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独文独歩 35


 ドイツ史(承前)

 革命と反動

 フランス革命はドイツにとって、保守化して膠着した国内の啓蒙絶対主義を打開する新時代の到来と感じられ、当初は知識人層から歓迎された。ナポレオンの国民軍は、安い軍事力、脱走しない兵士、無尽蔵な人的資源によって無敵を誇り、大陸封鎖令でダメージを受けたプロイセンはティルジット条約(1807)で領土を半分に縮小され、オーストラリアも2年後に講和条約を結び、ナポレオンのドイツ支配が完成した。シュタインとハルデンベルクの改革は、それまでのぬるい改革とは違って、ドイツの存亡の危機を賭けた改革であった。また、ライン左岸・ルール地方は、フランスの制度がそのまま導入されるなど、大きく影響を被ったため、ウィーン体制時代にも共和主義の温床になったほか、営業の自由化によって後のドイツ近代化を支える工業地帯の地盤が形作られた。
 ナポレオンがロシア遠征に負けると、プロイセンがロシアと組んで反旗を翻したのを皮切りに、諸国民戦争が始まり、ライプチヒの戦い(1813.10.16-18)で勝利するまでに、ドイツの国民意識は前代未聞なほどに高まった。
 ウィーン会議は、ウェストファリア条約以来の大国際会議であった。主催国オーストリアの代表メッテルニヒが主張した正統主義は、すべてを革命前の状態に、すなわちなかったことにする方針であり、自由主義も同時に否定された。多民族国家であるオーストリアにとって、民族的自立を謳う自由主義は国家そのものの否定につながるとして恐れられたのである。しかし自由主義のエネルギーは存続し、それは学生のブルシェンシャフト運動や、各地の立憲運動として現れ、メッテルニヒは当初プロイセンと組むことによって悉くそれらを弾圧したが、1848年以降はプロイセンも独自の路線を歩むことになる。
 静かな1820年代を経て、1830年の7月革命とベルギーの独立によって再び自由主義運動とその弾圧はさかんになった。マルクスやハイネがパリに逃亡したのもこの時である。
 19世紀前半は、前世紀の啓蒙時代にすでに動揺していた領主制が、ナポレオンの農民解放によって完全に解体され、ユンカー経営へと移行していった時代である。ツンフトの廃止と営業の自由化、鉄道の敷設、1834年のドイツ関税同盟による領邦間の関税障壁の撤廃などによって、国内市場が統一されはじめ、工業化の前提条件が一通りそろったのもこの時期である。政治的には弾圧されていた自由化が、経済の自由化としてひそかに進行していたのである。それらの担い手は新しい社会層である官僚たちであった。

 伸張と挫折

 3月革命は、国民議会を中心とする市民層と、武装蜂起する下層民衆との間に分裂があり、王権に対して一致団結することができなかったため、最終的には鎮圧されて失敗した。1850年代は再び反動期となる。オーストリアはクリミア戦争とイタリア統一戦争で敗れ、弱体化が露呈してくる一方、ビスマルクが議会を無視し、老齢のヴィルヘルム一世も無視した強硬的な政治路線でプロイセンを率い、フランス・オーストリアを打ち破って統一を果たした。これはプロテスタントを中心とした統一であって、既得権益を失ったカトリックは近代化に敵対し、ビスマルクも文化闘争によって彼らを抑えつけた。1888年に若いヴィルヘルム二世が戴冠すると、長期政権に倦んだ国内は刷新ムードに沸き、翌年ルール地方のストライキの件で皇帝と対立したビスマルクは解任された。
 1890年から第一次世界大戦まで親政を行ったヴィルヘルム二世は、派手で強気ではあっても明確な政治目的に欠けており、しかも旅行好きで首都に不在がちだった。世界的好況もあって経済は上向きであり、人口は6700万人に達し、その過半数が30歳以下であったが、そのような爆発的な労働力の増加を吸収できたほどに工業生産が持続的に向上していた。いっぽう政治的にはビューロー宰相のもとで露骨な帝国主義路線がとられ、はっきりとイギリスに対抗の意志を見せていた。海軍を増強し、アフリカに進出を企ててモロッコ事件を起こしたりするが、警戒した諸列強(英仏露)が既存利益擁護のため結束して包囲したためドイツは国際的に孤立した。新進気鋭の軍事国プロイセンに対して、イギリスのディズレーリを始めとする周囲の警戒心は強かったのである。中東では鉄道の敷設によって経済的浸透を軸に影響力を行使しようという非公式帝国主義が試みられた。このような露骨な砲艦外交は、急進的ナショナリズムが世論をなしていた国内では支持が多かった。国民統合のシンボルとしての新古典主義を用いたモニュメント建築がブームになったのもこの頃である。しかし世界政策は行き詰まりを見せ、国際的には味方がオーストリアしかおらず、一方国内では議会内の政治勢力が拮抗してその場しのぎの対角線政策が採られていたため、やがて議会を見限る急進派ナショナリズム運動が台頭し、戦争による現状打破を図る危機待望論が強くなっていった。経済的には安定していたが、政治的には閉塞感のムードが支配していたのである。
 ロシア軍の集結遅れを前提としてフランスを瞬殺しようとするシュリーフェン計画は、もともとは日露戦争の際に練られた案であったが、第一次世界大戦で使われた。しかし思惑は外れ、マルヌの戦いに勝てず西部戦線が張られて長期戦にもつれこみ、ロシアには勝ったが土地の寒さには負け、イタリアは裏切って協商側に味方した。ヴェルダンでのフランスの抵抗、イギリスの経済封鎖によって、戦争は物量戦と化した。アメリカの乗り遅れとロシアの革命による戦線離脱により、一時はドイツ有利の状況になったが、結局負けて、ヴァイマル共和国が成立した。戦時に行われた国内総動員は、国民が国家の構成員としての自覚をもつことで社会批判の意識を強め、帝政的価値体系を崩すきっかけとなったし、配給制は国家と国民との距離を縮め、後の福祉国家の原点ともなった。

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