独文独歩 52

 巨大な数の滑稽と偉大

 数字はいかなるときでも無味乾燥な羅列であることはない。どんな数字も必ず人の情動に訴えかける力をもっている。1という数字には、孤高な自我、あるいは排他的な絶対者といったイメージが伴う。2という数字を見れば、相互の調和や対立が心に描かれる。それは決して1足す1とはイコールで結べない、その数字に固有の像なのだ。もちろんそんなものは数字自体の本質とは何ら関係のない、余計な作用の結果にすぎない。しかし人間はその余計物のせいで心を千々に乱すのである。
 ところで、人はあまりにも巨大な数を聞かされると、いささか面食らったような顔をせざるを得ない。何十万何百万という数は、何らの具体的なイメージにも変換することができないからである。
たとえば人間の数について考える。一人ひとりの顔と特徴を分けて同時に頭に入れておけるのは、せいぜい十人前後が限界である。キリストの使徒が十二人でなく百二十人だったと想像してみればよい。それは識別不可能なひとつの大衆にすぎず、誰かが裏切ったところで何の感興もないはずだ。「1」が12つ集まったところにはじめて物語は生まれる。
 第二次世界大戦の死者が四千万人であると聞かされても、悲惨さを実感するどころか、何やら愉快な気分になってしまいかねないのも、この非個人性が原因である。匿名の四千万人の死より、一人の人物の死のほうに、人は心を打たれ落涙する。「四千万人」という数字はもはや想像不可能でナンセンスな数字でしかなく、人間の集まりではないのだ。
 数が巨大になればなるほど、個別の構成単位「1」はフェードアウトしていく。その巨大さは、無意味さと滑稽さを帯びる。巨大な数は笑いを引き起こすようになる。
 ラブレーの巨人譚『ガルガンチュア』には、やけに細かい巨大な数字が乱用される。その細かさと巨大さは、笑いどころであり、滑稽さの引き立て役である。それは巨人ガルガンチュアのスケールの大きさを誇張するために用いられている。
 例えば、かれの母ガルガメルは「まるまる肥えた牛を、三六万七千と十四頭も屠らせて」臓物料理を作らせ、それを「一六ミュイと二樽、それに六壺分も」食べてしまい、そのせいで直腸がゆるんで脱肛してしまう。それが子宮に影響して赤子ガルガンチュアは逆流し、静脈を通って左の耳から生まれ出るのである。新生児ガルガンチュアの肌着には九〇〇オーヌの布、胴衣は八一三オーヌの布、腰ひもには一五〇九・五頭分の犬の革が使われ、ズボンには一一〇五オーヌと三分の一のウール布が使われ……と、実際にはまだまだ続くが、小数点以下にまで至るこの数字の細かさは、何とも奇妙である。
 学生になったガルガンチュアはパリに留学した際、物見高いパリ市民たちを放尿で大量溺死させる。「ガルガンチュアはにこにこしながら、みごとなブラゲットを外すと、逸物を空中高くつきだして、じゃあじゃあとおしっこをしたので、なんと二十六万四百十八人の人々が溺れてしまった――ただし、女子供をのぞいての話だが。」
 これほど深刻味のない虐殺シーンが他にあるだろうか? ここには、たとえば小学生の男子が決闘ごっこをするときに、互いにより高い「戦闘力」を叫び合うといった幼稚な光景と、きわめて類似の性癖が感じられる。
 巨大な数は決して、(形而上的な意味での)「無限」ではない、ということが重要である。戦闘力は「無限」であってはいけない。それは小学生同士のルールに反するはずだ。もし仮に一人の男子が禁を破り、戦闘力「無限」と言ったとしても、もう一人は「無限の無限倍」と叫ぶだろう。大小比較ができることこそが戦闘力の本質である。大小比較を絶した「無限」や「永遠」という、神的な概念の作用は、数字の作用とは全く異質だ。数字はあくまで地上の尺度にとどまる。銀河の大きさや光の速さすらも、メートル原器を基準に測るのだ。その地上性ゆえにはじめて、地上に抱えきれないほどの巨大な数には可笑しみが伴うのである。
 ラブレーの細かい数字の面白みは、「数えきれない」ものを数えてしまうことにある。数えられたものはすべて、決して抽象的神格的な「偉大さ」に達しない、単なる「馬鹿でかさ」なのだ。
 ところがこれに反して、ミハイル・バフチンは彼のラブレー論でこの馬鹿でかさを、民衆的な偉大さ、「リアリスティックな紋章性(エンブレマチカ)」として称揚する。上に引用した無意味な数のナンセンスな面白さが、偉大さとどう関わるというのか?
 バフチンの論は非常に刺激的なものである。彼はゲーテの言葉を引用して、ここでの「偉大さ」の、通常とかなり異なる意味合いを説明する:「衆にすぐれて偉大な人物は、より多くを有するにすぎない。かれらとて、大部分の人と長所や欠点を分ちもっている。ただそれらをより多くもっているにすぎない」。ラブレーの巨人は、大衆を超越した例外者としてのヒーロー(=超人)ではない。かといって、ビーダーマイヤー的な「小さな取るに足らない人間の偉大化」でもない。そうではなくて、飲酒、大食、排泄など、なべて庶民のなすことを、ただものすごい規模でするという点で偉大なのだ。
 この意味でならば、「馬鹿でかい数」は偉大さに通じるといえる。庶民と同じ地上に立った、デモクラティックなヒーローを描写するためには、ひたすら地上的な数値を並べることは理にかなっているからだ。また、数字のナンセンスは、度重なる下ネタのナンセンスと軌を一にしている。飲食・排泄・性といった、ほとんど虚無的といっても良い生命活動の肯定に基盤を置いた「偉大さ」という概念は、きわめて興味深い。これは全く神格性を帯びない偉大さである。偉大さとナンセンスとが不可分に同居しているのだ。
 古代においては、神格的な偉大さが、数の大きさで測られていた。旧約聖書の人物はみな何百歳に至るまで長生きするのであり、その個々の没年はかなり執拗に記録される。いにしえの人物はみな背丈が巨大であり、末代に生きるわれわれはその矮小化の結果なのだ、という考えは、日本も含むあらゆる地域の神話に存在する。「黄河沙」「那由多」「無量大数」なども全て仏教用語だ。
 昔の人間たちは、大きいこと、数が多いことを、本気で偉大であり神々しいと思っていたのである。現代のわれわれにとってそれは滑稽にすぎなくなってしまっているが、かれらにはその感覚は無縁だったのだ。今のわれわれが、三十三間堂を埋め尽くす大量の千手観音を観るとき、素直に偉大だと思って感動する人と、爆笑するか或いは馬鹿らしいと思う人と、どちらが多いだろうか。ぼくはその無意味な数の多さを滑稽に感じてしまう。人文主義者ラブレーもきっと爆笑しただろう。しかし見方を変えれば、巨大な数の滑稽さと偉大さとは、決して矛盾しないのかもしれない。手が千本あることや、それが何百体と並んでいることは、たしかに偉大だ! それは決して下らない考えではない。素朴で子供心を忘れない、太い根っこを持った発想である。

独文独歩 51

 語り手の介入
 ――ハルトマンの『グレゴーリウス』とマン『選ばれし人』の差異

 「私は喜びも災厄も被ったことがないし、生きていて不幸でも幸福でもない。」ichn gewan nie liep noch ungemach, / ich enlebe übele noch wol.(v.798-9 )『グレゴーリウス』の語り手ハルトマン・フォン・アウエは、王子の妹が、兄との愛で授かった赤子を、悲しみながらもやむなく海に流すにあたって、このように自分のことを述べる。兄妹の愛の喜び、死に別れる苦しみ、子を失う辛さなどを、語り手は経験したことがないという。「それゆえに私は、この姫の苦痛を明らかにし、言葉に表すべきであるのに、それができないのだ」(v.800-2)
 これは単なる自己弁解であるだけではなく、「筆舌に尽くしがたさ」のトポスの表れでもある。この宮廷叙事詩の聞き手であったと思われる高位の者たちもまた、妹姫のような大きな苦しみを嘗めた可能性はきわめて低い。作者の波乱のない人生は、そのまま一般的聞き手の人生の範例でもあるのだ。スペクタクルな展開を期待する聴衆は、登場人物の苦難をただ想像するのみである。
 ハルトマンにおける語り手の介入は、聞き手の物語への距離を意識化させつつも、同時に物語への共感を助けようとする働きを持つ。赤子の出生を記した石板について「私はこんな美しい石板を手に入れたことは一度もない」daz ich nie deheine / alsô guote gewan.(v.724-5)と語る時も事情は同じである。語り手はここで決して個人的な自己主張をしたいわけではなく、読者の立場に寄り添って、一緒に姫の苦悩や、石板の豪華さを想像しようとしているのだ。
 ところが、トーマス・マンが『選ばれし人』において語り手に設定した僧侶クレメンスにおいては、話者の介入の力点は全く違うところにある。一言でいえば、より個人的、自己愛的である。
 「ああ、この喪失[兄の死]について私は全く絶望してしまう! 書くことで私には真の苦悩というものが与えられるのだ。そのような真の苦悩は、僧侶としての私の人生には実際のところ、真の幸福と同様ほとんど与えられていないのである。ひょっとすると私が書いているのはただ、人間的な幸福と苦しみとの両方について、何か少しでも習得しようとするためにすぎないのかもしれない。」(S.57 )
 ここでは語り手の経験不足そのものがテーマ化されている。世間と没交渉である僧侶は、マンの終生の主題である、生から疎外されつつも生を表現しなければならない芸術家、という立場に重ね合わされている。登場人物の喜びや苦しみから自分はあまりに遠い存在であり、少しでもそれに近づくために自分はこの物語を書いているのだ、という、自己の矛盾した有り様を、クレメンスはやむにやまれず曝け出してしまう。そこに読者への呼びかけのトーンは無きに等しい。「言葉に表すべきであるのに、それができない」という「筆舌に尽くしがたさ」のトポスとも異なっている。
 兄王が妹姫の寝床に入って力ずくで思いを遂げるシーンにも、クレメンスの無経験の主張は顕著である。兄妹のピロートークは、内容の卑猥さに応じて中世フランス語に切り替わるが、最後に妹が兄の絶倫ぶりに感極まって叫ぶときにはドイツ語に戻る:「まあウィロ、なんて武器なの! 雄ヤギだわ、雄鶏だわ! あっ、もっとして! そう、もっともっと! あなた天使だわ! 天国のお友達!」その次の行ではさっそく語り手が顔を出す:「哀れな子たちよ! 私は自分が愛とかいうものと全然関わりがなくてよかった、泥沼の上で踊る鬼火、甘い悪魔の拷問に。」(S.35)
 僧侶として童貞を守っているクレメンスは、男女の交わりのシーンをこのように極端にグロテスクに、しかし明らかに興味津々に描く。「人間的な幸福」を「少しでも習得」するというのは、この場合は要するに出歯亀根性にすぎない。マンは話者クレメンスの口挟みによって、彼の見せかけの性的潔癖の滑稽さを意図的に演出している。
 ハルトマンの場合にもたしかに、性交の場面に語り手が現れる:「ああ、彼[兄王]はそこで何をするつもりだったのか? まったく、別々に寝ていたほうが良かったのに!」ouwî waz wolde er drunder? / jâ læge er baz besunder! (v.365-6)しかしこの叱責は、作者の見解を示すのではなく、むしろ聞く人の賛同を誘うような、パフォーマティヴな盛り上げの効果を狙ったものである。ここに語り手のエゴはそれほど見られない。
 豪華な石板の叙述についての個人的容喙もマンは利用し、作り変えている:「神が私にいつかこんな美しい書板を手に入れさせてくださるならいいのに! 私は書くことが好きだし、良質な書道具も好きである。しかし私は貧しい修道僧なので、そのような極上質の象牙で作られ、金で縁取られ、様々な宝石で周りを埋めつくされた石板は、決して我が持ち物にはならないのだ。それについて私はただ語れるだけであり、賞讃を通じて自分の貧しさを埋め合わせるより他ないのである。」(S.54)
 ハルトマンにおいては聞き手に書板の豪華さを想像させるための語りの技法であったものが、ここでは貧しい修道僧の単なる自分語りにさせられている。象牙や金や宝石といった地上の富に殊更に言及してしまうことで、クレメンスの煩悩と僧侶らしからぬ俗っぽさが、またしても強調されることになる。
 このような語り手の性格の差異は、作者と語り手の分離の有る無しに由来している。『グレゴーリウス』の語り手として名乗りを上げるのはハルトマン本人であり、作者と語り手は同一である。この場合に作者自身が自分語りを通じて自己を滑稽化するということは起こりにくいであろう。一方『選ばれし人』の作者はクレメンスという名の僧侶ではない。架空の語り手を媒介にしてトーマス・マンは物語とさらに遠い距離を取っている。それゆえに自分の書いていることをクレメンスの書いていることと称して、自らを戯画化することがはじめて可能になる。
 しかしマンがハルトマンの技法を換骨奪胎して自分のお得意の問題設定にすり替えてしまった以上、ハルトマンにおいて活きていた技法、すなわち読者への共感の喚起は失われてしまっている。ハルトマンの持っている開いた親しみやすさに対し、マンの語り手はより自閉的に造型されている。

 文献
 Hartmann Von Aue: Gregorius, Der Gute Sünder. Reclam.
 Thomas Mann: Der Erwählte. Fischer Taschenbuch Verlag. 1991

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