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独文独歩 34


 ドイツ史

 9世紀にはカロリング朝カール大帝の戴冠によってフランク王国が創始し、それは今のEUさながら、東ローマ帝国とイスラム国に接するほどに拡大した。しかしその百年のうちに帝国は三分割され、言語・文化的にも分裂が始まった。
 10世紀はザクセン朝オットー1世のもとに神聖ローマ帝国が成立し、スラブ人・マジャール人に対抗し辺境領を作る東方政策がとられた。このころは皇帝が教皇を守り、教皇が皇帝に権威を与えるという形で、両者は仲よくしていた。
 しかし11世紀になると、教皇側の改革派は公会議において、皇帝が司教の任命に関与することを禁止する。皇帝の聖性を否定し、教皇がそれを独占しようとしたのである。つまりいわゆる叙任権闘争は、聖俗の分離が進展する過程であるといえる。大司教の人事で対立した皇帝ハインリヒ4世と、教皇グレゴリウス7世は、お互いを首にしたり破門したりしたが、諸侯は王権の強化をきらって教皇の側に味方したため、皇帝は破門取り消しのための三日間嘆願した。
 12世紀から十字軍がはじまり、その後100年でドイツの面積は倍になった。プロイセンの東方植民によってバルト地方に国土が拡がり、ロシアと国境を接したのである。13世紀は、幼い皇帝フリードリヒ2世がずっとシチリアにいて、後見人インノケンティウス3世が権力をふるい、聖性の完全な分離が達成された。その後は皇帝の空位がつづき、その間に選帝侯の制度が確立し、同時にハプスブルク家が初めて皇帝に選ばれ、15世紀の繁栄の足掛かりとなった。14世紀の金印勅書では、皇帝の選定に教皇は一切関与しないと記され、ここに俗権も分離が達成された。
 14世紀後半から15世紀にかけて、教皇の分裂(大シスマ)が起き、その後のフス戦争は教会より聖書を重視する動きであった。こうして教皇の権威がゆらぎはじめる一方、東ローマ帝国を滅ぼした(1453)オスマン帝国の、ヨーロッパ侵略に対する一致した対抗も求められ、ジギスムント王がコンスタンツ公会議を開いた。
 最後の騎士とよばれる1486年に戴冠したハプスブルク家のマクシミリアン1世は、フッガー家の財政援助をもとに領地を拡大し、中央集権化を図った。その次がスペイン国王を兼任するカール5世(在位1519-56)である。この間にスイスの独立(1499)、宗教改革とそれにつづく農民戦争が起こり、1555年のアウグスブルクの宗教平和令で諸侯単位でのルター派信仰が認められた。この決定は教皇の指導ではなく、聖の問題は俗的に解決されたため、帝国の弱体化、領邦国家化につながり、三十年戦争でそれは決定的になる。それが中世から近世への幕開けでもある。
 1618年からの三十年戦争を四つの時期に分けると、まずは宗教戦争としてのベーメン・プファルツ戦争、次にデンマークとヴァレンシュタイン率いる皇帝軍の戦争、そしてグスタフ・アドルフ率いるスウェーデンの参戦による国際戦争化、そしてフランス対ハプスブルク家の覇権争いへ向かう、というように整理できる。1648年のウエストファーレン条約ではエルザスがフランスへ編入、スウェーデンも領土を拡大し、フランスはルイ14世(1643-1715)のもとでの繁栄へと向かうが、ドイツは人口が三分の二になり(1000万人)、国民国家への道を完全に閉ざされ、後進性が決定した。それでなくても17世紀は凶作つづきの小氷河期であり、ペスト・コレラ・チフスに悩まされていたが、そこに傭兵の略奪、戦時下の貨幣悪鋳による物価高、社会不安による魔女狩りと反ユダヤ主義が吹き荒れており、西からは絶好調のフランスがプファルツに侵攻してハイデルベルクは壊滅、東からはトルコに攻められてウィーンが包囲される(1683)など、内憂外患の極みに徹していた。戦争の再建シンボルとしてヴェルサイユ宮殿をモデルとした華やかなバロック宮殿が際立つのは、この暗さの裏返しである。
 身を守るために、弱小の領邦は皇帝の傘下に入る動きを見せる一方、プロイセンとオーストリアは自助的に権力国家として伸長する動きをみせた。プロイセンは常備軍を強化し、北方戦争でバルト海の覇権を手に入れ、フランス絶対王政をモデルに官僚制を整備した。オーストリアはトルコに対抗して東方に拡大し、ハンガリーを手に入れた。両者は18世紀になると、帝国内の仲間としてでなく、それぞれの国家理性をもって激突し、二元主義体制に突入する。それがオーストリア継承戦争と七年戦争である。フリードリヒ2世がオーストリア領の豊かなシュレージエン地方に侵攻し、対するマリア・テレジアは政敵フランスと同盟して七年戦争を戦ったが敗れ、シュレージエンはプロイセンのものになった。こうしてオーストリアの国家体制の後進性が露呈し、啓蒙専制君主ヨーゼフ2世による急進的な国内改革へつながった。またプロイセンが英仏露とも並ぶ主役級として認められ、国際政治は五強の「勢力均衡」が主題となる。ポーランド分割もその一環である。
 18世紀は前世紀と裏腹に、人口が急増し、農業生産力も飛躍した。また啓蒙思想のもとで、協会や雑誌を軸にして、新知識層が勃興した。ドイツの政治的分裂がかえって文化の中心地を複数化し、広範な文化普及・世論形成を可能としたのである。

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