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独文独歩 38

 シュティフター
 『水晶』

 Adalbert Stifter, 1805-1868
 Bergkristall, 1845/53

 四方を山に囲まれた辺境の村クシャイトGschaidに住む二人の兄妹が、山の向こうの町ミルスドルフMilsdorfに住む祖母を訪ねた帰り道、クリスマスの前夜に、大雪によって山中で遭難し、万年雪の巨大な氷山の中に迷い込む。兄の賢明な判断によって二人は無事に一晩を明かし、次の日村人たちに救出される。母がミルスドルフ生まれのため、それまで半分「よそ者」Auswärtige(S.239)とされていた子供たちは、この日から真に村の子供となった。ミルスドルフの染物工場の頑固な祖父も、はじめてクシャイトを訪れ、娘の家族と共にクリスマスを祝う。
 大吹雪の中で道に迷う小さな子供たち、強大な自然に翻弄されるかよわい生命、という組み合わせは、ドラマチックであり、さまざまな演出の余地がある。シュティフターの場合は、しかし、猛威を振るうデモーニッシュな自然とか、不安におののき泣き叫ぶ子供とか、帰りを待ちわびる親たちの苦悩とかいったものを描くことで、読者をあおり立て、はらはらさせることもできるはずなのに、あえてそれをしない。
 雪は、祖父の染物師Färberが言うように、珍しくも「干し竿から濡れ紐がぶらさがるように」wie nasse Schnüre von einer Stange hängen風もなくまっすぐ降った(S.238, 訳p.87)ため、子供たちに害をなすことがなかった。豪雪ではあるが、音もなく、「自分たちのまつ毛に雪のふりかかる音さえ、聞えるような」als sollten sie den Schnee hören, der auf ihre Wimpern fiel(S.215, 訳p.53)不思議な静かさをもった豪雪である。そしてこの雪が、子供たちと共同体とのつながりをより強固にしたのだから、考えようによっては敵対的な自然どころか、神の恵みとも言いうるのである。(vgl. S.238)
 下ろうと思えば昇り、昇ろうと思えば下ってしまうような山に迷い込んだ子供たちは、不安におびえるようすもとくに見せない。思慮深い兄コンラートKonradは、眠って死んでしまわぬように濃いコーヒーを飲みあうことで夜を乗り切る。小さな妹ザンナSannaは、「そうよ、コンラート」“Ja, Konrad“というセリフの印象的な繰り返しから分かるように、兄を信用しきっていて、怖れを抱くことがない。
 別の短編「石灰石」Kalksteinの主人公である測量士は、氾濫する川を無邪気に渡って登校する子供たちを見ながら、子供は死を知らないのだ、と考える。

 Aber sie kennen den Tod nicht. Wenn sie auch seinen Namen auf den Lippen führen, so kennen sie seine Wesenheit nicht, und ihr emporstrebendes Leben hat keine Empfindung von Vernichtung. Wenn sie selbst in den Tod geriethen, würden sie es nicht wissen, und sie würden eher sterben, ehe sie es erführen.(S.93)
 けれど子どもたちは死がどんなものであるかを知らない。死という言葉をしゃべることはあっても、それが何を意味するか知らない。すくすくと伸びて行くかれらのいのちは、「ほろびる」ことを予感することができないのである。死の手にとらえられたそのときでさえ、かれらは死というものを知らないだろう。それを知らずに死んでゆくだろう。(p.183)

 この部分からは子供の危なっかしさを気遣う大人の眼が感じられる。子供たちはすくすくと伸びて行くいのちemporstrebendes Lebenをもち、生に属しているがゆえに、死の意識をもたない。しかしそれゆえに、死に近い存在でもある。
 『水晶』の兄妹が、山を越えて祖母の家に行く途中で、「災難柱」Unglücksäuleが倒れているのを見つける。その柱は、昔パン屋が遭難死した場所、ちょうど「くび」Halsとよばれる道の途中の一番高い地点に建てられた、絵と説明の入った柱である。これが折れているのは、読者にとって、明らかに不吉な徴候である。しかし子供たちはそれに気づかない。

 (...)aber da sie einmal lag, so machte es ihnen Freude, daß sie das Bild und die Schrift so nahe betrachten konnten, wie es sonst nie der Fall gewesen war. Als sie alles – den Korb mit den Semmeln, die bleichen Hände des Bekers, seine geschlossenen Augen, seinen grauen Rok und die umstehenden Tannen – betrachtet hatten, als sie die Schrift gelesen und laut gesagt hatten, gingen sie wieder weiter.(S.205-6)
 しかし、柱が倒れているために、絵と字をこんなに近くで見ることができたので、二人はうれしかった。今まではそんなことはできなかったからだ。二人はすべてのもの――籠にもられた巻パン、パン屋の蒼ざめた手、閉じた眼、灰色の上着、まわりに描かれているモミの木立――をじっと眺め、文字を読んで、口に出して言ってみてから、また歩き続けたのだった。

 帰りには雪によってこの柱は埋もれてしまい、おそらくそれが遭難を招いたきっかけとなっている。読者にしてみれば、パン屋の死の記録が役目を終え、新たに子供たちがその悲劇を受け継ぐのではないか、という予感に気が気ではないのだが、子供たちは、背の低い自分たちにも看板が近くに見えるというので喜んでいるばかりで、何とも呑気なものである。
 自然―子供―死、という、ロマン主義的なモチーフの繋がりは、ここでも他の作品においても、けっして大袈裟に描かれることがない。自然の脅威にも節度があって、雪や嵐、『みかげ石』Granitにおけるペストや、『石乳』Bergmilchにおける戦争は、時間が経てば止む。文化と自然という対立も際立つことがなく、むしろ両者は浸透しあっている。兄妹の父親は信頼されている靴職人であるが、その仕事は「人類が原始状態にとどまっているのでないかぎりは、どんな土地にもなくてはならぬ職業である」das nirgends entbehrt werden kann, wo die Menschen nicht in ihrem Urzustande sind(S.193, p.22)。子供も神秘的な存在などではなくて、彼らなりの理性をもって考え決断しながらも、大人に庇護されている存在である。死の危険に対する作者の態度もまた、退廃的に接近するでもなく、楽観的に否定するのでもなく、ただ正しい距離を保ちながら見きわめ、現実的に対処する、中庸の態度である。
 ウィーン体制崩壊の中で、文壇にも政治運動が吹き荒れ、激しい革命と転覆を主張する人々が多数派であった世相において、非政治的な立場にとどまる克己心を思うとき、そこには逃避というよりも、かえって強さが感じられる。シュティフターの作品には、絶対的な悪は存在せず、けたたましい叫びも感情の放出もない。ただ静謐と、生きることへの真摯さがある。

 引用は以下に準拠。
 Adalbert Stifter: Werke und Briefe. Bd.2,2. Verlag W.Kohlhammer 1982
 手塚富雄・藤村宏訳『水晶 他三篇』岩波文庫 1993

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