独文独歩 51

 語り手の介入
 ――ハルトマンの『グレゴーリウス』とマン『選ばれし人』の差異

 「私は喜びも災厄も被ったことがないし、生きていて不幸でも幸福でもない。」ichn gewan nie liep noch ungemach, / ich enlebe übele noch wol.(v.798-9 )『グレゴーリウス』の語り手ハルトマン・フォン・アウエは、王子の妹が、兄との愛で授かった赤子を、悲しみながらもやむなく海に流すにあたって、このように自分のことを述べる。兄妹の愛の喜び、死に別れる苦しみ、子を失う辛さなどを、語り手は経験したことがないという。「それゆえに私は、この姫の苦痛を明らかにし、言葉に表すべきであるのに、それができないのだ」(v.800-2)
 これは単なる自己弁解であるだけではなく、「筆舌に尽くしがたさ」のトポスの表れでもある。この宮廷叙事詩の聞き手であったと思われる高位の者たちもまた、妹姫のような大きな苦しみを嘗めた可能性はきわめて低い。作者の波乱のない人生は、そのまま一般的聞き手の人生の範例でもあるのだ。スペクタクルな展開を期待する聴衆は、登場人物の苦難をただ想像するのみである。
 ハルトマンにおける語り手の介入は、聞き手の物語への距離を意識化させつつも、同時に物語への共感を助けようとする働きを持つ。赤子の出生を記した石板について「私はこんな美しい石板を手に入れたことは一度もない」daz ich nie deheine / alsô guote gewan.(v.724-5)と語る時も事情は同じである。語り手はここで決して個人的な自己主張をしたいわけではなく、読者の立場に寄り添って、一緒に姫の苦悩や、石板の豪華さを想像しようとしているのだ。
 ところが、トーマス・マンが『選ばれし人』において語り手に設定した僧侶クレメンスにおいては、話者の介入の力点は全く違うところにある。一言でいえば、より個人的、自己愛的である。
 「ああ、この喪失[兄の死]について私は全く絶望してしまう! 書くことで私には真の苦悩というものが与えられるのだ。そのような真の苦悩は、僧侶としての私の人生には実際のところ、真の幸福と同様ほとんど与えられていないのである。ひょっとすると私が書いているのはただ、人間的な幸福と苦しみとの両方について、何か少しでも習得しようとするためにすぎないのかもしれない。」(S.57 )
 ここでは語り手の経験不足そのものがテーマ化されている。世間と没交渉である僧侶は、マンの終生の主題である、生から疎外されつつも生を表現しなければならない芸術家、という立場に重ね合わされている。登場人物の喜びや苦しみから自分はあまりに遠い存在であり、少しでもそれに近づくために自分はこの物語を書いているのだ、という、自己の矛盾した有り様を、クレメンスはやむにやまれず曝け出してしまう。そこに読者への呼びかけのトーンは無きに等しい。「言葉に表すべきであるのに、それができない」という「筆舌に尽くしがたさ」のトポスとも異なっている。
 兄王が妹姫の寝床に入って力ずくで思いを遂げるシーンにも、クレメンスの無経験の主張は顕著である。兄妹のピロートークは、内容の卑猥さに応じて中世フランス語に切り替わるが、最後に妹が兄の絶倫ぶりに感極まって叫ぶときにはドイツ語に戻る:「まあウィロ、なんて武器なの! 雄ヤギだわ、雄鶏だわ! あっ、もっとして! そう、もっともっと! あなた天使だわ! 天国のお友達!」その次の行ではさっそく語り手が顔を出す:「哀れな子たちよ! 私は自分が愛とかいうものと全然関わりがなくてよかった、泥沼の上で踊る鬼火、甘い悪魔の拷問に。」(S.35)
 僧侶として童貞を守っているクレメンスは、男女の交わりのシーンをこのように極端にグロテスクに、しかし明らかに興味津々に描く。「人間的な幸福」を「少しでも習得」するというのは、この場合は要するに出歯亀根性にすぎない。マンは話者クレメンスの口挟みによって、彼の見せかけの性的潔癖の滑稽さを意図的に演出している。
 ハルトマンの場合にもたしかに、性交の場面に語り手が現れる:「ああ、彼[兄王]はそこで何をするつもりだったのか? まったく、別々に寝ていたほうが良かったのに!」ouwî waz wolde er drunder? / jâ læge er baz besunder! (v.365-6)しかしこの叱責は、作者の見解を示すのではなく、むしろ聞く人の賛同を誘うような、パフォーマティヴな盛り上げの効果を狙ったものである。ここに語り手のエゴはそれほど見られない。
 豪華な石板の叙述についての個人的容喙もマンは利用し、作り変えている:「神が私にいつかこんな美しい書板を手に入れさせてくださるならいいのに! 私は書くことが好きだし、良質な書道具も好きである。しかし私は貧しい修道僧なので、そのような極上質の象牙で作られ、金で縁取られ、様々な宝石で周りを埋めつくされた石板は、決して我が持ち物にはならないのだ。それについて私はただ語れるだけであり、賞讃を通じて自分の貧しさを埋め合わせるより他ないのである。」(S.54)
 ハルトマンにおいては聞き手に書板の豪華さを想像させるための語りの技法であったものが、ここでは貧しい修道僧の単なる自分語りにさせられている。象牙や金や宝石といった地上の富に殊更に言及してしまうことで、クレメンスの煩悩と僧侶らしからぬ俗っぽさが、またしても強調されることになる。
 このような語り手の性格の差異は、作者と語り手の分離の有る無しに由来している。『グレゴーリウス』の語り手として名乗りを上げるのはハルトマン本人であり、作者と語り手は同一である。この場合に作者自身が自分語りを通じて自己を滑稽化するということは起こりにくいであろう。一方『選ばれし人』の作者はクレメンスという名の僧侶ではない。架空の語り手を媒介にしてトーマス・マンは物語とさらに遠い距離を取っている。それゆえに自分の書いていることをクレメンスの書いていることと称して、自らを戯画化することがはじめて可能になる。
 しかしマンがハルトマンの技法を換骨奪胎して自分のお得意の問題設定にすり替えてしまった以上、ハルトマンにおいて活きていた技法、すなわち読者への共感の喚起は失われてしまっている。ハルトマンの持っている開いた親しみやすさに対し、マンの語り手はより自閉的に造型されている。

 文献
 Hartmann Von Aue: Gregorius, Der Gute Sünder. Reclam.
 Thomas Mann: Der Erwählte. Fischer Taschenbuch Verlag. 1991

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独文独歩 50

 トーマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)は、六歳年下でウィーン生まれのユダヤ系作家シュテファン・ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881-1942)と、1914年以来親交を結んでいた。
 のちに二人はナチスを逃れ、アメリカ大陸へと亡命するが、マンが終戦に至るまで積極的にではないにせよ反ナチス運動に身を投じていたのに対し、ツヴァイクは思想対立の激しくなってゆく世界に耐えられず、1942年にブラジルで妻と心中自殺した。
 かれの自殺は、抵抗運動からの柔弱な逃避・ヒトラー支配への無力な屈服として、他の亡命者たちに冷ややかに受け止められた。マンもその一人であったとされるが、かれの内心は複雑であった。自分も元来は「非政治的人間」であって、むやみに悪に立ち向かって戦うよりは、ほんとうは芸術家の超党派性に留まっていたかったからである。俗世の争いを拒否する者には、ある種の一貫性、高潔さがある。十年後の1952年にかれが雑誌に求められて書いた弔辞にも、無力であるが気高くもあるツヴァイクへの両面的な評価が読み取れる。以下の試訳はその一部である。


 『シュテファン・ツヴァイクの十周忌に寄せて』(抄訳)
 Thomas Mann: Stefan Zweig zum zehnten Todestag. 1952

 シュテファン・ツヴァイクが私たちから去ってしまったあの日が、十度目に再び還ってきました。あのショッキングな報せが届いたときに私を満たした嘆きが、いま再び心に呼び覚まされるようです。実を言えば、当時の私は彼のした行為のせいで、故人に不満を持ったのでした。その行為のうちに私が見たものは、私たち亡命者がみな共にする運命からの逃亡であり、そしてドイツを制圧した輩たちにとってのひとつの勝利であったからです。制圧者たちのおぞましい「歴史性」のために、ここで一人の非常な重要人物が生贄にされたのだという風に思われたのです。時が経って私は、彼の別離について他の、もっと理解のある考え方ができるようになりました。彼の人生と、全世界を熱中させるほどの彼の業績のために私が常に抱いてきた尊敬の念を、もはや一瞬たりともこの死は断つことはできません。
 Die zehnte Wiederkehr des Tages, an dem Stefan Zweig von uns ging, ruft den ganzen Kummer wieder in mir wach, der mich beim Eintreffen jener erschütternden Nachricht erfüllte. Ich gestehe, daß ich damals mit dem Verewigten gehadert habe wegen seiner Tat, in der ich etwas wie eine Desertion von dem uns allen gemeinsamen Emigrantenschicksal und eine Triumph für die Beherrscher Deutschlands sah, deren abscheulicher ›Geschichtlichkeit‹ hier ein besonders prominentes Opfer zu fallen schien. Seitdem habe ich anders und verstehender über seinen Abschied zu denken gelernt, und keinen Augenblick mehr vermag dieser Hingang der Ehrerbietung Abbruch zu tun, die ich für sein Leben, seine die ganze Welt beschäftigende Leistung immer gehegt habe.

 彼の書いた大部の回想録である『昨日の世界』を読んでみれば 、この外向的でありながらもデリケートで、およそ平和と、友情と、愛と、自由な精神的交流に依って立つ人間であった彼が、1914年にもう終末の刻を迎えていた、消え去ってゆく世界に、故郷としてはいかに固く結びつけられていたか、いかに彼の全実存が、その消えゆく世界によって条件づけられていたかが、よく分かります。だから彼は、憎悪の叫び声、敵意に満ちた交流の遮断、野蛮と化す不安、今日の私たちをも取り囲んでいるこれらのものに満ち満ちた世界の中では、もう生き続けたいとも思わず、また生き続けられもしなかったのです。そのことは、彼にとってはほとんど恥辱となりえません。彼の伴侶が回復の見込みのない病に苦しんでいたこと、それが彼女を、彼との最期の、苦渋に満ちた約束へと向かわせたこと――そのことを語るつもりも、決してありません。
 Liest man sein großes Erinnerungsbuch ›Die Welt von Gestern‹, so begreift man ganz, wie sehr dieser so expansive wie zarte, ganz auf Frieden, Freundschaft, Liebe, freien geistigen Austausch gestellte Mensch heimatlich gebunden war an die entschwundene Welt, deren Endstunde schon 1914 geschlagen hatte; wie ganz seine Existenz durch sie bedingt war und wie wenig es ihm zur Schande gereicht, daß er in der Welt voller Haßgeschrei, feindlicher Absperrung und brutalisierender Angst, die uns heute umgibt, nicht fortleben wollte und konnte. von dem hoffnungslosen Leiden seiner Gefährtin, das sie zur letzten, schweren Verabredung mit ihm nur zu geneigt machte, rede ich nicht einmal.

 (約1ページ中略)
 [...]

 もう一つ言いたいことがあります――ある時には、彼のあまりに極端な、無制限の平和主義が、私を辛くさせたことがありました。ただ自分の何にも増して嫌悪する戦争さえそれによって避けられるのならば、悪が君臨することも許してしまう用意が彼にはあるように思われたのです。この問題は解決不可能なものです。しかし私たちは、善き戦争すらも悪しきものしかもたらさないということを身をもって知りました。爾来私は、彼の当時の態度について違ったふうに考えています――というよりはむしろ、違ったふうに考えようと試みているのです。
 彼の文学的名声は、かのもう一人の偉大なる、ロッテルダム生まれの平和主義者のそれにも比するほどの、伝説へと高められました。しかし、あの穏やかで、心からの善意を持った人を思い出すときには、いつも愛がそこに伴うことでしょう。
 Ich will noch eines sagen: Es gab Zeiten, wo sein radikaler, sein unbedingter Pazifismus mich gequält hat. Er schien bereit, die Herrschaft des Bösen zuzulassen, wenn nur das ihm über alles Verhaßte, der Krieg, dadurch vermieden wurde. Das Problem ist unlösbar. Aber seitdem wir erfahren haben, wie auch ein guter Krieg nichts als Böses zeitigt, denke ich anders über seine Haltung von damals – oder versuche doch, anders darüber zu denken.
 Sein literarischer Ruhm wird zur Sage werden, wie der jenes anderen großen Pazifisten, des Rotterdamers. Aber Liebe wird dem Andenken dieses Sanften, Grundgütigen bleiben.

 In: Rede und Antwort: Gesammelte Werke in Einzelbänden. Frankfurter Ausgabe. S.Fischer Verlag. S.477-9