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独文独歩 53

 【翻訳】トーマス・マン:帝国内務省への手紙 (1934)
 Thomas Mann: [An das Reichsministerium des Inneren] (1934)

 以下に訳出する手紙は、トーマス・マンが予期せぬ亡命から一年後の1934年に、差し押さえられた財産の返還とビザの更新を求めてナチスの内務省に宛てて書かれたものである。マンはミュンヘン警察の自分の財産に対する専横が、帝国本部の方針や言明とずれていることを感じ、上層部である内務省に警察当局の統制を求めようとしたのである。しかし、これらの要求は黙殺された。
 手紙は語気鋭くナチスの不法性を糾弾し、また嫌悪感をも直接はっきりと表明しながらも、同時に敵対の意志がないこと、自分が政治的に無害でありつづけることを再三強調している点で、両面的である。迎合もせず、追放もされないような中間の道をうまく選ぼうとしているところは興味深い。
 

 1934年春
 チューリッヒ、キュスナハト
 シードハルデン通り33番
 ベルリン、帝国内務省御中

 帝国内務省の皆様に私から、所轄のミュンヘン警察当局が私の前年四月一日期限切れの旅券を認可し、またドイツ国内に存する、八か月にわたり占有されている私の所有物、すなわち家屋、書棚、動産、財産を返還して下さるべく、お取り計らい頂けるようお願い申し上げます。
 以下は本請願の論拠と解説に用立つものです。
 1933年2月11日に私は四十年来常住の地であるミュンヘンを立ち去り旅行を開始いたしました。これはワーグナー記念年に際してのもので、私はアムステルダム、ブリュッセル、パリへ向かいました。私は当旅行をかつてのどの旅行とも同様、何らの他意なく、帝国の政治的状況とは全くもって無関係に企てたのでありまして、来たるべきものへの予感は全くありませんでした。私が旅行から住み慣れた職場の地へと帰還し得ぬことになるなどとは、他の多くの旅行と同様、推測の及ばぬところでありました。
 私の上述の都市における諸講演の完遂の後に、私は妻と共に予定通り二、三週間を見積もった療養滞在をアローザにて行いました。そして当地にて、選挙の結果とドイツの政治的大変動の報せがわれわれを驚かせたのです。私はこの報せに、帰郷を少しでも躊躇う理由を見取るには、差し当たってあまりにも離れていました。逆に私の最初の衝動は、まさにこれらの状況下において即刻自宅へと戻らねばというものだったのです。 各方面からの友人の警告が私に届いてきたときには、トランクの荷造りも終えていました。国境をまだ越えられないかもしれない、個人的安全が保障されていない、バイエルンの新しい国家政府が私を目の敵にしている、逮捕される危険がある、等々の警告です。これらの抗議が私に、政治的変化の最初の騒乱とそのような変化に伴う権利の空白状態を、外国にて待ち通すように指定したのです。あの都市は、私が人生の大半を名誉のうちに過ごした都市であり、その市役所は私の五十歳の誕生日とノーベル賞の表彰を心からの祝典で執り行って下さったものです。また私が数十年を通じて、不愉快な状況下においてすらも、その都市に誠実であり続けたことで、私に感謝を述べた都市でもあります。この私の第二の故郷が、私の追放を目論んでいるなどとは、私は当時考えることはできなかったのです。
 にもかかわらず、四月初めに『ワーグナーの街ミュンヘンの抗議』の題のもとに私に抗して動きだしたラジオ運動と出版運動とは、まさにこのことを目指していたのでした。私はこの騒がしい、驚くべき悪意をもって企てられた攻撃についての報せが私に殺到したとき、ルガーノに滞留していました。友人、ロータリークラブの仲間、芸術家、同僚、それまで私に一見好意的にみえた、いや献身的にもみえた人々がこの攻撃を私に対して企てたのです。私が自分の状況について抱いていたイメージはそうして一挙に変わってしまいました。バイロイトの巨匠についての多層的な研究である、『リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大』は、私が冬に執筆し『ノイエ・ルントシャウ』の四月号に公開したものです。それは私が最初2月10日、旅に発つ前日に、ミュンヘン大学大講堂にて行った講演からの抜粋であり、講演はミュンヘン文化生活局の筆頭代表者たちを含む五百人の聴衆に心からの満足を表明せしめたものですし、またアムステルダムとパリにおいても同様の成功を再び収めました。この論文は悠々としており、偉大な演劇家の作品に寄せる、深く根を張った、生涯にわたって保たれてきた情熱で満たされていました。論文はヨーロッパの批評界からは、生産的には通常あまり実り多いとは言い難い記念祭への、最も堂々たる精神的寄与のひとつとして見なされました。論文の批判的な調子にもかかわらず 、まさにそれを通じて、魅力的な現象へのある生き生きした関心を、その現象がもはや博物館向きでしかないように感じられ問題としては萎びた些事に堕してしまったように思われていたまさにそのときに、再び呼び起こすということに、この論文がぴったり適していることを私はよく知っていたのです。
 かの運動の開催者たちはしかし私の論文に突如ドイツの巨匠への、しかもその上外国の聴衆を前になされた侮辱を見たのでした。かれらの「抗議」とやらは、大小様々の名、個別の名士たち、諸機関ないし諸連合等のまったくの大衆動員による署名がなされていましたが、それ自体ある独特の、これ以上なく屈辱的な言い回しを用いて起草された私の人格ないし国内外を前にした生涯の功績への侮辱だったのです。確かなことですが、署名に連ねられた人々の大多数は、私の論文を読んでもおりませんし、この抗議の極端で、部分的には――正直に申しまして――笑止千万とも言える本文を知らされてすらいない人もいるでしょう。確かなことですが、参加者の多くはその発起人たちに至るまで、今日すでに自分の当時のやり口について決して純粋な満足をもっては想起しえなくなっているでしょう。 しかしラジオ放送や全新聞雑誌によって流布してしまい、このような一瞬間のうちにきわめて興奮した大衆のもとに投げ入れられてしまったので、この報せは恐ろしい中傷としてより以外の意味を持たなくなったのです。私がもしたまたま現場にいたならば、誇張なしに申しますが、この中傷によって私は健康と生命を失っていたでしょう。私は国外滞留が思ったよりも一時的なものではないということ、そして私にこれらの危害を加えた人間たちのもとではそう早く再び暮らすことができないであろうことを把握せねばなりませんでした。
 私のミュンヘンに残してきた財産に対して執られた処置は故郷での私の扱いがどのようであるかについての詳細をやがて私に明らかにしました。まだ四月のころに、表向きは政治警察の命令ということで、私の二台の自動車、ホルヒのリムジンとビュイックのフェートン 、それらだけでなく、さらに息子のDKWの軽自動車までもが車庫から取り出されました。それも押収といったものではなくて、単にミュンヘンの突撃隊(SA)によって引き続き乗り続けられ、使い倒されてしまったのです。この公用徴収の違法性については今日ではもはや異論の余地なきことですが、弁償は全くなされておりません。
 それから程なくして私の自宅ならびに家具調度、銀行口座、謝礼金の差し押さえが行われました。この措置が、私の遠隔地滞在が持続的であると明らかになった場合に帝国逃亡税を請求する財務局の利害に基づいて起こったものである限りは、これに反論する余地はありません。しかし実際のところは、以前に明確な形で政治警察がしてくださった約束に反して、財務局への弁済が済んだ後にもなお差し押さえは今日に至るまで解除されていないのです。私の弁護士 であるヴァレンティン・ハインス博士は、多数の表彰を受けた戦争参加者でありますが、彼は職務上の熱意としてよりもむしろ人間的な結びつきから、私の利益のためにこの年の間に例を見ないほどの献身と疲れを知らぬ粘り強さをもって尽力してくださり、帝国逃亡税の支払いに必須の金額を捻出することに成功したのです。私の全財産のかなりの割合を占めた金額の支払いは警察への転居届提出と同時に行われましたし、財務局は満足しました。私は自分の状況を法的に認められたと考えてもよいことになり、少なくとも私の文学的仕事の収穫が 得られなくなることはもはやなかったのです。しかし私の弁護士が苦情や返還請求など果てしのない努力をしたにもかかわらず今日に至るまで、私のミュンヘンの財産ととりわけ私の自宅ならびに動産、そして私の仕事にとってあまりにも欠かせない書斎を、政治警察の拘留のもとから解放することには成功していないのであります。それどころか、ただ押収のために独占されたのであって決して公用徴収されたのではない物件であるはずの私の邸宅は、政治警察によって、何ら私の同意なしに数か月の長きにわたって十五人の私的な宿泊施設のための使用に委ねられているのです。これは自動車の持ち去りとまさしく同様の種類に属する処置でありまして、ただそれよりもかなり後になって遭遇したに過ぎませんし、前件と同様、革命的行為として解釈されることは到底できないものです。そして私の財産の返還がなされていないのと全く同様、現在に至るまで私の期限切れビザの延長もしくは更新もなされておりません。現地または領事館におけるあらゆる試みは失敗し、また失敗せざるを得ませんでした。なぜなら私が聞き知ったところでは、私に市民権証明書を交付することを拒否しろというミュンヘン政治警察の回状が外国にあるドイツの諸事務局に提出されているからです。ベルンのドイツ公使館のミュンヘンへの働きかけも効果を挙げませんでした。まだつい先日にチューリヒの総領事が、ミュンヘン警察本部における状況が変化し法的に完全に浄化されたということを示唆し、私に二、三の直接的な試みを勧めてきたのですが、その企ても理由の提示なしにあっさりと拒絶される結果に終わりました。
 ミュンヘン警察当局のやり方が首尾一貫していないことは歴然としています。苦い経験によって私は、ドイツへの、私が一世代よりも長きにわたり住み働いてきた都市への、私がそこに居を構えそこで私の余生を終えようと考えていた故郷への帰還を、期間も分からぬまま断念し、私の住居をドイツ語圏の外国に置かざるを得なくなったのです。法制上の移住税は――それは私の生活状況をもちろん根底から変化させてしまった支払いでしたが――支払うのに吝かではありません。しかしそのことからは、私に残りの財産を返還するという結果も、合法的にスイスに在住しているドイツ市民であるこの私のビザが更新されるという結果も引き出されていないのです。この支払いに何の意味があったのでしょうか? 祖国に恥を塗ったことなど一度もない、いやそれどころか、様々の侮辱を受けたゆえにあえてこう言うのですが、まったくその反対だったと主張しても許されるであろうような一人のドイツの作家が、こう扱われていることに外国は納得しないでしょうし、文化国家かつ法治国家としてのドイツの体面にとってこのような扱いは為にならない、と言わざるを得ないのではないでしょうか? もちろん、緊急の場合には市民権証明書がなくても生活はできます。私がこの一年来滞在してきたフランスとスイスの諸都市は、私に客人としてのもてなしを示してくれました。私はドイツ人としてそれに恥じ入った――そう言わねばなりません。かれらは私の裡に何らかの政治的機構の代表者を見たのではなく、ドイツ精神の代表者を見たのでした。そして帝国最上層の省庁はこの見解に喜んで賛同しているようにすら見受けられます。私からドイツの名を剥奪するという考えを、この決定的な地位の方々は考慮に入れておらず、とにかくその考えを否認しました。しかし私に対するこのミュンヘン警察当局のビザの拒絶ならびに我が財産の勾留という処置の決定を通じて、あらゆる法的かつ論理的な根本状況は取り去られてしまったのではないでしょうか?
 私はここで、本件の解決を遅らせている悪意の動機となっている政治的諸背景についていくらか紙面を割いて検討する必要があります。私の弁護士がミュンヘンの省庁の者から示唆されたところでは、この解決に対立している困難性は、私が「マルクス主義的作家」であるという事実に起因するのだということだそうです。これは私の影響力と精神的存在についての違和感のある単純化であり、まったくの誤認であります。何よりもまず私の作家としてのドイツ国内ないし国外における名声はドイツ共和国の十四年の賜物などではなく、共和国に結びついてなどいないのです。数百万部にもなって流布しドイツブルジョワにとっての家庭読本とされることとなったあの家族小説は、世紀転換期に出版されたものですし、それにさしあたって続き、私の文学的イメージをより完全なものにさせた作品群は、同じく大戦より前の時代に属しているのです。私の性質の重点はこれまでもまたこれからも精神的・芸術的なものに置かれるのであり、政治的なものにではありません。私の生産物から発した国民への効果は、道徳的かつ形式的、そして文化的な種類のものだったのです。私が倫理的・美的なものを自分の本来の領域として感じ、政治的・社会的領域を価値の劣ったものとして無視してきたという、まさにその点において私は自分を「ドイツ的」であると信じています。大戦の激動が私にもまた政治的告白を強いましたが、その頃にまさに政治化、すなわちドイツ精神の民主化とよばれるものが現れたのであり、それに対して私は(『非政治的人間の考察』において)戦いを挑んだのでした。この本は猛威をふるい侵攻してくる政治を前にしてロマン的・アポロン的な市民性が行った唯一の偉大な退却戦でした。自分がそこに結びついていると感じている、過去と伝統の偉大なる価値を、革命的なものに対して勝利する見通しが全くないにもかかわらず擁護するということは、私にはいつも作家にとっての尊い軍人的名誉に満ちた任務であると思われたのです。
 この意味に従って私は、やがてドイツ国内とドイツを超えて勝利を収めることになった革命に抗して行動したのでした。私は保守的・非政治的な『考察』の意見のもとにはとどまり続けていませんでした。時代の経験が私に、人間的、人道的な問題を、ひとつの全体性、ただし否応なしに政治的・社会的なものも属しているような全体性として把握することを教えたのです。それはもちろん、例えば政治的なもの、国家といったものを、全てであると捉えてそれを全体主義化しようとするのとは別のことでした。私の欲するところではなかった共和国は、私にはある運命的に与えられた状況のように思われました。そこで私は戦後の時期にいくつかの演説や論文で、私の民族、というより民族のうちで私が影響力を持っていた層に、この運命に甘んじさせることを試みたのでした。その際、とりわけ『ドイツ共和国について』というエッセイの中で、私はドイツロマン派が提供した伝統的な結び合わせの能力を使用したのです。平和への愛と、私の国民を運命によって課されたかれらに固有の課題とだけでなく、世界とも、ヨーロッパとも和解させたいという願いとが、私の手をこれらの仕事のもとへと導いたのでした。それは義務感に由来するのであって、思い上がりによるものではありませんでしたし、常に芸術家的な働きを伴った仕事でありました。私はドイツのしきたりの中に自分があまりにも安全に隠れているのを感じていたので、自分のヨーロッパ的共感を自分のドイツ性の侵害ではないかと懸念することなどありえませんでした。ひとりの作家がヨーロッパ世界には愛国的な顔を向け、しかし自分の国にはヨーロッパ的な顔を見せるということは、ゲーテの時代からドイツでは新奇なものではありません。私の作品が外国の人々の眼に入るようになって以来――およそ戦争勃発の頃以来ということですが――かれらは私を常にドイツ特有の人物であると見なし、私の本がどれもドイツ国内、そしてドイツの文化・精神形態から以外のどこからも成立しえなかったであろうものであることを大いに感じていたのです。このことは、少なからぬ同郷人が私のうちに根なし草の知識人より他の何も見出そうとせず、私の著書のある種のヨーロッパ的能力を無性格な国際主義と取り違えたということについて、ある程度は私の気持ちを落ち着かせました。
 私が政治への立ち入りと説得によって自分を「害した」ということや、ある詩人が市場と公的な意見の戦いの競技場へとそのように「下降」することが多くのドイツ人にとって価値を損なうことであり詩人として名誉を失わせるようなものだと見なされるということ――これは真にドイツ的な非難でありまして、しかし私が時流に従って泳いでいたならば、当てはまることのなかった非難だったでしょう――このことを私はよく知っていましたし、そのことに苦しまねばなりませんでした。自己中心的で生活の手管に長けるという意味では、黙っていた方がより賢かったでしょうし、悠々としていられたでしょう。それでも私は、私が同国の人々に表現しようとしたように、「課題としての共和国」を真面目に引き受けたのでして、討論というものがあった限りは、私が正しく善いと見なしていることのために語ることを続けていったのです。これらが「マルクス主義」であったなどということは、ほとんど当を得ていません。私がドイツの市民階級に――すなわち私自身の階級、私自身がそこに由来し結びついている領域に――政治的に社会民主主義的な労働者階級の側、この文化的に非常に善良なドイツ的人間の種類の側に味方するように要求した理由は、それがまさにこの市民階級にとっての強大な力の流入であり私の眼には市民文化の救出を意味するであろうと映ったからなのです。歴史的に見ればこれは決して不可能な考えではありませんでした。というのもすでに1848年に労働者階級が最初に出現した際にも、かれらは市民階級との同盟のもとに立ち上がったのではありませんか? 市民・社会主義的前線の形成によって真に社会的、民主的な共和国を樹立するということは――私にはそう思われたのですが――ドイツ的問題の人道的、平和的、そしてヨーロッパ的な解決であったはずですし、それは同時に文化的な意味ではもっとも保守的であったはずです。
 運命はそのような願いを跳び越え去ってしまいました。そして私は、運命が十分に断乎として告げ知らせた託宣に反抗するほど、馬鹿者ではありません。 原初的な力、そして私がよく知っていたように、不幸によってあらゆる方法で助長された力は、その印のもとにとうの昔に全てのものが立っていたのであり、その力には諸力と諸信念の戦いにおいて無制限で、全体的で、すべてを規定する勝利が疑いようもなく長い期間にわたり定められていたのです。この力に対して私は、戦いが意味を持つ限りのあいだは、自分の能力の狭い範囲のうちで戦ったのでした。そして私の内面に生まれつき備わっており、性格上どうしても不可避であるところの、国家社会主義的な国家像・世界像に対しての嫌悪の情を、私は今日この場所においても、隠そうとはしません。この勝利に富んだ国家社会主義が、おべっか使いや懸命に自分を売り込もうとして寝返ってくる人々に対して示す軽蔑のことを私は知っており、評価してもいるだけに、なおさらいっそうこのことを隠さないのです。 しかし歴史が彼らの言葉を話すようになって以来、私は沈黙し、プロイセン芸術アカデミーの脱退の際に私が提出した釈明のとおりに厳格に従ってきました。私の決心は、長年の間に私の生活に関わるようになっていたあらゆる公的なものを、生活から振り捨て、完全なる引退生活の中で自分の個人的な使命のために生きるということです。
 この決意――私が以前に賛同した理想が歴史的には敗北したということの帰結――は帝国の国境の外側において最もよく実現されうるのであり、この生活形態が自分の文学上のライフワーク――明らかに今日の国家にとっても決して無意味ではない作品――を完成させるために必要な内的安静を、一番容易に保証してくれるということを、私は洞察するようになりました。それは簡単に戦い取った洞察などではありません。私がドイツ文化の伝統に真底から最も自然な形で属しているのを感じており、私の思考も創作も徹頭徹尾その文化に規定されていると知っていることは、すでにお話ししましたが、それゆえに亡命の考えや、自分の国の外側でただ二、三年にわたって広がる生活をすることすらも、非常に困難で不幸をはらんでいるというように前々から私には強く感ぜられていたのです。他でもないこの私に国外移住のくじが当たりうるなんてことは、私は夢想だにしなかったのです。というのもそのようなことは私にはいわば揺りかごの子守歌にも歌われていなかったのですし、そもそも純粋に人間的にもこのことは理解していただけるでしょうが、ほとんど六十歳になんなんとする者にとって自分のすっかり慣れきった生活の基盤から突然切り離されるということは、深刻な衝撃を意味するのです。
 そういうわけで、私は自分の国外滞在をも祖国からの永続的な分離として理解するのではなく 、運命によって指示された挿話として、こう言って良いならば、ひとつの休暇として、期限を定めない、しかし然るべき期限の間だけの民族共同体からの休暇として理解しているのです。また当初からの私の望みとしては、何か自分に関わるようなことのせいで 、私を精神的に、私のドイツ国内の大衆から切り離させたくないのです。私は自分に言い聞かせたのですが、私の本はどれもドイツ人のために、第一にそして根源的にそのようなもののために書かれているのです。それらは国家と作者との相互の教育的な結びつきの産物であって、私自身がまずドイツで手を貸して創りだした諸前提を前もって計算に入れていたのです。「世界」 と世界の関心とはつねに喜ばしい偶然事にすぎなかったのであり、世界だけでは私はどうしようもないのです。理解の足りない者たちだけが私について根無し草だと陰口を叩いているのですが、私は最後までそれを自ら本当の事にしてしまいたくはありません。だからこそ私は、自分がドイツからもはや一ペニヒの報酬をも受け取れるのかすらもまだ全然確実でないような時点であるのに、私の新しい叙事作品、聖書小説について私になされた、それに同意すれば私の生活が保障されたであろうような全ての外国からの申し出を拒絶し、あらゆる危険を冒してまで作品の第一巻と第二巻をドイツ国内で、私が文学界に足を踏み入れて以来ずっと共同で仕事をしてきたベルリンの出版社で、出版させたのでした。 そして故郷からの数多くの報せが、私が正しいことをしたということを示してくれているのです。
 本記述の冒頭で述べた請願に話を戻します。私は内務省の方々に、私のドイツ市民たる証明書を更新する権限をチューリヒ総領事館に委託して頂くようお願い申し上げます。また帝国に対し、ミュンヘン警察当局に私の現地に残してきた財産を差し押さえから解放するよう指示して頂くことをお願い申し上げます。これは実際的な理由からばかりで――そこにも非常に重きが置かれているとはいえ――お願いするのではなく、理念上の理由、名誉にかかわる理由からなのです。なぜなら自分の国と不運にも仲違いした状態で生活することは私の望みではなく、私の本来的な運命を歪曲してしまうことを意味するでありましょうし、それに世界の眼にとって、ドイツの名誉もまたこのような状態から益をなすことがないであろうという気持ちからなのです。
 敬具
 トーマス・マン
 

 原文→ Thomas Mann: Briefwechsel mit seinem Verleger Bermann Fischer. S.Fischer Verlag. 1973. S.654-663.

ゾベルニクスのライブ

 zobernixlive

 ゾベルニクスが初ライブをします。
 2016.4.27 (Wed)
 @ 町田 The Play House

 来てくれる方はご一報ください。
 
 → ■ 『大学中退』 PV
 → ■ 1st Album 『親が悪い』

独文独歩 52

 巨大な数の滑稽と偉大

 数字はいかなるときでも無味乾燥な羅列であることはない。どんな数字も必ず人の情動に訴えかける力をもっている。1という数字には、孤高な自我、あるいは排他的な絶対者といったイメージが伴う。2という数字を見れば、相互の調和や対立が心に描かれる。それは決して1足す1とはイコールで結べない、その数字に固有の像なのだ。もちろんそんなものは数字自体の本質とは何ら関係のない、余計な作用の結果にすぎない。しかし人間はその余計物のせいで心を千々に乱すのである。
 ところで、人はあまりにも巨大な数を聞かされると、いささか面食らったような顔をせざるを得ない。何十万何百万という数は、何らの具体的なイメージにも変換することができないからである。
たとえば人間の数について考える。一人ひとりの顔と特徴を分けて同時に頭に入れておけるのは、せいぜい十人前後が限界である。キリストの使徒が十二人でなく百二十人だったと想像してみればよい。それは識別不可能なひとつの大衆にすぎず、誰かが裏切ったところで何の感興もないはずだ。「1」が12つ集まったところにはじめて物語は生まれる。
 第二次世界大戦の死者が四千万人であると聞かされても、悲惨さを実感するどころか、何やら愉快な気分になってしまいかねないのも、この非個人性が原因である。匿名の四千万人の死より、一人の人物の死のほうに、人は心を打たれ落涙する。「四千万人」という数字はもはや想像不可能でナンセンスな数字でしかなく、人間の集まりではないのだ。
 数が巨大になればなるほど、個別の構成単位「1」はフェードアウトしていく。その巨大さは、無意味さと滑稽さを帯びる。巨大な数は笑いを引き起こすようになる。
 ラブレーの巨人譚『ガルガンチュア』には、やけに細かい巨大な数字が乱用される。その細かさと巨大さは、笑いどころであり、滑稽さの引き立て役である。それは巨人ガルガンチュアのスケールの大きさを誇張するために用いられている。
 例えば、かれの母ガルガメルは「まるまる肥えた牛を、三六万七千と十四頭も屠らせて」臓物料理を作らせ、それを「一六ミュイと二樽、それに六壺分も」食べてしまい、そのせいで直腸がゆるんで脱肛してしまう。それが子宮に影響して赤子ガルガンチュアは逆流し、静脈を通って左の耳から生まれ出るのである。新生児ガルガンチュアの肌着には九〇〇オーヌの布、胴衣は八一三オーヌの布、腰ひもには一五〇九・五頭分の犬の革が使われ、ズボンには一一〇五オーヌと三分の一のウール布が使われ……と、実際にはまだまだ続くが、小数点以下にまで至るこの数字の細かさは、何とも奇妙である。
 学生になったガルガンチュアはパリに留学した際、物見高いパリ市民たちを放尿で大量溺死させる。「ガルガンチュアはにこにこしながら、みごとなブラゲットを外すと、逸物を空中高くつきだして、じゃあじゃあとおしっこをしたので、なんと二十六万四百十八人の人々が溺れてしまった――ただし、女子供をのぞいての話だが。」
 これほど深刻味のない虐殺シーンが他にあるだろうか? ここには、たとえば小学生の男子が決闘ごっこをするときに、互いにより高い「戦闘力」を叫び合うといった幼稚な光景と、きわめて類似の性癖が感じられる。
 巨大な数は決して、(形而上的な意味での)「無限」ではない、ということが重要である。戦闘力は「無限」であってはいけない。それは小学生同士のルールに反するはずだ。もし仮に一人の男子が禁を破り、戦闘力「無限」と言ったとしても、もう一人は「無限の無限倍」と叫ぶだろう。大小比較ができることこそが戦闘力の本質である。大小比較を絶した「無限」や「永遠」という、神的な概念の作用は、数字の作用とは全く異質だ。数字はあくまで地上の尺度にとどまる。銀河の大きさや光の速さすらも、メートル原器を基準に測るのだ。その地上性ゆえにはじめて、地上に抱えきれないほどの巨大な数には可笑しみが伴うのである。
 ラブレーの細かい数字の面白みは、「数えきれない」ものを数えてしまうことにある。数えられたものはすべて、決して抽象的神格的な「偉大さ」に達しない、単なる「馬鹿でかさ」なのだ。
 ところがこれに反して、ミハイル・バフチンは彼のラブレー論でこの馬鹿でかさを、民衆的な偉大さ、「リアリスティックな紋章性(エンブレマチカ)」として称揚する。上に引用した無意味な数のナンセンスな面白さが、偉大さとどう関わるというのか?
 バフチンの論は非常に刺激的なものである。彼はゲーテの言葉を引用して、ここでの「偉大さ」の、通常とかなり異なる意味合いを説明する:「衆にすぐれて偉大な人物は、より多くを有するにすぎない。かれらとて、大部分の人と長所や欠点を分ちもっている。ただそれらをより多くもっているにすぎない」。ラブレーの巨人は、大衆を超越した例外者としてのヒーロー(=超人)ではない。かといって、ビーダーマイヤー的な「小さな取るに足らない人間の偉大化」でもない。そうではなくて、飲酒、大食、排泄など、なべて庶民のなすことを、ただものすごい規模でするという点で偉大なのだ。
 この意味でならば、「馬鹿でかい数」は偉大さに通じるといえる。庶民と同じ地上に立った、デモクラティックなヒーローを描写するためには、ひたすら地上的な数値を並べることは理にかなっているからだ。また、数字のナンセンスは、度重なる下ネタのナンセンスと軌を一にしている。飲食・排泄・性といった、ほとんど虚無的といっても良い生命活動の肯定に基盤を置いた「偉大さ」という概念は、きわめて興味深い。これは全く神格性を帯びない偉大さである。偉大さとナンセンスとが不可分に同居しているのだ。
 古代においては、神格的な偉大さが、数の大きさで測られていた。旧約聖書の人物はみな何百歳に至るまで長生きするのであり、その個々の没年はかなり執拗に記録される。いにしえの人物はみな背丈が巨大であり、末代に生きるわれわれはその矮小化の結果なのだ、という考えは、日本も含むあらゆる地域の神話に存在する。「黄河沙」「那由多」「無量大数」なども全て仏教用語だ。
 昔の人間たちは、大きいこと、数が多いことを、本気で偉大であり神々しいと思っていたのである。現代のわれわれにとってそれは滑稽にすぎなくなってしまっているが、かれらにはその感覚は無縁だったのだ。今のわれわれが、三十三間堂を埋め尽くす大量の千手観音を観るとき、素直に偉大だと思って感動する人と、爆笑するか或いは馬鹿らしいと思う人と、どちらが多いだろうか。ぼくはその無意味な数の多さを滑稽に感じてしまう。人文主義者ラブレーもきっと爆笑しただろう。しかし見方を変えれば、巨大な数の滑稽さと偉大さとは、決して矛盾しないのかもしれない。手が千本あることや、それが何百体と並んでいることは、たしかに偉大だ! それは決して下らない考えではない。素朴で子供心を忘れない、太い根っこを持った発想である。

独文独歩 51

 語り手の介入
 ――ハルトマンの『グレゴーリウス』とマン『選ばれし人』の差異

 「私は喜びも災厄も被ったことがないし、生きていて不幸でも幸福でもない。」ichn gewan nie liep noch ungemach, / ich enlebe übele noch wol.(v.798-9 )『グレゴーリウス』の語り手ハルトマン・フォン・アウエは、王子の妹が、兄との愛で授かった赤子を、悲しみながらもやむなく海に流すにあたって、このように自分のことを述べる。兄妹の愛の喜び、死に別れる苦しみ、子を失う辛さなどを、語り手は経験したことがないという。「それゆえに私は、この姫の苦痛を明らかにし、言葉に表すべきであるのに、それができないのだ」(v.800-2)
 これは単なる自己弁解であるだけではなく、「筆舌に尽くしがたさ」のトポスの表れでもある。この宮廷叙事詩の聞き手であったと思われる高位の者たちもまた、妹姫のような大きな苦しみを嘗めた可能性はきわめて低い。作者の波乱のない人生は、そのまま一般的聞き手の人生の範例でもあるのだ。スペクタクルな展開を期待する聴衆は、登場人物の苦難をただ想像するのみである。
 ハルトマンにおける語り手の介入は、聞き手の物語への距離を意識化させつつも、同時に物語への共感を助けようとする働きを持つ。赤子の出生を記した石板について「私はこんな美しい石板を手に入れたことは一度もない」daz ich nie deheine / alsô guote gewan.(v.724-5)と語る時も事情は同じである。語り手はここで決して個人的な自己主張をしたいわけではなく、読者の立場に寄り添って、一緒に姫の苦悩や、石板の豪華さを想像しようとしているのだ。
 ところが、トーマス・マンが『選ばれし人』において語り手に設定した僧侶クレメンスにおいては、話者の介入の力点は全く違うところにある。一言でいえば、より個人的、自己愛的である。
 「ああ、この喪失[兄の死]について私は全く絶望してしまう! 書くことで私には真の苦悩というものが与えられるのだ。そのような真の苦悩は、僧侶としての私の人生には実際のところ、真の幸福と同様ほとんど与えられていないのである。ひょっとすると私が書いているのはただ、人間的な幸福と苦しみとの両方について、何か少しでも習得しようとするためにすぎないのかもしれない。」(S.57 )
 ここでは語り手の経験不足そのものがテーマ化されている。世間と没交渉である僧侶は、マンの終生の主題である、生から疎外されつつも生を表現しなければならない芸術家、という立場に重ね合わされている。登場人物の喜びや苦しみから自分はあまりに遠い存在であり、少しでもそれに近づくために自分はこの物語を書いているのだ、という、自己の矛盾した有り様を、クレメンスはやむにやまれず曝け出してしまう。そこに読者への呼びかけのトーンは無きに等しい。「言葉に表すべきであるのに、それができない」という「筆舌に尽くしがたさ」のトポスとも異なっている。
 兄王が妹姫の寝床に入って力ずくで思いを遂げるシーンにも、クレメンスの無経験の主張は顕著である。兄妹のピロートークは、内容の卑猥さに応じて中世フランス語に切り替わるが、最後に妹が兄の絶倫ぶりに感極まって叫ぶときにはドイツ語に戻る:「まあウィロ、なんて武器なの! 雄ヤギだわ、雄鶏だわ! あっ、もっとして! そう、もっともっと! あなた天使だわ! 天国のお友達!」その次の行ではさっそく語り手が顔を出す:「哀れな子たちよ! 私は自分が愛とかいうものと全然関わりがなくてよかった、泥沼の上で踊る鬼火、甘い悪魔の拷問に。」(S.35)
 僧侶として童貞を守っているクレメンスは、男女の交わりのシーンをこのように極端にグロテスクに、しかし明らかに興味津々に描く。「人間的な幸福」を「少しでも習得」するというのは、この場合は要するに出歯亀根性にすぎない。マンは話者クレメンスの口挟みによって、彼の見せかけの性的潔癖の滑稽さを意図的に演出している。
 ハルトマンの場合にもたしかに、性交の場面に語り手が現れる:「ああ、彼[兄王]はそこで何をするつもりだったのか? まったく、別々に寝ていたほうが良かったのに!」ouwî waz wolde er drunder? / jâ læge er baz besunder! (v.365-6)しかしこの叱責は、作者の見解を示すのではなく、むしろ聞く人の賛同を誘うような、パフォーマティヴな盛り上げの効果を狙ったものである。ここに語り手のエゴはそれほど見られない。
 豪華な石板の叙述についての個人的容喙もマンは利用し、作り変えている:「神が私にいつかこんな美しい書板を手に入れさせてくださるならいいのに! 私は書くことが好きだし、良質な書道具も好きである。しかし私は貧しい修道僧なので、そのような極上質の象牙で作られ、金で縁取られ、様々な宝石で周りを埋めつくされた石板は、決して我が持ち物にはならないのだ。それについて私はただ語れるだけであり、賞讃を通じて自分の貧しさを埋め合わせるより他ないのである。」(S.54)
 ハルトマンにおいては聞き手に書板の豪華さを想像させるための語りの技法であったものが、ここでは貧しい修道僧の単なる自分語りにさせられている。象牙や金や宝石といった地上の富に殊更に言及してしまうことで、クレメンスの煩悩と僧侶らしからぬ俗っぽさが、またしても強調されることになる。
 このような語り手の性格の差異は、作者と語り手の分離の有る無しに由来している。『グレゴーリウス』の語り手として名乗りを上げるのはハルトマン本人であり、作者と語り手は同一である。この場合に作者自身が自分語りを通じて自己を滑稽化するということは起こりにくいであろう。一方『選ばれし人』の作者はクレメンスという名の僧侶ではない。架空の語り手を媒介にしてトーマス・マンは物語とさらに遠い距離を取っている。それゆえに自分の書いていることをクレメンスの書いていることと称して、自らを戯画化することがはじめて可能になる。
 しかしマンがハルトマンの技法を換骨奪胎して自分のお得意の問題設定にすり替えてしまった以上、ハルトマンにおいて活きていた技法、すなわち読者への共感の喚起は失われてしまっている。ハルトマンの持っている開いた親しみやすさに対し、マンの語り手はより自閉的に造型されている。

 文献
 Hartmann Von Aue: Gregorius, Der Gute Sünder. Reclam.
 Thomas Mann: Der Erwählte. Fischer Taschenbuch Verlag. 1991

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