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独文独歩 32

 ハイデガー
 『存在と時間』

 Martin Heidegger, 1889-1976
 Sein und Zeit, 1927 
 
 (承前)

 頽落

 世間話Geredeにおいては、平均的了解可能性にしたがってつねに同一のしかたで了解するのであり、話が受け売りのものなのか、真に根源からくみ取ったものなのかを判定することができない。話そのものは了解されるが、話されたもののこと、話題にのぼった存在者のことは、ぼんやりとしか了解されないし、話題にのぼる存在者の地盤に立ち戻らないという不作為によって、むしろ存在者を閉ざし覆い隠す。「すでに理解した」ので「それ以上問わない」、というのが、平均的理解、既成的解意のあり方である。われわれは日常的にこの根源喪失の状態にいるのであり、すべての真正な了解は、ここから、これに反抗する形で行われる。
 しかし、根源喪失の誘惑は現存在自身が絶えず供するものなのだ。現存在の日常性は、頽落Verfallenの状態にある。すなわち、現存在はさしあたっていつもすでに本来性から脱落して世界にとらわれ、気を奪われている。世界に安んじているheimlichな状態は、実は非本来的な状態である。本来的なものへと人が連れ戻され、自分自身に向き合うようになるのは、不安によってunheimlichな心境になっているときである。不安においてはじめて人は、用具性がまったく捨象された、すなわち存在者がそれ自体の意味を失った、不気味で無意味な「世界そのもの」に臨むのである。

 Das beruhigt-vertraute In-der-Welt-sein ist ein Modus der Unheimlichkeit des Daseins, nicht umgekehrt. Das Un-zuhause muß existenzial-ontologisch als das ursprünglichere Phänomen begriffen werden.
 心安く親しまれた世界=内=存在が、現存在の不気味さのひとつの様態なのであって、その逆ではない。居心地のわるさの方が、実存論的=存在論的には、いっそう根源的な現象であるということが理解されなければならない。

 実在性

 世界は人間の意識から独立に存在しうる(実在論)か、それとも人間の意識の中にしか世界はない(観念論)のかという、ものの実在性Realitätを問う問題、いわゆる「外界問題」は、その問題設定からして間違っている。本当に知りたいのは超越的である「存在」であるのに、客体的な「存在者」を一生懸命解明しようとしており、その上両者を混同しているからである。そもそも世界の独立性をなぜ証明したいのか。外界と遊離した主観、すなわち未だ世界をもっていず、これから外にそれを取りにいこうと意志している純粋な主観とかいうもの、そんなものが存在するという設定自体をそもそも疑うべきではないのか。問われている現存在自体が、主客の分離という不自然な問題設定を拒むのである。

 Zu beweisen ist nicht, daß und wie eine »Außenwelt« vorhanden ist, sondern aufzuweisen ist, warum das Dasein als In-der-Welt-sein die Tendenz hat, die »Außenwelt« zunächst »erkenntnistheoretisch« in Nichtigkeit zu begraben, um sie dann erst zu beweisen.
 「外界」が存在するということ、それがいかに存在するかということを証明することが必要なのではなく、世界=内=存在としての現存在が、「外界」をまず「認識論的に」ほりくずして虚無化しておいて、あとであらためてそれを証明しようとする傾向をそなえているのはなぜなのかということを挙示することこそ必要なのである。

 真理性

 古来なされてきた真理の定義はこうである:「真理とは、認識がその対象と一致することである」。しかし、何の観点から一致するというのか? それらが一致しうるということ自体はそもそも何に基づくのだろうか? 主観的認識と客観的対象との対応関係、その関係全体の基礎は、どこにあるのだろうか? 理念性と実在性とは合致する、ではその合致の存在様式は理念的なのか、実在的なのか? それとも、そもそも理念性と実在性を、認識と対象を、主観と客観を、分離していたのが間違いだったのだろうか?
 真理とはそのようなものではないのだ。真理とは発見である。普段は非真理のうちに頽落している存在者を、努力によってそれ自体のありさまで発見することである。その発見は言葉を超越するものである。存在者について言葉にしたとたん、その言明と存在者というふたつの客体的存在関係の間の、客体的合致こそが真理であるということに再びなってしまう。

 われわれは真理を、なにかわれわれの「そと」やわれわれを「超えて」あるものとして前提するのではない。(…)われわれが「真理」を前提するのではなく、真理の方こそ、われわれがなにかを「前提」するという仕方で存在しうることを、そもそも存在論的に可能にする条件なのである。真理が、前提というようなことを、はじめて可能にするのである。

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