スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

残念な卒論 0

 残念な卒論
 Elende Bachelorarbeit — Eine Erzählung

 0

 高速道路はひどい渋滞であった。車がちっとも先に進めないでいるうちに、もう空が明るくなってきてしまった。背後からにじむように曇り空に広がっていく、ぼんやりした光で山辺良介は目を覚ました。エンジンの絶え間ない低音と振動のせいで、何の夢も見ていなかったし、それどころか今まで本当に眠っていたのかどうかもはっきりとしなかった。
 カーラジオは各地のUターンラッシュを告げていたが、運転席の父親はそれを聞いているというよりは、他のチャンネルに変える欲求を特別感じていないだけであった。家族の他の者にとってもそれはただの環境音になっている。助手席の母は数時間前まで、父の運転が下手なことや、列が動いているのに前の車両が詰めようとしないことなどに逐一論難を加えていたのが、いつの間にか眠りについていた。良介の隣にいる兄はといえば、出発してすぐにイヤホンで音楽をかなりの音量で流しはじめ、おまけに首が心配になるほど傾いた格好でいびきをかきはじめたが、今はどちらの音もしなくなっていた。コンビニおにぎりの包みをまとめてあるレジ袋が、助手席と運転席の間に置かれている。
 そういうわけで、良介はこの場においてカーラジオの音が鬱陶しいと今しがた感じはじめた唯一の者であった。その苛立ちは意識されたとたんに脳内にじわじわと広がり、以下のような言葉を獲得した。――まったく、渋滞情報なんておれは聞きたくもない。この先何キロ渋滞しているかを知ったところで早く着けるようになるわけでもないのに。わざわざ人をいらつかせるような情報を、しかも余計にいらつかせるような平板なトーンで繰り返し続けるなんて、どうかしている。この放送はこの退屈きわまる社会をまさに体現している! おれの生活に糧を与えるものはこんなうわべだけの情報ではないのに。おれはもっと深い、文化的な――
どうやら山辺良介はなかなか面倒な不平家であるようだ。ただし彼は以上の言葉を、寝起きの不機嫌な頭の中でかき混ぜていただけであって、例えばラジオを消すように父の背中越しに注文する、などといった図々しさを持ち合わせた人間では決してなかった。結局彼は、心底嫌なはずのラジオにも大人しく耐えるタイプであったし、上記のような愚痴を一通り並べ終えたあとでは、もうそれに慣れはじめてすらいた。その次に湧いてきたのは、手持ちぶさたな気分であった。
 山辺良介は下を向く。彼の両足の間には、ガムテープのほとんど剥がれているみすぼらしい段ボール箱があった。かつて彼は大学生のあいだ、東京の祖父の一軒家に寄宿していたのだが、就職で実家に戻る際に、もはや不要になった大学の教科書やノートやプリントをあらかた詰め込み、引越しの荷物を減らすために押入れに置き去りにしていったのが、この箱である。その祖父が年の暮れに死んだ。葬儀をすませた次の日、空き家になったかつての仮寓に久々に足を踏み入れた良介には、部屋のすべてが記憶の中よりもだだっ広く、寒気がするほどによそよそしいように思われた。家を売り払うかどうかはまだ決まっていないにせよ、それぞれの個人的な荷物は各自で処理するのがよいと思われた。車のトランクは祖父の息子であった父の私物で埋まってしまったから、仕方なくこのはぐれ荷物が現在彼の足下を窮屈にしているという按配であった。
 彼は段ボールを開け、一番上にあったプリントの分厚い束を片手でつかんで取り出した。そのとき車が急に動き出した。束の間から十数枚ほどの紙が滑り落ち、ばらばらに広がった。となりの兄が寝返りを打ち、前よりも一層首をねじ曲げた姿勢になった。
シートベルトで窮屈な体を前屈みにして良介は紙を拾い集めた。長い持続のあとでとつぜん動きや物音が同時に生起したためか、彼の頭の中でなにかスイッチが押されたような感じがした。気持ちがリフレッシュしたというわけではない――そのスイッチはいわば、彼の中のある四角い空間を突如くまなく白く照らして、それまで中に漂っていたはずのガス状のもやもやを見えなくさせ、そこは空っぽであると示してみせるような効果があった。彼は集めたプリントを窓からの薄暗い朝日に照らし、判読しようとした。日本語とドイツ語の混ざった文字列で、日本語の箇所には数行おきに赤鉛筆の書きこみがある。左側についた糊の跡――良介は次第に思い出してきた。残りの紙束の中を探ると、仮綴じ製本の透明なカバーを見つけた。そこに表紙だけがまだかろうじて挟まっていた。彼はそれを読んだ。

 卒業論文
 カフカの『変身』における「引きこもり」と社会の問題

 文学部 欧米文化研究 ドイツ文学科選考過程 学部4年
 山辺良介

 さて、これでようやく本題に入るのだが、その前に読者諸君に問いかけておきたいことがある。大したことではない。皆さん自身のことについてのちょっとしたアンケートのようなものなので、気軽に答えて欲しい。いや、答えてもらわなくてもかまわないから、考えるだけ考えていただくよう切にお願いする――なに? なぜそんなことが必要なのか、はやく先を続けろ、だって? 申し訳ない。お気持ちは良く理解しているつもりだ。しかし読者諸君の満足のためにも、皆さんがこの山辺良介なる全く架空の人物にいわばどれだけ感情移入するかしないか、するとすればその度合いはいかほどのものか、この点をはっきりさせておくことは、筆者にとって重要な問題なのである。つまり、あなたがこの主人公のような状況に置かれたら、どんな気持ちになると考えられるか、というまさにその点について、率直なご意見をお聞かせ願いたいのである。
 状況は簡単だ。およそ三年前にあなたは一本の卒業論文を書いた。(卒論を書いた経験のない人は、代わりに何か過去の仕事を思い浮かべてほしい。できればその仕事は、現在のあなたの地位とは無縁で、自らの人生における別の一時期に属するものであり、当時のあなたがそれに比較的長い時間と労力と意志をかけて取り組んだにもかかわらず、自らの多忙ないし怠惰のせいで、万事を尽くして素晴らしくそれを成し遂げたとは必ずしも言い難いようなもの、一言でいえば、トホホ感のあるものであり、したがって自分がそれをやったということ自体すっかり忘却の彼方に追いやってしまっているようなものであることが望ましい。――何と矛盾に満ちたお願いをしていることだろう! 忘れているものを思い浮かべてくれとは。)
 まあとにかくその論文だか仕事だかを、あなたは三年ぶりに思いもよらないタイミングで発見してしまう。しかもいかなる心の準備もないままに、前述のようなトホホ感の神髄を真っ向から突き付けられてしまうというおまけまでついている。というのも、賢明なる読者はすでにお気づきだろうが、山辺良介の提出した卒論の表紙には誤字があったのだ。彼の指導教授の、やたらと筆圧の強い赤鉛筆の線で、彼のドイツ文学科「選考過程」が無造作に打ち消され、その下に(ちょうど彼の名前の横に)「専攻課程」と大きめの字で訂正されていたのである。
 さて、彼はどうするだろうか? 皆さんがもし彼の立場だったら? その場で破って窓から捨てる――よろしい、そうすれば気も晴れてスッキリするだろうし、私としてもこれ以上話を書き進める必要はない。他には――見なかったことにして表紙を裏返し、そっと段ボールに仕舞いこむ? しかしあなたの先には、ハイウェイラジオが相変わらずひっきりなしに告げている通り、何十キロもの渋滞が続いている。実家に着くまでの二時間か三時間のあいだ、足下に気まずい思い出をしまいこんだままじっとしていられる自信がおありだろうか? やせ我慢するよりもいっそ思い切って中に目を通し、若気の過ちを笑い飛ばしてしまうほうが精神衛生上良いとも言えるのではないか?
 ある人からはこんなご意見があるかもしれない。自分は一般人としての分を弁えているから、論文などといった高尚なことに真面目にかかずらうほど大胆ではない、ただ卒業のために必要なだけの努力はしたし、それで現に卒業できているのだから、その生産物の出来が学術上拙かろうと多少の誤植があろうと、自分の恥になるというほどのものではない。偶然見つけたとしても特に感慨があるわけでなし、ましてや小説になるような出来事でもないだろう。少なくとも、自分は表紙を誤植するようなへまはしていないぞ!――
 別の人からのお便りはこうだ。自分もたしかに拙い卒論を書いた。そして二年後に、それよりはましであるとはいえまだ十分とは言えないような修論を書いた。今書いている博論はもっとましになっていると信じているが、なおけっして満足いくものにはならないだろう。学界に貢献するなんてまだまだおこがましい青二才だ。しかしどの段階も、自らを乗り越えてきた記念碑として私には大事なのだ。だから反省はあれど、気まずい思いなどは少しもない。もし山辺良介なる人物に、論文を真摯に仕上げる学問的熱意が少しでもあったのなら、なぜ彼はそこから逃げ出したのか? 自分から目を背けた相手に再会していたたまれない思いがすると言ったって、それは自業自得ではないか。
 お二人ともごもっともである。要するに、卒業論文にどれだけ思い入れを込めているかは人それぞれで、それが自分のアイデンティティに一ミリも関係ない人もいれば、大いに関係ある人もいる。しかし、これが問題なのだが……山辺良介はそのどちらでもないのだ。たしかに彼には、自分の卒論と自分の人格を結びつけるような理由はない。カフカの『変身』における「引きこもり」と社会の問題? そういえばおれはそんな研究をしたかもしれない。確か、社会に反抗する現代の若者をテーマにこの著名な文学作品を読み解こうというような構想だったな、何を書いたかもう覚えてないけれど――この程度だ。しかし同時に彼の居心地の悪さは、この「もう覚えてない」という否定が、嘘とまでは言わずとも、一種の強がりであることを物語っていた。
 誰か彼の気持ちを上手い比喩でズバリと表現してくれないだろうか? あまり親密にもならないまま疎遠になったかつての知り合いに、大学構内の人混みの中ですれ違って一瞬だけ目が合った時の気分? とっくに返し終わった昔の借金のことをふと思い出して、安心しながらも、なぜかまだ借りがあるように感じてしまう気持ち? 小学校の時クラスで飼っていたメダカがある日死んで、生物係として貯水池に流す役目を負わされたのを、どこかの店で暇つぶしにコケの生えた水槽を眺めながらふいに回顧する時の心情? どれも微妙だしまどろっこしい。とにかく、この冷静さと違和感とが相半ばする状態を、先ほどご登場いただいた二人を含め、読者諸君に果たしてどれだけ追体験していただくことができるのか、これこそが筆者のもっとも気にかかる事柄なのである。
 まあ、これ以上くよくよと思い悩むことはしまい。どうせ筆者でさえ山辺良介の体験を体験したわけではないのだし(語り手と主人公を同一視したり、主人公に語り手の性質が反映されていると見なしたりする読者は、小説とエッセイの区別を復習されることをお勧めする。私は断じてこのフィクションと無関係なのだ!)、したがって彼の心情描写が全くのでたらめであったとしても、彼自身をおいては他に誰も反駁のしようがない。ところがその彼までもが、自分の感じている気持ちをその都度内面に立ち返って検討するなどという面倒な習慣をあまり持たない人間なのである。
 さて彼は、恥ずかしい間違いのある表紙を何食わぬ顔を装ってめくり、一ページ目を読み始めた。……彼はしだいに、そのページと関係がある当時の一場面を思い出す。
 ドイツ文学科の研究室――四十人もいる学部生に比してずいぶんこぢんまりとした、そして不自然なくらい新しくて白い部屋だ。彼は正方形の大きな机の前に座って、黙って本を読むふりをしながら周りの雑談を聞いている。楽しげに話しているのは一人の同級生の女子である……なにやら文学の話をしている……どうしてこんなに楽しげなのだろう?

 →■残念な卒論 1

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。