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独文独歩 42

 フォンターネ
 『エフィ・ブリースト』

 Theodor Fontane, 1819-1898
 Effi Briest, 1895

 ブランコと不倫
 
 故郷ホーエン=クレメンの貴族邸の庭園には、ブランコがあり、エフィはそれに乗って遊ぶのが大好きで、編物中の母から「曲馬師」「宙吊り娘」(上p.11)と言われるほどである。このブランコのモチーフは小説全体を通して現れる。

 「(…)装飾品なんてあたしがさっぱり眼も呉れないこと、それはあのひとまるで知らないの。それよりあたしは木登りしたり、ぶらんこがしたい。一番いいのは、どこか裂けるか折れるかして、どしんと墜落しやしないかとしょっちゅうびくびくしているその気持よ。まさかいきなり生命に関わることもないでしょう」(上p.59)

 のちのエフィの人生の成り行き、つまり結婚生活が「裂け」、社会的に「墜落」して、最後には「生命に関わ」ってしまうという顛末を考えると、この台詞を言わせることにはとても皮肉な効果がある。また、ここで言及される、「しょっしゅうびくびくしている」気持ちにさせるようなスリリングなブランコへの嗜好と、バレやしないかハラハラする不倫というものへエフィが導かれることとは、アナロジカルである。さらに、上の引用ではインシュテッテンが新婚旅行先のイタリアで買ってくれるであろう「装飾品」と、「ブランコ」とが対比されているが、「装飾品」は社交に必要なもの、「名誉」(これも重要なテーマである)を表すものであり、だとすればブランコの「曲芸」はその逆である。ブランコと姦通を結びつけるとすれば、エフィの「身持ちの悪さ」は彼女に生得的のものであるということが、第一章(最初の段落にもうブランコへの言及がある)からすでに示唆されていることになる。
 しかしほとんど終盤の第三十四章で、離婚して実家で療養しているエフィがニーマイヤーに見守られてブランコに乗り、少女時代と全然変わらない「敏捷さ」と「愉しげ」さで漕いだ後の、エフィのしんみりとしたセリフからは、そのような観念連合とはまた違ったものが読み取れる。

 「エフィさん、あんたは昔とちっとも変らんね」
 「いいえ、そうありたいと願うんですけど、すっかり遠いことですわ。ただもう一ぺんどんなものか試してみたかっただけのことですの。ああほんとによかった。空気がそれはいい心持にしてくれたものでした。空を飛ぶような気のしたものでした。あたしがもう一度そんなになれるんでしょうかしら?(…)」(下p.283)

 この小説に泣けるシーンがあるとすればこの箇所をおいて他にないであろう。ここではブランコ=不倫というよりは、ブランコはむしろ少女時代の「空を飛ぶような」自由と幸福とを象徴するもの、すなわち結婚とそれに伴う社会的束縛に対立するもの、大人の女として辛酸をなめきった後で、死を間際にしたエフィが「ただもう一ぺん」だけ回顧する、失われたユートピアとして表されている。エフィが「もう一度そんなになれる」のは、夜空を見上げながら「天の郷里」に帰るという憧れをぼんやり考えていて、「あんまり長く見とれすぎ」(p.301)、その結果病気をこじらせ、本当に天に召されてしまったときである。
 しかし、ブランコが結婚の破綻を象徴するにせよ、結婚前の自由を象徴するにせよ、結婚という社会規範から逃れようとしている点では同じであるとも言える。

 従兄ダーゴベルト・ブリーストとの結婚の可能性

 表題を『インシュテッテン夫人』ではなく旧姓の『エフィ・ブリースト』としたことには、何か意味が見出せるかもしれない。始まりと終わりにおいて、エフィはエフィ・ブリーストそのものである。つまり、突然の婚約よりも前のところから小説が始まり、離婚してから三年後の出来事とエフィの死で締めくくられ、墓碑にはエフィの願いどおり旧姓の『エフィ・ブリースト』だけが記される。彼女がそれを願うのは、「別の名前の誉れになるようなことをしなかった」(p.206)からだという。しかし規律を遵守する「誉れ」や名声を求めるのはインシュテッテンの領分であり、エフィのそれではなかった。そして、エフィと離別した後に昇進したインシュテッテンは、幸福のともなわない名誉というものの空虚さを感じている。エフィはそのことを知らないにしても、読者にとっては最後に「誉れ」が理由として挙がるのには、白々しさを感じる。
 筆者はこの作品が「姦通小説」であることだけを前知識にして読み始めたのだが、姦通の相手であるクラムパス大佐が出てくる(第十三章)までには全体の三分の一を読み進めなければならない。それまでは、むしろ従兄のダーゴベルト・ブリーストと、しばらくして次には薬剤師で文芸趣味のある、せむし気味のギースヒュープラーが、エフィの熱心な信奉者として登場してくるのである。とくにダーゴベルトについては、第四章末尾のエフィと母との会話を読んだときには、いかにも意味深な伏線に見えてしまったのだが、それは筆者の単純な勘違いだったのだろうか。

 (母)「(…)お前ゲールト(=インシュテッテン)が好きじゃないんですか?」
 (エフィ)「どうしてあのひとを好かないわけがあるかしら? (…)あたしのことをよく思ってくれて、あたしにやさしくって、甘やかしてくれる人達をみんな愛してるわ。(…[この間に先の「ぶらんこ」の言及がある!]…)」
 「それでお前は多分従兄のブリーストも好きなんだね?」
 「ええ、とても好きよ。いつもあたしをはればれさせてくれるわ」
 「でお前、あれと結婚したいと思わなかったかい?」
 「えっ、結婚? そんなこと、とんでもない。あのひとったらまだ半分子供だわ。ゲールトは一人前の大人、立派な男よ。(…)」

 このあとには、母のある種の誘導尋問に乗る形で、年上の「人格者」で「紀律正しい御仁」で「主義を持った方」であるインシュテッテンに対して、エフィが怖れを抱いていることが明かされる。この怖れと後の「幽霊」への怖れとのつながりを考えるのも一興だが、ここで大事なのはエフィの母が、娘が本当は婚約者よりも従兄が好きなのではないかという、読者にも共感できるほどの疑いを抱いており、しかし娘のほうではそんなことは微塵も思ってもいない、というズレが存在していることである。従兄との結婚がありえない理由は、「あのひとったらまだ半分子供だわ」とのことであるが、エフィ自身がほんの子供にすぎない以上、ほほえましいセリフであると同時に、結婚適齢期に対する男女の二重基準をはからずも露呈させてもいる。さらに、小説全体の末尾においては、エフィの墓前で母は責任を感じつつ、最後に「あの娘は若すぎたのじゃなかろうか」(下p.308)と言う。その言葉を真に受けるならば、エフィがもっと大人になってからならば、そして従兄も「一人前の大人」になった頃ならば、もっと幸福な結婚をすることができたのではないか、ということになる。
 エフィが新居探しと、クラムパスから離れる目的とで、ベルリンに滞在している第二十三章では、未だに独身である従兄は、以前ほどには姿を見せなくなる。彼は真面目な顔つきで「君はどうも僕には危険すぎるんだよ、エフィ」(下p.130)と冗談を言い、母娘も笑うのであるが、ダーゴベルトの胸中は本当のところは分からない。同じ章では、彼が言った聖書とベルリンの将軍についての洒落を、エフィが全く解さない上に、不機嫌になってしまうという場面があるので、この二人が結婚しても別にうまく行くわけではなかったかもしれず、従兄との結婚の可能性は、母が元恋人のインシュテッテンを娘に渡したくないという嫉妬のゆえに仄めかしていたにすぎなかったかもしれない。しかし確かなことは、従兄と結婚すれば、エフィは「エフィ・ブリースト」のままでいられたということである。そのような含意は作者にどの程度あったのだろうか。

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