独文独歩 30

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927 
 
 (承前)

 用具的存在様相

 何かをするためにある道具は、壊れたり失われたりしてその用具性が阻まれたときになってはじめて、その「何かをするため」という指示関係が表立ってくる。ふだん当たり前に使用しているうちは、道具自体は主題的にならない。すなわち道具は、日常的に開示されているがゆえに、目的と手段の指示関係のなかに非主題的に配視的にとけこんでいる。しかし道具が壊れて役立たずになると、その単純な客体性がきざしてきて、「もはやただ存在するだけ」の厄介物として非世界化される。
 中でも特別な道具が、「記号」である。世界のある事象に名前を付けるとき、それは単なる事物との一対一関係を作ることなのではない。たとえばある風に「南風」という名を付けるのは、単に南からの風をそう呼ぶこと自体が目的なのではなく、「雨の前触れを示すもの」として印づけ目立たせることで、お天気対策の役に立つことが目的なのだ。太陽の場所に、いちいち日の出とか昼とか日没とかいう名前をつけて分節するのは、ひとえにその光と熱が人間の利害に関係するがゆえである。記号が設定されてはじめてものごとは発見され、ひとまとまりの道具立て全体として配視に浮かび上がり、用具的存在者として世界に適合していることが示される。
 何かの役に立つということは、ものの属性ではなく、適性にすぎない。それなのに存在者の存在は、世界の中で役に立つか、用具的な指示連関に溶け込んでいるかどうかという点に規定されている。このような価値付けの有り様は、あくまでデカルト的な物質性・客体性よりも前にすでに存在するのであって、客観的な物質を基礎にしてあとから価値付けの層が築かれていくのでは決してない。世界が空間の中にあるのではなく、空間性が世界の世界性にもとづくのである。人は幾何学的な空間というものに先行的に出会うことはできない。まずは身の回りの世界の用具的なあり方に出会うのであり、そのあとでようやく、配視から解放され、環境世界を非世界化することによって、初めて同質的な自然空間というものが抽象化できるのである。
 デカルトは存在者から出発したから、世界という現象が眼に入らず、それどころか感性的な現れを完全スルーして、認識によってのみ存在者に近づきうるとした。物の堅さは触らなければわからない、物の色は眼を閉じているときには存在しない。従ってそれらは物の本性ではない。そうやって切り詰めていった結果、すべての存在者の本性は、「長さと幅と奥行きをもった空間内の延長物」ということになる。こういう存在論において数学と物理が最重要視されるのは当然であろう。

 開離

 現存在が存在者に出会うときには、開離(Entfernung)を行う。開離とは、物に対して、空間的距離とはしばしば矛盾するようなある一定の心理的距離の遠さ・近さを設定することである。たとえば、距離的には短いけれども難儀な道のりは、心理的には遠い「気がする」、すなわち遠くに開離されている。見つめている遠くの壁よりも、そのとき意識にのぼっていない自分のメガネのレンズのほうが、遠くに開離されている。二十歩先にいる知人より、足元の地面のほうが遠くに開離されているから、足元の石につまずいて転ぶのである。しかしこれらは単なる主観的恣意として一蹴できるような余計物ではないのだ。このような心理的距離こそが本当の現前であり、これこそが存在者の発見の仕方なのである。