独文独歩 37

 リルケ
 『ドゥイノの悲歌』

 Rainer Maria Rilke, 1875-1926
 Duineser Elegien, 1922

 この世ならぬものへの愛、天上の天使への愛、目に見えず、どこにもない、実現不可能な愛を求め続ける詩人たちにとって、目に見える地上の愛は、反映にすぎない。しかし一方で、彼はそのおぼろげな反映を通じてはじめて、天使を予感することができる。

 Liebende, wäre nicht der andre, der
 die Sicht verstellt, sind nah daran[=Nirgends ohne Nicht] und staunen...
 Wie aus Versehen ist ihnen aufgetan
 hinter dem andern... Aber über ihn
 kommt keiner fort, und wieder wird ihm Welt.(8. 24-28)
 愛する者たちは、もし愛の相手が
 視界を妨げてさえいなかったならば、そこ(Nirgends ohne Nicht)へと近づき、驚嘆する……
 ついうっかりしたかのようにそれはかれらに開かれる、
 相手の者の背後に…… しかし相手をこえて
 先へゆく者は誰もいない、そしてまた「世界」がかれに現れてしまうのだ。

 愛の相手は、目に見える形をもつがゆえに、「視界を妨げ」、形のないものへの洞察を不可能にしている。しかし人は、意図せずして、その物質的「世界」の「背後」に、Nirgends ohne Nicht「『ない』のない、どこにもないところ」を発見する。「どこにもない」という消極的な言い表しに、「ない」をさらに重ねることによって、無ではなく無限が表現されることになる。眼に見えないがゆえに、そこにはすべてがあるのである。「愛する者たち」Liebendeは、その愛を通じて、無限を予感することができる。しかし同時に、愛の相手が視界をさえぎるせいで、地上の「世界」にとどまってしまい、それ以上無限と関わることがない。これが「愛する者たち」の限界である。
 
 Wenn ihr einer dem andern
 euch an den Mund hebt und ansetzt – Getränk an Getränk:
 o wie entgeht dann der Trinkende seltsam der Handlung.(2. 63-5)
 おまえたち(愛する者たち)が、一人がもう一人の
 口へとつま先立ち、唇を合わせ――ひと口ひと口飲むとき、
 おお、飲む者は、飲む行為からなんと奇妙に離脱していくことか。

 接吻をGetränk「飲み物」と表現するのはおもしろい。そこにはtrunken「酔った、陶酔した」の意味が含まれるし、また互いが互いの唇を吸うのを「飲む」と表現することで、接吻という単なる接触を示す言葉よりも、ふたりの合一の度合いが高く感じられる。しかし、その合一は成就しないのである。飲む者は、行為そのものとわずかな間しか一体化できず、やがて「離脱して」しまう。肉体の歓喜の中で永遠を予感し期待することはあれ、肉体をもつ身にとっては、永遠の持続は不可能である。
 このように、本作品では「愛する者たち」Liebendeはしきりにその限界性を強調して描かれている。ではわれわれの幸福は、地上にではなく、天上の天使たちへの愛のうちにあるのだろうか。しかし、それは初めから否定されている。

 WER, wenn ich schriee, hörte mich denn aus der Engel
 Ordnungen? und gesetzt selbst, es nähme
 einer mich plötzlich ans Herz: ich verginge von seinem
 stärkeren Dasein. Denn das Schöne ist nichts
 als des Schrecklichen Anfang, den wir noch grade ertragen,
 und wir bewundern es so, weil es gelassen verschmäht,
 uns zu zerstören. Ein jeder Engel ist schrecklich.(1. 1-7)
 いかなる天使がいったい、私が叫んだとて、天使の列序から
 それを聞いてくれようか? 仮に一人の天使が、
 突然わたしを抱きしめたとしても、わたしはかれの
 より強い存在によって消え去ってしまう。なぜなら美とは
 恐るべきものの始まりであり、われわれが美にかろうじて耐え、
 嘆賞するのも、美がわれわれを破壊するのを
 平然と拒絶しているからなのだ。すべての天使はおそろしい。

 ここで詩人が呼びかける対象となる「天使」は、目に見えない超越的存在が、呼びかけるために形象化された存在である。そして「天使」は「美」と同一であり、それらは「おそろしい」schrecklich存在、『ファウスト』の前に現れる地霊にも比することのできる存在であり、直接それに対峙すれば人間は消え去って死んでしまうし、そもそもそのような圧倒的現前による破壊すらも天使は取るに足らぬこととして「平然と拒絶」するのである。そしてそのような拒絶と隔たりAbstandがあるからこそ、人は死なずに安全に美を「嘆賞する」ことができるのだ。
 したがって、天使への愛も不可能である。われわれの幸福は、目に見える地上にも、目に見えない天上にもなく、その狭間にあるのだ。狭間とは、地上にありながら目に見えない、われわれがすでに所有している唯一の天上的なもの、すなわち、われわれの内部である。

 Nur, wir vergessen so leicht, was der lachende Nachbar
 uns nicht bestätigt oder beneidet. Sichtbar
 wollten wirs heben, wo doch das sichtbarste Glück uns
 erst zu erkennen sich giebt, wenn wir es innen verwandeln.(7, 46-49)
 ただ、われわれはあまりにも簡単に忘れてしまうのだ、笑いさざめく隣人が
 承認したり羨んだりしてはくれないもののことを。目に見えるように(sichtbar)
 我々はそれを掲げようとする、しかし最も疑いようのない(das sichtbarste)幸福が
 われわれにはじめて明らかになるのは、われわれがそれを内部において変化させるときなのだ。

 隣人の「目に見えるように」掲げるものは、地上の事物であるだろう。しかしここで、sichtbar「目に見える/明らかで疑いのない」という語の二義性が2行目と3行目で対比させられている。「目に見える」sichtbar幸福は、「われわれがそれを内部において変化させるとき」wenn wir es innen verwandelnに、はじめて真に「確実な」das sichtbarste幸福となるのである。もちろん、逆に言えば、変化させる素材としての「目に見える」幸福がなければ、内なる幸福も生まれない。しかし、目に見える地上の事物は、そのままでは虚しいものである。それらは人間の心の中で聖化され高められることを待ち望んでいる。うつろいゆく地上の事物を、言葉によって讃えることで、目に見えないものへと高め、永遠化することこそ、人間の使命、詩人の使命であり同時に幸福でもある、という結論が、ここで準備されている。
 
 – und diese, von Hingang
 lebenden Dinge verstehn, daß du sie rühmst; vergänglich,
 traun sie ein Rettendes uns, den Vergänglichsten, zu.
 Wollen, wir sollen sie ganz im unsichtbarn Herzen verwandeln
 in – o unendlich – in uns! Wer wir am Ende auch seien.
 Erde, ist es nicht dies, was du willst: unsichtbar
 in uns erstehn?(9. 62-8)
 ――そしてこれらの、うつろいによって
 生きている事物は理解するのだ、おまえがかれらをたたえていることを。うつろいながら、
 事物たちはわれわれ、この最もうつろいやすい者たちに、救ってもらうのを期待している。
 願っているのだ、われわれがかれらを完全に、目に見えない(unsichtbar)心の中で変化させる(verwandeln)のを、
 おお、永遠に――われわれの中で! たとえわれわれがいかにはかない存在であろうとも。
 大地よ、これがおまえの願うところではないか、目に見えないものとして
 われわれの内によみがえることが?
 
 引き続きunsichtbarとverwandelnの語が使われている。もっともうつろいやすい人間だけが、すべてのうつろいゆくものを、自らの心の内で、もはやうつろわない、永遠のもの、目に見えないものに変化させることができる。言葉で言い得ないものを追い求めるのでなく、素朴な物をただ言葉で示す、このような行為によってならば、天使の驚嘆を得ることもできるのだ。(Sag ihm die Dinge.「天使に事物を告げよ」)
 現実とは理想の影でしかない――しかし、まさに理想の影であるがゆえに尊い。この価値転換が、現世否定から現世肯定への移行の本質をなしている。そして、その肯定された現実は、詩人の心の内でついに理想の姿にまで高められていくのである。その行為は、対人的な恋愛への埋没でもなく、激しい美=天使との葛藤でもなく――両者をつなぎ合わせる行為である。