは何か」、物理学なら「物質とは何か」、という哲学的な根本課題に常に立ち返り、目先の些末な研究結果に埋没しない姿勢が求められるのである。パラダイムの危機を何回経験したかが、一学問の水準を決定する。
 現存在へ近づき、これを解釈するときには、有り合わせの理念やカテゴリーを当てがってはならない。むしろ、この存在者がおのずからにそれ自身の側からおのれを示してくることができるような様式を選ばなくてはならない。
 現存在は時間性・歴史性にもとづくのであって、非時間的な「数」・無時間的な「命題」によって測りつくすことはできない。時間性こそ存在了解の超越的な地平である。

 解釈学的現象学

 現象学(Phänomenologie)
 Logosは「話」である。「話」は、話されているテーマを、話している者・話し合っている者たち自身に向かって、見えるようにする。話を見えるようにするのは、話題になっているもの自体が近づいてくるからである。
 現象(Phänomenon)は、存在者自身を可視化する。それに対して、自分自身ではなくその「裏」に原因がある場合は、それは現象ではなく仮象(Schein, Erscheinung)とよばれる。仮象は自分自身を示すのではなく、裏の原因を指示・連絡するものである。しかし存在はすべて現象するものであり、裏の原因は決して存在しない。
 解釈学(Hermeneutik)は、①もともとは聖書の文献学であるが、②シュライエルマッハーやディルタイにおいて、文章を生命の表現としてとらえ解釈する、精神科学の方法論を表す用語となった。
 まとめると、解釈学的現象学とは、日常の「現象」それ自体を、存在の本質を表す重要なものとして、それについて注意深く「話す」ことにより、存在を解釈しようとする方法である。

 主/客の概念の否定

 現存在は、実存的に、おのれの可能性を存在しているのであり、たんなる客体的存在ではない。同様に、現存在を世界=内=存在と言い表すとき、それは客体的な人体が、客体的な宇宙空間の中にあるなどという話ではない。これは単なるカテゴライズ・類的普遍性である。そうではなくて、世界=内=存在とは、そのような空間性を可能にするそもそものひとつの「実存範疇」、現存在のひとつの性格なのである。
 人間が世界に滞在する・なじんでいる(bei)のは、机が壁のそばにある(bei)有り様とは全く違う。机と壁は「触れる」ことはできない。この二つは客体的存在であり、世界=内=存在ではない、すなわち無世界的である。世界をもたない両者が空間の中で「出会う」ことは有り得ない。
 人間の世界認識は、すでに滞在しなじんでいる、すでに出会って発見されている世界へ、改めて態勢をとることなのであり、従ってよく誤解されるように、普段は内側の圏に閉じこもっている「主観」が、何かを志向するときだけはじめて外に出て行き、それとは別種の外的圏に達する、というような機械的な二項対立は成立しない。