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独文独歩 31

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927 
 
 (承前)

 主客の否定

 現存在は、客体性ではない――どんなにこのことを熱弁して、人格の対象化・意識の事物化・心の実態視を排撃してもなお、われわれの思考は、人格や意識や心を、ある所与のひとまとまりのものとして実態視してしまいがちである。しかし、だからといって今までの哲学のように、自我を所与のものとして前提するのを理にかなった健全な方法論だと思い込むのは間違っている。なぜなら自我や主観よりも先に世界があり、世界なしには主観は存在しないからである。

 共同性

 他の人びとdie Anderenというのは「自我以外」ではなく、むしろ「自分と区別しないでいる人びと」のことである。われわれは自分の主観と他人の主観とが区別されていて、そのあとではじめて出会う、というふうに人と出会うのではない。どんな他人にもすでに「無関心・疎遠という形で」出会っている。他人は、共同存在の欠如的様態という形で存在しているのである。
 この他人が集まったところに世間das Manがある。世間とは、主体が何人集まったものとかいう頭数的・加算的な合成ではなく、特定の他人に還元することができない、それどころか自分もそこに加わっているのであって「自分vs世間」という図式すらも成立しない、目立たず、つきとめにくい存在でありながら、むしろそれ故に独裁力をもち、日常性のあり方に司令を与えつづけるものであり、現存在そのものを構成する要素の一つである。
 世間の作用は「他人との差を気にする」こと、「均等化」を招くことである。世間で公開されているものは、深く理解されなくとも、それが公開的であるというだけで周知のものであると公称され、結果的にはすべての現象を曇らせる。そうして高尚なものもすぐ自らの常識の範囲に押し込めるのが世間というもののやり口である。このような世間の言いなりになる現存在は、世間の中に溶け込み散逸してしまい、存在の意味も世間から与えられているような、非本来的な自己であるが、しかしこのように「私が私でなくなる」自己喪失の状態というのも、自我のひとつの存在様態なのである。そして多くの人々は、この非本来的な世間的自己のままでいる。

 心境・気分
 
 現存在Daseinは、«そこ»にいる存在、であり、空間性をすでに開示しているという本質をもっている。これを、現存在はおのれの開示態Erschlossenheitを存在する、と言い表す。それを構成する実存範疇は「心境」と「了解」である。
 心境や気分とよばれるものが、存在を現Daの中につれこみ、現を開示すると同時に包みかくす。その心境とは、被投性Geworfenheitの心境である。自分がどこから来たか、どこへ行くのか、由来についても帰趨についても不明なままであるのに、とにかくこの世界にあるし、ないわけにはいかない、という事実性Faktizitätだけが、客体的事実ではなく、知覚や自己発見でもなく、ただ気分としてのみ露骨に感じられるのである。被投性の心境においては、自分の存在目的への信仰や、自分の由来についての知識は、もはや役に立たず、今ここに存在することの謎さだけが身に迫ってくる。そして人間は、まずこの被投性から眼をそむけ、逃れようとする。
 気分を制するのは知識や意志ではない。反対の気分によってである。したがって気分は現存在のもっとも根源的な存在様相である。

 了解・解意

 現存在とは、客体的に存在していて、その上なにかができるということをおまけとして持っている、というようなものではない。現存在は、なによりもまず可能的に存在すること、おのれの存在可能を存在することなのである。現存在はいつでも「事実上」あるものよりも「以上のもの」を含んでいる。これから成るもの、成らぬものをすでに存在しているのである。その可能的存在を了解したあとで、人は自分を投企Entwurfする、すなわち有意義性の中へみずからを投げ入れる。
 
 意味の構造は循環である

 解釈とは、あるものを別のあるものとしてみることである。すべての解釈は、解意すべきものをすでに了解している。無前提な解釈は不可能であり、必然的に先入見に基づいた結論の前置きVorhabe・見通しVorsicht・先取りVorgriffが行われる。証明すべきものを前提にしているのだから、意味の構造はつねに「循環」であり、この循環から逃れた客観的認識は存在しない。ふつう科学的客観的認識とよばれるものは、たんに「冷静さ」という気分の一種のもとで行われる了解の亜種であり、質的には他の了解のしかたと何ら異ならないのである。するべきことは、この循環から抜け出そうとすることでなく、先にあげた三つを、なるべく事象そのものから開発して、俗な解釈に堕さぬように学問的課題を導こうと努力すること、すなわち、まともに循環に入り込むことである。

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