Oomph! - Alles aus Liebe [和訳]

 

 Oomph!
 Alles aus Liebe (2015)

 すべては愛ゆえに
 歌詞和訳

 Ich schneid' mir Zeichen in meine Haut
 Und in mein Fleisch brenn' ich ihren Namen
 Leg' mich auf Nägel, auf Feuer und Eis
 Ich tu' mir weh, ich kenne kein Erbarmen

 我が肌に印を刻み
 我が肉体の裡に彼女の名を焼き付ける
 針の筵、炎や氷にも身を横たえ
 我が身を痛めつける、容赦など無く

 Leg' mich in Ketten, in dunkelster Nacht
 In meinem Traum werde ich zum Sklaven
 Ich will mich geißeln, wenn ich sie seh'
 Ich fleh' sie an, mich endlich zu bestrafen

 身を鉄鎖に繋ぎ、宵闇の裡に
 夢の中にて自ら奴隷となる
 わが身を鞭打とう、彼女を見るきわに
 乞い願う、我を終に罰さんことを

 Geh' auf die Knie und dann leide für sie

 跪き、彼女がために苦しむのだ

 Alles aus Liebe zu ihr
 Alles und mehr wird passier'n
 Ich will mich verletzen, will alles wagen
 Grausame Schmerzen werd' ich ertragen
 All das nur aus Liebe zu ihr

 全ては彼女への愛ゆえに
 どんな目にでもなお遭おう
 我が身を傷つけ、何も恐れず
 苛酷な痛みでさえも耐え忍ぶだろう
 全てはただ彼女への愛ゆえに

 Ich zieh' mir Fäden durch meinen Mund
 Ich werde stumm, um Demut zu beweisen
 Reiß' mir die Seele aus meiner Brust
 Und um mein Herz leg' ich ein kaltes Eisen

 糸を我が唇に縫い通し
 恭順を示すべく唖となろう
 我が魂をこの胸から引裂き
 我が心臓に冷たき鉄枷を嵌めよう

 Geh' auf die Knie und dann leide für sie

 跪き、彼女がために苦しむのだ

 Alles aus Liebe zu ihr
 Alles und mehr wird passier'n
 Ich will mich verletzen, will alles wagen
 Grausame Schmerzen werd' ich ertragen
 All das nur aus Liebe zu ihr

 全ては彼女への愛ゆえに
 どんな目にでもなお遭おう
 我が身を傷つけ、何も恐れず
 苛酷な痛みでさえも耐え忍ぶだろう
 全てはただ彼女への愛ゆえに

 Dein Paradies ist ein kaltes Verließ
 Geh' auf die Knie und dann leide für sie

 汝の楽園は凍えた地下牢
 跪き、彼女がために苦しむのだ

 Alles aus Liebe zu ihr
 Alles und mehr wird passier'n
 Ich will mich verletzen, will alles wagen
 Grausame Schmerzen werd' ich ertragen
 All das nur aus Liebe
 Aus Liebe
 All das aus Liebe zu ihr

 全ては彼女への愛ゆえに
 どんな目にでもなお遭おう
 我が身を傷つけ、何も恐れず
 苛酷な痛みでさえも耐え忍ぶだろう
 全てはただ愛ゆえに
 愛ゆえに
 全てはただ彼女への愛ゆえに

独文独歩 54

 トルストイ
 『戦争と平和』

 抜き書きとメモ

 ――
 アンドレイはクトゥーゾフの副官。戦況を伝えるため若いフランツ皇帝(神聖ローマ帝国最後の皇帝(~1806)、オーストリア皇帝1835まで、メッテルニヒと組んだウィーン会議の主宰者、反動政策。フランツ・ヨーゼフとは別人)に単身で謁見。何時に出発したかとかどうでもいいことを熱心に聞いてくる。

 ――
 ワシーリイ公爵(外交家)の息子アナトーリ(乱暴者)。老公爵ニコライ・ボルコンスキイ(偏屈で金持ち)の娘マリヤ(不器量で敬虔)。との縁談。
 嫌がるマリヤにおめかしをさせるリーザ(小柄で元気。アンドレイの妻。妊娠中にやつれる)とブリエンヌ(フランス女の侍女)。

 「もし誰でもこうして黙ってるのが、きまりが悪いと思う人は、どうぞ遠慮なくお話し下さい。ただし私はいやですよ。」とでもいうようなふうつきであった。/アナトーリの沈黙

 社交から遠ざかっていたニコライ家の女三人は三様に媚を示す。とくにブリエンヌは「哀れな母」の空想に心酔し、アナトーリとさっそく密会。それをマリヤが見つけ、人のいいマリヤは自分の縁談を断り、二人を結婚させてやりたいと願う。

 ――
 ニコライ・ロストフの負傷(じつは軽傷)と昇進の手紙。仮寓中のアンナが母に話す。
 やんちゃな末息子ペーチャ、姉たちのメソメソをからかう。
 恋人ソーニャ。
 ナターシャはボリスを忘れ、イタリア人の歌教師に惚れている。
 
 彼女の顔には困難な切断手術を終えて、自分の技術を驚嘆させるために参観者を導き入れる、外科医にも似た誇らしい表情が浮んでいた。

 返信といっしょに軍装用の六千ルーブリを近衛軍宛に送る。

 ――
 ロストフは普通師団の軽騎兵(ただし仕送りは誰よりもいっぱいある)として、副官のアンドレイは一目見て軽蔑したくなる。アンビヴァレンツ。
 しかし閲兵式のとき皇帝を見て感動し、決闘を申込むのはやめる。

 それはなんだかラッパ手などの吹奏ではなく軍隊自身が(若いアレクサンドル一世)皇帝の接近を喜んで、自然に発した音のように思われた。

 ウラー!
 皇帝のそばに醜い負傷兵がいると「侮辱されたような気が」する
 皇帝はショックを受けたふう。御不例

 「なあ、出征中は誰も惚れる相手がないので、この男、陛下に惚れちゃったよ。」/ジェニーソフがロストフに。
 かのアウステルリッツの戦いに先立つ数日間はみんなこんな感激に酔いきっていた。
 ウルムの会戦(オーストリアの負け。ナポレオンはウィーンのシェーンブルン宮殿に入る)の報復という形。

 ――
 軽蔑的な口のきき方をしようと思った時いつもするように、ロシヤ語をフランス風のアクセントで発音しながら、アンドレイ公爵はこう言った。

 「不文律の階級序列」を意識するボリース

 ――
 時計の歯車のような軍事のメカニズム。「伝達の一分前まで平然として静止している」
 時計において無数のさまざまな歯車や、滑車の複雑な運動の結果が、たんに時を示す針のゆるやかな正しい運動にすぎないと同じく、これら十六万のロシヤ、フランス両軍の活動の複雑な結果(…)も、たんにアウステルリッツの戦い(…)の敗北にすぎなかった。とりもなおさず、人類史の文字盤における、世界歴史なる指針のゆるやかな移動にすぎないのである。(1. p.496)

 ――
 軍事懐疑、老人派(クトゥーゾフ)の慎重論に対して若者派(ビリービン、ドルゴルーコフ)の決戦論が勝つ。ナポレオンは決戦を恐れて会見を申込んだりしているのだと考える。
 ヴァイローターの作戦命令書の読み上げ。隻眼のクトゥーゾフは寝ており、終わると起きる。

 それはちょうど、子守唄に似た粉挽車の響きの絶えた時に眼をさます、水車場の主人に似ていた。彼はランジェロンの言葉に耳を傾けたが、まるで「ああ、君たちはやっぱりそんなくだらんことを言ってるのか!」というように、急いで眼を閉じていっそう低く頭を垂れた。

 早く寝たいということになりアンドレイは自分の意見を開陳させてもらえない。

 ――
 早朝の霧の深さ。どこに行くかも分からない。焚き火の煙や硝煙が目に染みる。
 行軍が渋滞。憤懣を味方のドイツ人たちへ転嫁。腸詰屋め!
 士気阻喪。司令官たちも作戦に不満なので激励しない。
 霧が晴れると、川のこちら側、目と鼻の先にナポレオン軍がいる。窪地=霧の海へ下るロシア軍を待っていたのだった。
 不意を突かれて敗走するロシア軍の中、軍旗をもってアンドレイ突進。しかし棒で殴られて仰向けに倒れ、空を見て悟りを開く。そこにナポレオンがやってきて「見事な死にようだ!」捕虜になる。しかし高い空と比べるとナポレオンが小さいものに思われる。見込みのない負傷者として土地の住民に世話をまかされる。

 ――
 右翼に対する命令を皇帝に聞きに行くロストフ。しかし味方は負け、皇帝が意気消沈しているところに話しかけられない。

 凍った池の上を通って逃げようとするが全員溺れる。

 ――
 ドーロホフに間男疑惑をいたき決闘で撃つピエール。そのあと妻エレンと喧嘩して別れて出ていく。
 駅の待合室でフリーメーソンの老人に会う(アダムの首の指輪)

 フリーメーソンの男[=バズジェーエフ]は注意ぶかくピエールをうち眺めて微笑した。それはあたかも、いく百万の富を握っている長者が「私には五ルーブリの金もありません。それがあれば幸福になれるんですが。」と訴える貧民に、微笑してみせるようなあんばいであった。

 ペテルブルクで入信の儀式。目隠し、脱衣、貴重品の譲渡、剣の突きつけ、光、三組の手袋。ワシーリイ公爵の申し出もはねのけて南方へ。

 彼が結婚してしまって、娘や母親たちにとって期待することが少しもなくなってしまうと、彼は一時に社交界の評判を失墜した。そのうえ、彼は社交界の好感を求めることがへたで、しかも、それを望もうともしなかった。

 ――
 ドーロホフとニコライとソーニャの三角関係。結婚拒絶されたあとドーロホフがニコライをカードで四万三千ルーブリ負かす。
 ジェニーソフがポーランドのマズルカを踊ってナターシャを引き回す。彼はのちに軍隊で食糧トラックを強奪する。

 ――
 ボリースの出世。エレンとお近づきになる。

独文独歩 53

 【翻訳】トーマス・マン:帝国内務省への手紙 (1934)
 Thomas Mann: [An das Reichsministerium des Inneren] (1934)

 以下に訳出する手紙は、トーマス・マンが予期せぬ亡命から一年後の1934年に、差し押さえられた財産の返還とビザの更新を求めてナチスの内務省に宛てて書かれたものである。マンはミュンヘン警察の自分の財産に対する専横が、帝国本部の方針や言明とずれていることを感じ、上層部である内務省に警察当局の統制を求めようとしたのである。しかし、これらの要求は黙殺された。
 手紙は語気鋭くナチスの不法性を糾弾し、また嫌悪感をも直接はっきりと表明しながらも、同時に敵対の意志がないこと、自分が政治的に無害でありつづけることを再三強調している点で、両面的である。迎合もせず、追放もされないような中間の道をうまく選ぼうとしているところは興味深い。
 

 1934年春
 チューリッヒ、キュスナハト
 シードハルデン通り33番
 ベルリン、帝国内務省御中

 帝国内務省の皆様に私から、所轄のミュンヘン警察当局が私の前年四月一日期限切れの旅券を認可し、またドイツ国内に存する、八か月にわたり占有されている私の所有物、すなわち家屋、書棚、動産、財産を返還して下さるべく、お取り計らい頂けるようお願い申し上げます。
 以下は本請願の論拠と解説に用立つものです。
 1933年2月11日に私は四十年来常住の地であるミュンヘンを立ち去り旅行を開始いたしました。これはワーグナー記念年に際してのもので、私はアムステルダム、ブリュッセル、パリへ向かいました。私は当旅行をかつてのどの旅行とも同様、何らの他意なく、帝国の政治的状況とは全くもって無関係に企てたのでありまして、来たるべきものへの予感は全くありませんでした。私が旅行から住み慣れた職場の地へと帰還し得ぬことになるなどとは、他の多くの旅行と同様、推測の及ばぬところでありました。
 私の上述の都市における諸講演の完遂の後に、私は妻と共に予定通り二、三週間を見積もった療養滞在をアローザにて行いました。そして当地にて、選挙の結果とドイツの政治的大変動の報せがわれわれを驚かせたのです。私はこの報せに、帰郷を少しでも躊躇う理由を見取るには、差し当たってあまりにも離れていました。逆に私の最初の衝動は、まさにこれらの状況下において即刻自宅へと戻らねばというものだったのです。 各方面からの友人の警告が私に届いてきたときには、トランクの荷造りも終えていました。国境をまだ越えられないかもしれない、個人的安全が保障されていない、バイエルンの新しい国家政府が私を目の敵にしている、逮捕される危険がある、等々の警告です。これらの抗議が私に、政治的変化の最初の騒乱とそのような変化に伴う権利の空白状態を、外国にて待ち通すように指定したのです。あの都市は、私が人生の大半を名誉のうちに過ごした都市であり、その市役所は私の五十歳の誕生日とノーベル賞の表彰を心からの祝典で執り行って下さったものです。また私が数十年を通じて、不愉快な状況下においてすらも、その都市に誠実であり続けたことで、私に感謝を述べた都市でもあります。この私の第二の故郷が、私の追放を目論んでいるなどとは、私は当時考えることはできなかったのです。
 にもかかわらず、四月初めに『ワーグナーの街ミュンヘンの抗議』の題のもとに私に抗して動きだしたラジオ運動と出版運動とは、まさにこのことを目指していたのでした。私はこの騒がしい、驚くべき悪意をもって企てられた攻撃についての報せが私に殺到したとき、ルガーノに滞留していました。友人、ロータリークラブの仲間、芸術家、同僚、それまで私に一見好意的にみえた、いや献身的にもみえた人々がこの攻撃を私に対して企てたのです。私が自分の状況について抱いていたイメージはそうして一挙に変わってしまいました。バイロイトの巨匠についての多層的な研究である、『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大』は、私が冬に執筆し『ノイエ・ルントシャウ』の四月号に公開したものです。それは私が最初2月10日、旅に発つ前日に、ミュンヘン大学大講堂にて行った講演からの抜粋であり、講演はミュンヘン文化生活局の筆頭代表者たちを含む五百人の聴衆に心からの満足を表明せしめたものですし、またアムステルダムとパリにおいても同様の成功を再び収めました。この論文は悠々としており、偉大な演劇家の作品に寄せる、深く根を張った、生涯にわたって保たれてきた情熱で満たされていました。論文はヨーロッパの批評界からは、生産的には通常あまり実り多いとは言い難い記念祭への、最も堂々たる精神的寄与のひとつとして見なされました。論文の批判的な調子にもかかわらず 、まさにそれを通じて、魅力的な現象へのある生き生きした関心を、その現象がもはや博物館向きでしかないように感じられ問題としては萎びた些事に堕してしまったように思われていたまさにそのときに、再び呼び起こすということに、この論文がぴったり適していることを私はよく知っていたのです。
 かの運動の開催者たちはしかし私の論文に突如ドイツの巨匠への、しかもその上外国の聴衆を前になされた侮辱を見たのでした。かれらの「抗議」とやらは、大小様々の名、個別の名士たち、諸機関ないし諸連合等のまったくの大衆動員による署名がなされていましたが、それ自体ある独特の、これ以上なく屈辱的な言い回しを用いて起草された私の人格ないし国内外を前にした生涯の功績への侮辱だったのです。確かなことですが、署名に連ねられた人々の大多数は、私の論文を読んでもおりませんし、この抗議の極端で、部分的には――正直に申しまして――笑止千万とも言える本文を知らされてすらいない人もいるでしょう。確かなことですが、参加者の多くはその発起人たちに至るまで、今日すでに自分の当時のやり口について決して純粋な満足をもっては想起しえなくなっているでしょう。 しかしラジオ放送や全新聞雑誌によって流布してしまい、このような一瞬間のうちにきわめて興奮した大衆のもとに投げ入れられてしまったので、この報せは恐ろしい中傷としてより以外の意味を持たなくなったのです。私がもしたまたま現場にいたならば、誇張なしに申しますが、この中傷によって私は健康と生命を失っていたでしょう。私は国外滞留が思ったよりも一時的なものではないということ、そして私にこれらの危害を加えた人間たちのもとではそう早く再び暮らすことができないであろうことを把握せねばなりませんでした。
 私のミュンヘンに残してきた財産に対して執られた処置は故郷での私の扱いがどのようであるかについての詳細をやがて私に明らかにしました。まだ四月のころに、表向きは政治警察の命令ということで、私の二台の自動車、ホルヒのリムジンとビュイックのフェートン 、それらだけでなく、さらに息子のDKWの軽自動車までもが車庫から取り出されました。それも押収といったものではなくて、単にミュンヘンの突撃隊(SA)によって引き続き乗り続けられ、使い倒されてしまったのです。この公用徴収の違法性については今日ではもはや異論の余地なきことですが、弁償は全くなされておりません。
 それから程なくして私の自宅ならびに家具調度、銀行口座、謝礼金の差し押さえが行われました。この措置が、私の遠隔地滞在が持続的であると明らかになった場合に帝国逃亡税を請求する財務局の利害に基づいて起こったものである限りは、これに反論する余地はありません。しかし実際のところは、以前に明確な形で政治警察がしてくださった約束に反して、財務局への弁済が済んだ後にもなお差し押さえは今日に至るまで解除されていないのです。私の弁護士 であるヴァレンティン・ハインス博士は、多数の表彰を受けた戦争参加者でありますが、彼は職務上の熱意としてよりもむしろ人間的な結びつきから、私の利益のためにこの年の間に例を見ないほどの献身と疲れを知らぬ粘り強さをもって尽力してくださり、帝国逃亡税の支払いに必須の金額を捻出することに成功したのです。私の全財産のかなりの割合を占めた金額の支払いは警察への転居届提出と同時に行われましたし、財務局は満足しました。私は自分の状況を法的に認められたと考えてもよいことになり、少なくとも私の文学的仕事の収穫が 得られなくなることはもはやなかったのです。しかし私の弁護士が苦情や返還請求など果てしのない努力をしたにもかかわらず今日に至るまで、私のミュンヘンの財産ととりわけ私の自宅ならびに動産、そして私の仕事にとってあまりにも欠かせない書斎を、政治警察の拘留のもとから解放することには成功していないのであります。それどころか、ただ押収のために独占されたのであって決して公用徴収されたのではない物件であるはずの私の邸宅は、政治警察によって、何ら私の同意なしに数か月の長きにわたって十五人の私的な宿泊施設のための使用に委ねられているのです。これは自動車の持ち去りとまさしく同様の種類に属する処置でありまして、ただそれよりもかなり後になって遭遇したに過ぎませんし、前件と同様、革命的行為として解釈されることは到底できないものです。そして私の財産の返還がなされていないのと全く同様、現在に至るまで私の期限切れビザの延長もしくは更新もなされておりません。現地または領事館におけるあらゆる試みは失敗し、また失敗せざるを得ませんでした。なぜなら私が聞き知ったところでは、私に市民権証明書を交付することを拒否しろというミュンヘン政治警察の回状が外国にあるドイツの諸事務局に提出されているからです。ベルンのドイツ公使館のミュンヘンへの働きかけも効果を挙げませんでした。まだつい先日にチューリヒの総領事が、ミュンヘン警察本部における状況が変化し法的に完全に浄化されたということを示唆し、私に二、三の直接的な試みを勧めてきたのですが、その企ても理由の提示なしにあっさりと拒絶される結果に終わりました。
 ミュンヘン警察当局のやり方が首尾一貫していないことは歴然としています。苦い経験によって私は、ドイツへの、私が一世代よりも長きにわたり住み働いてきた都市への、私がそこに居を構えそこで私の余生を終えようと考えていた故郷への帰還を、期間も分からぬまま断念し、私の住居をドイツ語圏の外国に置かざるを得なくなったのです。法制上の移住税は――それは私の生活状況をもちろん根底から変化させてしまった支払いでしたが――支払うのに吝かではありません。しかしそのことからは、私に残りの財産を返還するという結果も、合法的にスイスに在住しているドイツ市民であるこの私のビザが更新されるという結果も引き出されていないのです。この支払いに何の意味があったのでしょうか? 祖国に恥を塗ったことなど一度もない、いやそれどころか、様々の侮辱を受けたゆえにあえてこう言うのですが、まったくその反対だったと主張しても許されるであろうような一人のドイツの作家が、こう扱われていることに外国は納得しないでしょうし、文化国家かつ法治国家としてのドイツの体面にとってこのような扱いは為にならない、と言わざるを得ないのではないでしょうか? もちろん、緊急の場合には市民権証明書がなくても生活はできます。私がこの一年来滞在してきたフランスとスイスの諸都市は、私に客人としてのもてなしを示してくれました。私はドイツ人としてそれに恥じ入った――そう言わねばなりません。かれらは私の裡に何らかの政治的機構の代表者を見たのではなく、ドイツ精神の代表者を見たのでした。そして帝国最上層の省庁はこの見解に喜んで賛同しているようにすら見受けられます。私からドイツの名を剥奪するという考えを、この決定的な地位の方々は考慮に入れておらず、とにかくその考えを否認しました。しかし私に対するこのミュンヘン警察当局のビザの拒絶ならびに我が財産の勾留という処置の決定を通じて、あらゆる法的かつ論理的な根本状況は取り去られてしまったのではないでしょうか?
 私はここで、本件の解決を遅らせている悪意の動機となっている政治的諸背景についていくらか紙面を割いて検討する必要があります。私の弁護士がミュンヘンの省庁の者から示唆されたところでは、この解決に対立している困難性は、私が「マルクス主義的作家」であるという事実に起因するのだということだそうです。これは私の影響力と精神的存在についての違和感のある単純化であり、まったくの誤認であります。何よりもまず私の作家としてのドイツ国内ないし国外における名声はドイツ共和国の十四年の賜物などではなく、共和国に結びついてなどいないのです。数百万部にもなって流布しドイツブルジョワにとっての家庭読本とされることとなったあの家族小説は、世紀転換期に出版されたものですし、それにさしあたって続き、私の文学的イメージをより完全なものにさせた作品群は、同じく大戦より前の時代に属しているのです。私の性質の重点はこれまでもまたこれからも精神的・芸術的なものに置かれるのであり、政治的なものにではありません。私の生産物から発した国民への効果は、道徳的かつ形式的、そして文化的な種類のものだったのです。私が倫理的・美的なものを自分の本来の領域として感じ、政治的・社会的領域を価値の劣ったものとして無視してきたという、まさにその点において私は自分を「ドイツ的」であると信じています。大戦の激動が私にもまた政治的告白を強いましたが、その頃にまさに政治化、すなわちドイツ精神の民主化とよばれるものが現れたのであり、それに対して私は(『非政治的人間の考察』において)戦いを挑んだのでした。この本は猛威をふるい侵攻してくる政治を前にしてロマン的・アポロン的な市民性が行った唯一の偉大な退却戦でした。自分がそこに結びついていると感じている、過去と伝統の偉大なる価値を、革命的なものに対して勝利する見通しが全くないにもかかわらず擁護するということは、私にはいつも作家にとっての尊い軍人的名誉に満ちた任務であると思われたのです。
 この意味に従って私は、やがてドイツ国内とドイツを超えて勝利を収めることになった革命に抗して行動したのでした。私は保守的・非政治的な『考察』の意見のもとにはとどまり続けていませんでした。時代の経験が私に、人間的、人道的な問題を、ひとつの全体性、ただし否応なしに政治的・社会的なものも属しているような全体性として把握することを教えたのです。それはもちろん、例えば政治的なもの、国家といったものを、全てであると捉えてそれを全体主義化しようとするのとは別のことでした。私の欲するところではなかった共和国は、私にはある運命的に与えられた状況のように思われました。そこで私は戦後の時期にいくつかの演説や論文で、私の民族、というより民族のうちで私が影響力を持っていた層に、この運命に甘んじさせることを試みたのでした。その際、とりわけ『ドイツ共和国について』というエッセイの中で、私はドイツロマン派が提供した伝統的な結び合わせの能力を使用したのです。平和への愛と、私の国民を運命によって課されたかれらに固有の課題とだけでなく、世界とも、ヨーロッパとも和解させたいという願いとが、私の手をこれらの仕事のもとへと導いたのでした。それは義務感に由来するのであって、思い上がりによるものではありませんでしたし、常に芸術家的な働きを伴った仕事でありました。私はドイツのしきたりの中に自分があまりにも安全に隠れているのを感じていたので、自分のヨーロッパ的共感を自分のドイツ性の侵害ではないかと懸念することなどありえませんでした。ひとりの作家がヨーロッパ世界には愛国的な顔を向け、しかし自分の国にはヨーロッパ的な顔を見せるということは、ゲーテの時代からドイツでは新奇なものではありません。私の作品が外国の人々の眼に入るようになって以来――およそ戦争勃発の頃以来ということですが――かれらは私を常にドイツ特有の人物であると見なし、私の本がどれもドイツ国内、そしてドイツの文化・精神形態から以外のどこからも成立しえなかったであろうものであることを大いに感じていたのです。このことは、少なからぬ同郷人が私のうちに根なし草の知識人より他の何も見出そうとせず、私の著書のある種のヨーロッパ的能力を無性格な国際主義と取り違えたということについて、ある程度は私の気持ちを落ち着かせました。
 私が政治への立ち入りと説得によって自分を「害した」ということや、ある詩人が市場と公的な意見の戦いの競技場へとそのように「下降」することが多くのドイツ人にとって価値を損なうことであり詩人として名誉を失わせるようなものだと見なされるということ――これは真にドイツ的な非難でありまして、しかし私が時流に従って泳いでいたならば、当てはまることのなかった非難だったでしょう――このことを私はよく知っていましたし、そのことに苦しまねばなりませんでした。自己中心的で生活の手管に長けるという意味では、黙っていた方がより賢かったでしょうし、悠々としていられたでしょう。それでも私は、私が同国の人々に表現しようとしたように、「課題としての共和国」を真面目に引き受けたのでして、討論というものがあった限りは、私が正しく善いと見なしていることのために語ることを続けていったのです。これらが「マルクス主義」であったなどということは、ほとんど当を得ていません。私がドイツの市民階級に――すなわち私自身の階級、私自身がそこに由来し結びついている領域に――政治的に社会民主主義的な労働者階級の側、この文化的に非常に善良なドイツ的人間の種類の側に味方するように要求した理由は、それがまさにこの市民階級にとっての強大な力の流入であり私の眼には市民文化の救出を意味するであろうと映ったからなのです。歴史的に見ればこれは決して不可能な考えではありませんでした。というのもすでに1848年に労働者階級が最初に出現した際にも、かれらは市民階級との同盟のもとに立ち上がったのではありませんか? 市民・社会主義的前線の形成によって真に社会的、民主的な共和国を樹立するということは――私にはそう思われたのですが――ドイツ的問題の人道的、平和的、そしてヨーロッパ的な解決であったはずですし、それは同時に文化的な意味ではもっとも保守的であったはずです。
 運命はそのような願いを跳び越え去ってしまいました。そして私は、運命が十分に断乎として告げ知らせた託宣に反抗するほど、馬鹿者ではありません。 原初的な力、そして私がよく知っていたように、不幸によってあらゆる方法で助長された力は、その印のもとにとうの昔に全てのものが立っていたのであり、その力には諸力と諸信念の戦いにおいて無制限で、全体的で、すべてを規定する勝利が疑いようもなく長い期間にわたり定められていたのです。この力に対して私は、戦いが意味を持つ限りのあいだは、自分の能力の狭い範囲のうちで戦ったのでした。そして私の内面に生まれつき備わっており、性格上どうしても不可避であるところの、国家社会主義的な国家像・世界像に対しての嫌悪の情を、私は今日この場所においても、隠そうとはしません。この勝利に富んだ国家社会主義が、おべっか使いや懸命に自分を売り込もうとして寝返ってくる人々に対して示す軽蔑のことを私は知っており、評価してもいるだけに、なおさらいっそうこのことを隠さないのです。 しかし歴史が彼らの言葉を話すようになって以来、私は沈黙し、プロイセン芸術アカデミーの脱退の際に私が提出した釈明のとおりに厳格に従ってきました。私の決心は、長年の間に私の生活に関わるようになっていたあらゆる公的なものを、生活から振り捨て、完全なる引退生活の中で自分の個人的な使命のために生きるということです。
 この決意――私が以前に賛同した理想が歴史的には敗北したということの帰結――は帝国の国境の外側において最もよく実現されうるのであり、この生活形態が自分の文学上のライフワーク――明らかに今日の国家にとっても決して無意味ではない作品――を完成させるために必要な内的安静を、一番容易に保証してくれるということを、私は洞察するようになりました。それは簡単に戦い取った洞察などではありません。私がドイツ文化の伝統に真底から最も自然な形で属しているのを感じており、私の思考も創作も徹頭徹尾その文化に規定されていると知っていることは、すでにお話ししましたが、それゆえに亡命の考えや、自分の国の外側でただ二、三年にわたって広がる生活をすることすらも、非常に困難で不幸をはらんでいるというように前々から私には強く感ぜられていたのです。他でもないこの私に国外移住のくじが当たりうるなんてことは、私は夢想だにしなかったのです。というのもそのようなことは私にはいわば揺りかごの子守歌にも歌われていなかったのですし、そもそも純粋に人間的にもこのことは理解していただけるでしょうが、ほとんど六十歳になんなんとする者にとって自分のすっかり慣れきった生活の基盤から突然切り離されるということは、深刻な衝撃を意味するのです。
 そういうわけで、私は自分の国外滞在をも祖国からの永続的な分離として理解するのではなく 、運命によって指示された挿話として、こう言って良いならば、ひとつの休暇として、期限を定めない、しかし然るべき期限の間だけの民族共同体からの休暇として理解しているのです。また当初からの私の望みとしては、何か自分に関わるようなことのせいで 、私を精神的に、私のドイツ国内の大衆から切り離させたくないのです。私は自分に言い聞かせたのですが、私の本はどれもドイツ人のために、第一にそして根源的にそのようなもののために書かれているのです。それらは国家と作者との相互の教育的な結びつきの産物であって、私自身がまずドイツで手を貸して創りだした諸前提を前もって計算に入れていたのです。「世界」 と世界の関心とはつねに喜ばしい偶然事にすぎなかったのであり、世界だけでは私はどうしようもないのです。理解の足りない者たちだけが私について根無し草だと陰口を叩いているのですが、私は最後までそれを自ら本当の事にしてしまいたくはありません。だからこそ私は、自分がドイツからもはや一ペニヒの報酬をも受け取れるのかすらもまだ全然確実でないような時点であるのに、私の新しい叙事作品、聖書小説について私になされた、それに同意すれば私の生活が保障されたであろうような全ての外国からの申し出を拒絶し、あらゆる危険を冒してまで作品の第一巻と第二巻をドイツ国内で、私が文学界に足を踏み入れて以来ずっと共同で仕事をしてきたベルリンの出版社で、出版させたのでした。 そして故郷からの数多くの報せが、私が正しいことをしたということを示してくれているのです。
 本記述の冒頭で述べた請願に話を戻します。私は内務省の方々に、私のドイツ市民たる証明書を更新する権限をチューリヒ総領事館に委託して頂くようお願い申し上げます。また帝国に対し、ミュンヘン警察当局に私の現地に残してきた財産を差し押さえから解放するよう指示して頂くことをお願い申し上げます。これは実際的な理由からばかりで――そこにも非常に重きが置かれているとはいえ――お願いするのではなく、理念上の理由、名誉にかかわる理由からなのです。なぜなら自分の国と不運にも仲違いした状態で生活することは私の望みではなく、私の本来的な運命を歪曲してしまうことを意味するでありましょうし、それに世界の眼にとって、ドイツの名誉もまたこのような状態から益をなすことがないであろうという気持ちからなのです。
 敬具
 トーマス・マン
 

 原文→ Thomas Mann: Briefwechsel mit seinem Verleger Bermann Fischer. S.Fischer Verlag. 1973. S.654-663.

ゾベルニクスのライブ

 zobernixlive

 ゾベルニクスが初ライブをします。
 2016.4.27 (Wed)
 @ 町田 The Play House

 来てくれる方はご一報ください。
 
 → ■ 『大学中退』 PV
 → ■ 1st Album 『親が悪い』

独文独歩 52

 巨大な数の滑稽と偉大

 数字はいかなるときでも無味乾燥な羅列であることはない。どんな数字も必ず人の情動に訴えかける力をもっている。1という数字には、孤高な自我、あるいは排他的な絶対者といったイメージが伴う。2という数字を見れば、相互の調和や対立が心に描かれる。それは決して1足す1とはイコールで結べない、その数字に固有の像なのだ。もちろんそんなものは数字自体の本質とは何ら関係のない、余計な作用の結果にすぎない。しかし人間はその余計物のせいで心を千々に乱すのである。
 ところで、人はあまりにも巨大な数を聞かされると、いささか面食らったような顔をせざるを得ない。何十万何百万という数は、何らの具体的なイメージにも変換することができないからである。
たとえば人間の数について考える。一人ひとりの顔と特徴を分けて同時に頭に入れておけるのは、せいぜい十人前後が限界である。キリストの使徒が十二人でなく百二十人だったと想像してみればよい。それは識別不可能なひとつの大衆にすぎず、誰かが裏切ったところで何の感興もないはずだ。「1」が12つ集まったところにはじめて物語は生まれる。
 第二次世界大戦の死者が四千万人であると聞かされても、悲惨さを実感するどころか、何やら愉快な気分になってしまいかねないのも、この非個人性が原因である。匿名の四千万人の死より、一人の人物の死のほうに、人は心を打たれ落涙する。「四千万人」という数字はもはや想像不可能でナンセンスな数字でしかなく、人間の集まりではないのだ。
 数が巨大になればなるほど、個別の構成単位「1」はフェードアウトしていく。その巨大さは、無意味さと滑稽さを帯びる。巨大な数は笑いを引き起こすようになる。
 ラブレーの巨人譚『ガルガンチュア』には、やけに細かい巨大な数字が乱用される。その細かさと巨大さは、笑いどころであり、滑稽さの引き立て役である。それは巨人ガルガンチュアのスケールの大きさを誇張するために用いられている。
 例えば、かれの母ガルガメルは「まるまる肥えた牛を、三六万七千と十四頭も屠らせて」臓物料理を作らせ、それを「一六ミュイと二樽、それに六壺分も」食べてしまい、そのせいで直腸がゆるんで脱肛してしまう。それが子宮に影響して赤子ガルガンチュアは逆流し、静脈を通って左の耳から生まれ出るのである。新生児ガルガンチュアの肌着には九〇〇オーヌの布、胴衣は八一三オーヌの布、腰ひもには一五〇九・五頭分の犬の革が使われ、ズボンには一一〇五オーヌと三分の一のウール布が使われ……と、実際にはまだまだ続くが、小数点以下にまで至るこの数字の細かさは、何とも奇妙である。
 学生になったガルガンチュアはパリに留学した際、物見高いパリ市民たちを放尿で大量溺死させる。「ガルガンチュアはにこにこしながら、みごとなブラゲットを外すと、逸物を空中高くつきだして、じゃあじゃあとおしっこをしたので、なんと二十六万四百十八人の人々が溺れてしまった――ただし、女子供をのぞいての話だが。」
 これほど深刻味のない虐殺シーンが他にあるだろうか? ここには、たとえば小学生の男子が決闘ごっこをするときに、互いにより高い「戦闘力」を叫び合うといった幼稚な光景と、きわめて類似の性癖が感じられる。
 巨大な数は決して、(形而上的な意味での)「無限」ではない、ということが重要である。戦闘力は「無限」であってはいけない。それは小学生同士のルールに反するはずだ。もし仮に一人の男子が禁を破り、戦闘力「無限」と言ったとしても、もう一人は「無限の無限倍」と叫ぶだろう。大小比較ができることこそが戦闘力の本質である。大小比較を絶した「無限」や「永遠」という、神的な概念の作用は、数字の作用とは全く異質だ。数字はあくまで地上の尺度にとどまる。銀河の大きさや光の速さすらも、メートル原器を基準に測るのだ。その地上性ゆえにはじめて、地上に抱えきれないほどの巨大な数には可笑しみが伴うのである。
 ラブレーの細かい数字の面白みは、「数えきれない」ものを数えてしまうことにある。数えられたものはすべて、決して抽象的神格的な「偉大さ」に達しない、単なる「馬鹿でかさ」なのだ。
 ところがこれに反して、ミハイル・バフチンは彼のラブレー論でこの馬鹿でかさを、民衆的な偉大さ、「リアリスティックな紋章性(エンブレマチカ)」として称揚する。上に引用した無意味な数のナンセンスな面白さが、偉大さとどう関わるというのか?
 バフチンの論は非常に刺激的なものである。彼はゲーテの言葉を引用して、ここでの「偉大さ」の、通常とかなり異なる意味合いを説明する:「衆にすぐれて偉大な人物は、より多くを有するにすぎない。かれらとて、大部分の人と長所や欠点を分ちもっている。ただそれらをより多くもっているにすぎない」。ラブレーの巨人は、大衆を超越した例外者としてのヒーロー(=超人)ではない。かといって、ビーダーマイヤー的な「小さな取るに足らない人間の偉大化」でもない。そうではなくて、飲酒、大食、排泄など、なべて庶民のなすことを、ただものすごい規模でするという点で偉大なのだ。
 この意味でならば、「馬鹿でかい数」は偉大さに通じるといえる。庶民と同じ地上に立った、デモクラティックなヒーローを描写するためには、ひたすら地上的な数値を並べることは理にかなっているからだ。また、数字のナンセンスは、度重なる下ネタのナンセンスと軌を一にしている。飲食・排泄・性といった、ほとんど虚無的といっても良い生命活動の肯定に基盤を置いた「偉大さ」という概念は、きわめて興味深い。これは全く神格性を帯びない偉大さである。偉大さとナンセンスとが不可分に同居しているのだ。
 古代においては、神格的な偉大さが、数の大きさで測られていた。旧約聖書の人物はみな何百歳に至るまで長生きするのであり、その個々の没年はかなり執拗に記録される。いにしえの人物はみな背丈が巨大であり、末代に生きるわれわれはその矮小化の結果なのだ、という考えは、日本も含むあらゆる地域の神話に存在する。「黄河沙」「那由多」「無量大数」なども全て仏教用語だ。
 昔の人間たちは、大きいこと、数が多いことを、本気で偉大であり神々しいと思っていたのである。現代のわれわれにとってそれは滑稽にすぎなくなってしまっているが、かれらにはその感覚は無縁だったのだ。今のわれわれが、三十三間堂を埋め尽くす大量の千手観音を観るとき、素直に偉大だと思って感動する人と、爆笑するか或いは馬鹿らしいと思う人と、どちらが多いだろうか。ぼくはその無意味な数の多さを滑稽に感じてしまう。人文主義者ラブレーもきっと爆笑しただろう。しかし見方を変えれば、巨大な数の滑稽さと偉大さとは、決して矛盾しないのかもしれない。手が千本あることや、それが何百体と並んでいることは、たしかに偉大だ! それは決して下らない考えではない。素朴で子供心を忘れない、太い根っこを持った発想である。