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残念な卒論 1

 →■残念な卒論 0

 「先輩ちょっと聞いてもいいですか? 私みなさんがどう思って読んでるのかすごく知りたいんです……私ってどうしても登場人物の誰かが好き!ってなるとその人のことばっかり考えちゃって。お話の筋が分かんなくなっちゃう、って言ったら言い過ぎですけど、どうでもよくなっちゃう、みたいな? 全然気持ちとか描写されていないのに、ああこの子はいま悲しいんだな、とか、きっと裏ではすごい怒ってるんだとか、何ていうんですか、妄想が膨らんじゃうんですよ。あっ、ひょっとして私変態みたいで気持ち悪くないですか? すみません。でもそれって文学研究にとっては良くないことですよね、書かれていないのに勝手に妄想を付け足しちゃうんだから、厳密な論文にするなんてできないじゃないですか。あーもうどうしよう! もう一個お菓子食べようかな。これ美味しいんですよね。そう思いません?」
 先輩と呼ばれて事務机から目を上げて聞いていた博士課程の曽根原美里は、結局話がお菓子の話になってしまったので途方に暮れていた。
 大槻京華は机の中央にある、高級和菓子の空き箱(いつから置いてあるのか分からないが、とにかく風格のある四角い木箱であり、現代的な机や書類立ての中であまり馴染んでいないように見えた)のふたを開けると、容器に見合わないブルボンの安い個包装のお菓子の中から、一口サイズのバウムクーヘンを取出して予習中の中高ドイツ語テキストの上に置き、山辺良介にも同じものを勧めた。彼は気がない曖昧な返事をして受け取ったが、大槻京華はそれで満足したらしく、楽しそうに丁寧に箱を閉め直した。
 彼女は四十人いる学部四年生の中で唯一ここの大学院を受けることを公言しており、先輩たちに顔と名前を覚えられている数少ない学部生の一人である。彼女も先達にアドバイスをもらおうと、論文の書き方や学振や留学のことを細かく熱心に聞き出そうとしていたが、その聞き方がいつも何か突拍子もない感じを伴っていたので、周りは親切に教えながらも彼女の独特さにいささか面食らうのであった。くるぶしまであるゆったりしたロングスカートを身に着けており、動作のひとつひとつは実際そうでもないのに小柄な女性のそれを思わせた。愛嬌はあるがそれが人に向けられておらず、自分では人間に興味があると口癖のように言っているが人の目線にも無関心で、いつも話題が自己完結して一人で大はしゃぎしている。他の就活中の女子グループには距離を置かれていたが、本人は全員と仲の良い友達であると無邪気に信じこんでいた。
 曽根原美里はテンションの高い後輩に対し、表情では戸惑いながらも特有の冷静な一本調子と、誰に対しても公平なですます調でもって訊いた。「それで、質問は何ですか」
 「あっすいません。あれ何だっけ、忘れちゃいました。何か先輩にお聞きしたかったんですけど」大槻京華はお菓子を飲みこむと、全然別のことを思いついて続けた。「そうだ先輩、ニーベルンゲンの歌でどのキャラが一番好きですか?」
 「特に誰が好きかと言われますと難しいですね。特定の登場人物に注目するという読み方はしていなかったです。それぞれの人物についての伝説がどのように組み合わせられていったかという成立過程については色々研究があるようですが。専門ではないのでどうも」
 「そうなんですよね。ブルグント写本? ですっけ? 私も全然勉強不足で超恥ずかしいんですけど。先輩やっぱりさすがです、ご専門と全然違う時代のことでもやっぱり知っていらっしゃるんですね。私なんかがほんとに進学して大丈夫かな、なんだか畏れ多いです! (ここでにこやかに両手を合わせる動作)先輩の研究していらっしゃるゲオルゲもずっと読みたい読みたいと思ってるんですけど、いつも怠けちゃって。あとやっぱり、詩とか難しくて全然わかんなかったらどうしようと思って気おくれしちゃうんです。ましてや詩を研究するなんてほんとに、未知の世界って感じ」
 山辺良介はどんどん話が逸れてゆく大槻京華のようすを横目で見ていた。彼には分からない本や詩人の話がされていたので、この同級生の女が自分の知識をわざと謙遜しているように思え、勝手にむっとしていた。「文学好きを名乗る人たちの会話はいつもこうだ。いくつかの固有名詞だけで上滑りしてしまって作品の内容に全然触れない。するのは読んだ本と読みたい本の話題だけじゃないか。読むことが自己目的化している。まったく空疎だ」このようなことを思いながら彼は意地になって本を読むふりを続けた。
 「さっきも、岡野先生と卒論の面談してきたんですけど、今更だけどやっぱり、私の研究って薄っぺらいなあっていうか、根拠が薄弱っていうか、思いつきっていうか、とにかくなってないぞって危機感を覚えたんですよ。あっでも先生がそうおっしゃられたわけじゃないんですよ。先生は――あれっ、《教授》って言わないといけないのかな、まあいいや! 先生はいつも通りほんと優しくって、いつも通り首を傾けてニコニコしながら、面白い観点だねって褒めてくださって、でも足りてないところを的確に指摘されて。いいなあ岡野先生、ますます好きになっちゃいました。ほんと、お父さんになってほしい! それは無理か。でも本当にご家庭でも素敵なお父さんなんだろうなって。小さい娘さんがおられるんでしたよね、お会いしたいなあ。あれ、何の話でしたっけ……そうだ、ニーベルンゲンだ。それでですね、私卒論で書こうと思ってるのが、ハゲネの心理描写について書こうと思ってるんですよ――書こうと思ってるって二回言っちゃいましたね、恥ずかしい。あの、冗談だと思って聞いてくださいね。私、ハゲネはクリームヒルトが好きだったんだと思うんです」
 大槻京華は眼を爛々と輝かせて話し続けた。
 「もちろんハゲネにとってみればクリームヒルトは、自らの仕える国王グンテルの妻プリュンヒルトを公衆の面前で侮辱したひどい人ということになります。あんたなんか私の夫の妾にすぎないのよ、なんて言っちゃうんですから。でも何というか、それから後のハゲネの復讐の仕方が、不思議なんですよね。彼の復讐って、結局はプリュンヒルトの雪辱を晴らすためということになるんですけど、彼からしてみればクリームヒルトのほうが幼いころから自分が仕えてきた仲なわけじゃないですか。主君への忠誠という点では正しい側に付いていることになるんですけど、ぜったい心の中ではクリームヒルトの気持ちもよく分かってると思うんですよ。新参者で何かお高くとまってる感じの元女戦士のプリュンヒルトに対して酷いことを言っちゃうようなリーちゃんの性格だって彼はよく知っているはずなんです(あっ、リーちゃんっていうのは私が勝手につけた愛称なんですけどね)。私思うんですけど、ハゲネは最後までリーちゃんのことは憎んでないんです。自分が彼女に殺される間際になってもです。たしかにジーフリートを殺した時には結構キツイことも言いますよ。『このことが彼女に知れたからといって、かまうものか。彼女はプリュンヒルト様の御心を曇らせたのだから。どんなに彼女が泣き悲しんでも、俺は何とも思わんぞ。』でも何かこれって、ツンデレっぽくないですか? 罪悪感を隠そうとしている感じがすごいしませんか? そのちょっと後でグンテルがリーちゃんに会う時にも自分は行こうとしないんですよ、リーちゃんが自分のせいで悲しんでる姿を見たくないからって。でもそれだったらそもそもジーフリートを何も殺す必要だってなかったはずなんですよ、周りの家臣たちはみんなもっと穏便に済まそうとするのに、ハゲネだけジーフリートへの怒りがすごい。その動機がなんだか不明な感じがするじゃないですか。だから私、やっぱりハゲネはジーフリートに嫉妬してたんじゃないかなって思うんです。自分と同じような臣下の立場に一度は身を置きながら、自分が大切にしてきたお姫様をぬけぬけとゲットした男への嫉妬っていうか? やっぱりハゲネはツンデレかつヤンデレなんですよ! 職務に忠実なフリして実は強がりで素直じゃない人みたいな、そういうのホント好きだーって思っちゃいます。後篇はジーフリートもプリュンヒルトもいなくなっちゃいますし、実質的にハゲネとリーちゃんの愛憎劇といってもいいんじゃないかな。私初めてニーベルンゲンを読んだときから、この勝手な裏設定みたいなのが頭に染み付いちゃって、それで卒論もそのことを書こう! ってずっと決めてたんです。でもいざ書こうとすると、いかに自分の妄想を実証するのが難しいかっていうか、もう無理じゃん、っていうか。まず序文で何をどうやって書けばいいかから詰まっちゃって。それで岡野先生に泣きついたんですけど、『最初からじゃなくても、書きやすいところから書けばいいんだよ。序文は最後でもいい』っておっしゃられて。でも私そんな器用な書き方できるかなあ、長い文章書くのなんて高校の卒業文集以来かも! そういえば私卒業文集のとき十ページくらいの小説なんか書いちゃって、もうすでに黒歴史って感じなんですけど――」
 白いドアが勢いよく開き、場違いにレトロな鈴がチリンチリンと鳴ったので大槻京華の黒歴史の話は遮られることになった。入ってきたのは梅田一馬という金髪に青いベストを着た細身で色白の男である。何も喋っていないときには高慢で気難しそうな表情をしているが、口を開くとフランクな関西弁のせいでお人良しな顔つきに変貌したように見える。山辺良介は見た目のいけ好かなさから当初は彼を敬遠していたものの最近では口をきくようになっていた。梅田一馬はやれやれといった口調で「あー終わった終わった」とこぼしながら山辺良介の隣の椅子に新品の就活カバンをどかっと置き、卒論のレジュメを仕舞い込みながら彼に声をかけた。「新村教授やけど、ちいとばかし休憩するさかい、つぎ十五分くらいしたら来て言うとったで」
 「わかった。面談どうだった?」
 「どないもこないもあらへんわ。書きさしの序論持っていったら『ええよええよ、この調子で書きや』てな感じで。まあユルいんのは楽でええけどな。良介何読んどるん?」
 「これ? カフカの『城』ってやつ。まだ読み始めたばっかだけど」
 「何やようわからんけど分厚いもん読んどるなあ。卒論それでやる言うたらウチやったら書き出す前にへばってまうわ」
 「いや、書くのは『変身』のほうにしようと思ってる。でも一応他の作品も読んどかないとなと思って」
 「えらい真面目やなあ。ウチもゲーテやるから言うて一冊借りてきたけど、よう見たら全部で六冊もあるん気づいてもうて、あかんこれってなったわ。漫画やったら六冊くらい余裕なのにな」
 「えっ、梅田くんもう序論書いたの? すごい」大槻京華がワンテンポ遅れて話に入ってきた。「どんな感じで書いたの? 見せてほしい!」
 「おおきに。恥ずかしいから見せとうないわ。京華ちゃんなら全然書けるやろ、文学少女ほんま格好いいと思うで。頑張ってや……ああ美里さん、コーヒーの水入れてきましょうか? いえいえ、忙しいでしょうから座っといてください」曽根原美里が空になったドリップコーヒーの機械を開けているのに気付いて彼は言った。めったに来ない研究室で(大槻京華のような人を除き、学部生は面談の待ち時間くらいしか部屋に来ることはない)ほとんど話したこともない先輩にうまく気を使える梅田一馬の後姿を見ていた山辺良介は、こいつが就活強者なのも肯ける、どうせもう内定を何社も持ってるんだろう、くそっ、などと取りとめもないやっかみを抱いていた。
 「山辺くんはカフカなんだね。いいよねー『変身』、私読むたんびに泣いちゃうもん」大槻京華が向き直って話しかける。
 「そんな泣くような話だっけ」
 「泣いちゃうよー。ザムザがほんとかわいそうで。妹を音楽学校に通わせたいから頑張って社畜してたら、ある日突然虫になっちゃうんだよ。それであんなに働いてたのに家族にも酷い扱いされて、妹だけが優しいから食べ物とか出してくれるけど、ザムザは腐ったものばっかり美味しいと思うようになっちゃって。それでだんだんグレーテも大好きなお兄ちゃんに対してじゃなくて、虫を相手にしてるんだって気持ちになってきて、ザムザが死んじゃったあとには家族でお出かけして、みんなほっとした感じで……グレーテはすっかりお年頃になって、両親がそろそろいいお婿さんを見つけなきゃって思うところで終わるんだよね。なんかすごい皮肉っていうか、悲しくない? もう思い出しただけで泣きそう」大槻京華は本当に泣きそうな顔をしてみせたが、楽しくてたまらないという顔のほうが勝っていた。
 「僕は違うと思うな」山辺良介は独り言のときには《おれ》と言い他人と話すときは《僕》と言う癖があったのだがそれはともかくとして、彼のこの否定の仕方からは、大槻京華があらすじを勝手につらつら説明したのでお株を取られて気を害している様子が明らかに見て取れた(もちろん大槻京華はそんな事には気が付かないためこれは全く問題にならなかった)。「カフカは家庭の悲劇を描こうとしたんじゃなくて、現代社会を批判したんだと思う」
 「あーそうかも。虫っていうのが、現代社会で病んじゃったサラリーマンの比喩みたいな感じ? 面白そう!」大槻京華はまた議論を先取りしてしまうのだった。「ダメなんだよね私、何でもお話をそのまんま読んじゃうから、社会とか歴史的背景とか読み取らないといけないってなるとすっごい苦手で。虫が出てきたら、あ、虫なんだな~って思っちゃうくらい単純だから、なんか暗喩とか考えようとしてもありきたりなことしか思いつかないし、つまりセンスがないっていうか? やだ私、また自分の話ばっかりしてる。じゃあさ、山辺くんは序文で、当時の社会的状況とかを説明する感じになるの?」
 「うんまあ、そんな感じ」山辺良介はこのとき手元に面談用のレジュメと、試しに書いた序文を持っていたのである。面談の段階で一文字も書いていないというのも体裁が悪いだろうと思って前日に急いで仕上げた、半ページにも満たないものだ。もちろん大槻京華の興味の網に捕らわれたら面倒なので彼は言わずにいた。それに、当時の社会的状況のことをちゃんと踏まえて書けているという自信も彼にはなかった――「文学少女」である彼女に対しての劣等意識もあったかもしれない。この女、楽しそうにぺらぺら喋りながら厄介な質問をしてきやがって。おれをからかっているのか? いや、多分からかっているのではなく、本当に文学の話が好きでやっているのだろうな、だからなおさらタチが悪い。これが大学院に進学する人、研究者になる人というものなのだろうか。だとしたらおれの卒業研究はいったい――えい、かまうものか、あんな社会不適合者の言うことなんか。
 山辺良介が色々考えている間に私たちは、今から彼が教授に見せることになっている序文草稿とレジュメをこっそり見てみることにしよう。

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