独文独歩 39

 柴田翔
 『はじめて学ぶドイツ文学史』
 ミネルヴァ書房、2003
 
 Höfisches Epos
 
 言語上の変化も相まって、ドイツ語詩の韻律はゲルマン古来の頭韻から、ラテン語と同じ脚韻へと移行した。宮廷叙事詩Höfisches Eposは、フランス宮廷文学を基に、王侯の注文に応じて創作された。Hartmann von Aueは、二編のArtusromanと、„Der arme Heinrich“、そしてマン『選ばれし人』の原作„Gregorius“で知られる。奔放な形式を用いたWolfram von Eschenbachは„Parzival“ „Tagelied“、反対に修辞的なGottfried von Straßburgは„Tristan“の作者である。これらのフランス系叙事詩と対照をなすのが、„Das Nibelungenlied“ „Kudrun“などの、キリスト教以前のゲルマン伝説に取材した英雄叙事詩Heldeneposである。これらはすべてシュタウフェン朝下でのドイツ宮廷文化最盛期、12世紀後半から13世紀前半の作品であり、その後は大空位時代(1256-73)の騎士の失権や、ハンザ同盟の結成によって、文学の中心は宮廷から都市へと移っていった。

 Humanismus

 イタリア・ルネサンスに起こった人文主義Humanismusは、教会の独占していたギリシア・ローマ文化を、教会を媒介せずに受容することで、権威を相対化し批判する運動であり、15世紀にドイツに流入した。隆盛の背景には、印刷術を駆使したビラ・パンフレットによる宣伝、14世紀後半からの大学の設立ブームがある。Johannes von Teplの„Der Ackermann aus Böhmen“ (um 1400) は農夫と「死」との論争を通じて、神の下した「死」を拒絶するという現世擁護の新時代精神を表現した、ドイツ初の人文主義作品である。百年後、Sebastian Brantの„Das Narrenschiff“(1494)がベストセラーとなり、代表的な人文主義文学にして阿呆文学・悪漢文学の先駆となった。この系譜はエラスムスの教皇庁批判『愚神礼賛』Encomion Morias(1509)、Ulrich von Huttenのカトリック批判『蒙昧な人々の書簡』、Thomas Murnerのプロテスタント批判『ルター的大馬鹿』などへ続き、そしてバロック時代にGrimmelshausenの『阿呆物語』Simplicissimus(1669)において大成する。
 
 Sprachgesellschaft
 
 言語協会Sprachgesellschaftは、三十年戦争によって諸邦が弱体化し、分裂が固定されてしまった中で、英仏のアカデミーを範として、宮廷文人たちが集まり、共通のドイツ語を確立させようとした試みである。Weimarで結成された「実りの会」(1617)が代表的である。ドイツ語の純化運動はそのメンバーであったMartin Opitzの詩論(1624)を嚆矢としている。彼は外来語の多用を批判し、古典古代の韻律法をドイツ語詩にも適用することを説いた。この傾向が17世紀バロック詩の華麗で技巧を重視した作風へつながる。
 
 Empfindsamkeit
 
 Leibnizの『弁神論』(1710)では、科学的法則にもとづくこの世界は神の作った最善世界であるとして、神と理性の対立を調停した。しかしリスボン地震(1755)、七年戦争(1756-63)によって最善説は説得力を失い、合理主義への確信もゆらぎはじめる。およそ18世紀の啓蒙思想の展開は、理性による人間の進歩への信頼が次第に崩れ、感性の重視へと軟化していく過程であり、それがやがて感性至上主義の極致としてのSturm und Drangの運動(1760s-1770s)へとつながり、最後にKantによって理性の限界が確定される(1780s)。理性と感性を調和させようとするセンチメンタリズム(感傷主義)Empfindsamkeitは、この軟化の過程を代表しており、イギリス経験主義とPietismusに影響を受けている。Gellertの„Leben der schwedischen Gräfin von G.“は、Pietismusを基調に、三人の男女の共棲が描かれる。Sophie von La Rocheの„Geschichte des Fräuleins von Sternheim“は、ドイツ初の女性小説とされている。